わたくしたちには、やろうという気はあるのでございます。
また、やめようという気はあるのでございます。
たとえばあと一膳のご飯、あと一本のお銚子、あともう一袋のポテトチップ、あともう一枚の板チョコなどでございます。
食べなくてもいいのになぁ、と思いつつ、手を伸ばしているわたくし、そしてみな様かと存じます。あとひとつの余分のうまさを、わたくしたちは知っているものでございます。
この強力なパワーこそ、習慣なのでございます。
習慣とは、精神力や気合の問題ではなく、ただ、これまでやってきた事実の重さなのでございます。
事実の重さは、強烈でございます。意志やなんやらでどうこうできないものでございます。
わたくしが、焼酎後のインスタントラーメンをやめることができたのは、ラーメン類を一切買わず、「食べない」という既成事実をこさえにこさえたからでございます。
満腹の上をいく満腹、甘さのけだるいまでの堪能、酔いの上の酔いなどは、答えられない快感かと存じます。食べた事実と快感を伴った記憶が、再び同じ行動にわたくしたちをいざなうのであります。
勉強をしようしようと思ってもできなかったり、また続かないという人は、古い習慣に邪魔をされているとお考えくださればと存じます。
さきほどの飲食の例でいいますと、止めようという新しい習慣を打ち立てる前に、古い習慣が完全勝利を収め、凱旋をあげているのでございます。祝杯とボールいっぱいのお菓子とともに。
勉強をいう新しい習慣は、テレビやゴロゴロというこれまでの古い習慣に、毎回ノックアウトされているのでございます。
古い習慣に打ち勝つのは、実に、実に難しいもの。事実の重さをこれでもかと、感じることでありましょう。
類は友を呼びます。古い習慣の方が圧倒的な量なのでありますから、新しき習慣はそそくさと敗北を帰すのでございます。
人間、急激に習慣を変えることはできないのは、こういう理由からなのであります。
本当に、徐々に徐々にしかかわれないのでございます。それは、事実の積み重ねが必要だからでございます。
薄皮をむくが如く変えていかないといけないのでございます。
新しい習慣の事実を、積み重ね積み重ねしていくしかないのであります。
習慣化されれば、確実に勉強量をこなすことができるのであります。そして確実な勉強量こそ、確かな実力へ昇華し、合格証書をもたらすのであります。
峠を越すと、あとは惰力惰性でやっていけるものでございます。
坂のうえまでは少しの前進でガマンして、坂道になれば一気に駆け下りればよいのでございます。
歩みは遅くてイライラするけど、事実はわたくしたちを裏切らないものでございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2007年8月14日 9:17 AM |
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些細な部分が全体を雄大に語ると申します。
たとえば、包丁の切れ具合は、実に多くのことを語るものでございます。
持ち主の性格から家事の腕までわかってしまうと申します。
ときはお盆、田舎から孫の顔を見ようとやってくる集団もあることでありましょう。
部屋の調度品や片付け具合、玄関の乱雑さ、料理の味だけで計られているのではないのでございます。見てくれだけを整えても仕方のない事を、肝に銘じる事でございます。
先ほどいいましたように、包丁の切れ具合、そして台所の機能具合など目で見えない箇所で大いに計られているのでございます。
台所関係は一朝一夕でできませんゆえに、どうしてもぼろが出てしまうのでございます。
自業自得と腹を決め、付け焼刃の対策などしないことでございます。
さらの包丁をおろしても、指をざっくり切るがオチでございます。
世のご亭主の方も、包丁の切れ味で「我が身の選択眼」がいかばかりであったかを確認してみるのもようございましょう。
なあに手伝うふりをして包丁を手に持てばよいだけの話でございます。
さてさて、普段の生活の心がけが大事なのは言うまでもございません。
生活の付け焼刃はスグにもげてしまいますが、とはいえ勉強の付け焼刃は推奨するものでございます。
直前期以外なら、「とりあえずやってしまえ」「とりあえず済ませてしまえ」の駆け込み精神が大切なのでございます。
こんだけしか時間がないや、と思うよりも、この時間でココまでなんとしてでも済ませてしまおう、ワカランモンは後回し、できるとこだけやっていこうで進んでいけばよいのであります。
とにかくやることが、お勉強では大事なのでございます。
付け焼刃ばかりだったのが、いつの日か本当の真剣に変わってしまうのが、人体の神秘でございます。
やれない理由を探すよりか、あっという間に適当に済ませてしまえばよいのでございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2007年8月13日 10:18 AM |
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お勉強というのも、一種のストレスなのでございます。
カラダに緊張を強いているものでございます。
ペンやマーカーを持つ指先、手首、肘の辺りをじっくりと観察していただければと存じます。
勉強時間以外のときと比較してみれば、よくわかるかと存じます。
それは「かたさ」が違うのでございます。
若い人はわからないかもしれませんが、ある程度年齢を経ると、カラダの諸所がかたくなるのでございます。
わたくしの場合は、手首に現れたのでございます。利き腕とそうでないほうの手首のかたさが、大きく違うのであります。
プールにて手首足首をくるくるしようとして、アレレと気づいた次第でございます。
左などは「むむむーー」と意識して動かさないとうまく回転しないほど、凝り固まっていたのでございます。
お勉強中は、無意識的に力が入るものでございます。
このとき、わたくしたちが意識できない筋肉も使われているのでございます。
意にならない筋肉のことを不随意筋と申します。不随意筋は体の筋肉の半数以上を占めてございます。
「力なんて入れてないよ」といいつつも、それは意識できていないだけで、実は微妙微量ながら力が入ってしまっているのでございます。
お勉強は脳みその作業なのに、お勉強後にグッタリと疲れるのは、カラダのいたるところで緊張状態が続いたからでございます。
わたくしたちは、見えないところで疲れていると申せましょう。
であるから、ストレッチ、カラダの伸びを必要としているものなのでございます。
大きく肩を回す、そして小さく肩を回してみる。腕を首の後ろに回し逆の手で肘を持ち、ゆっくり腱をのばしてみる。腕を胸の前に出しもうひとつの腕でクロスに交差させて伸ばしてみる、などなどでございます。
少しの軽運動が、カラダの凝りを防ぎます。真の疲労になる前に、手を打つべしでございます。
お勉強も体力如何でございます。
机の前に座ってもなんもする気がしないのは、実は気力や根気といったメンタルな問題ではなくて、根本的な体力低下の問題かもしれませぬ。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2007年8月10日 2:27 PM |
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