独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

形から

わたくしたちの文化には、「形から入る」という言がございます。
お茶やお花のオケイコから、剣道・柔道、空手の武道まで、「型」というものがございます。
うまくいったものでございます。
とりあえず「型」にさえ自分をあてはめていけば、多少見れたものになる、上達するという意味が、「型」にはございます。
これをお勉強に応用すると、やるやらないは別にして、「やる形」に自分をもっていき、抵抗少なく作業に当たろうとするやり方が生まれるのでございます。
とりあえずお勉強に取り組む姿勢にさえなれば何とかなる、とぐうたらな輩にとっては、真理のお言葉でございます。
机の上を片付けて、背筋を伸ばしてペンをとり、テキスト開いて読んでいけば、形だけでもお勉強になるものでございます。
気乗りがしない、ほかにしたいことがある、まあそうであってもとりあえずペンとテキストを前にしたら、30分程度の勉強はできるものでございます。
実はこの「ススメ」はとりあえず、メモ帳を開くことから書き始めるのでございます。ネタがなくても。
やらなあかんなぁとグウタラグウダラ、テレビをつけながら、肘をつきながら、片膝を立てながらのお勉強では、形とはいえないことでございましょう。
時間は食うは、進まないは、憶えないは、勉強それ自身の効能も怪しいものでございます。
まじめな姿勢、取り組む姿勢の形にさえなっていれば、なにかと進むものです。最低限度は進めれるわけでございます。
やりたくないナァと思っても、きりっとした姿勢で臨めば幾分かは進むもの。
気合を入れたり発奮するだけが、やる気を生むものではございません。
自然と自分をそのようにもっていく、という形から入るやり方もある、わたくしの戯言でございます。

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考えても仕方がない

抽象的な事を申しますが、ご了承願いたく存じます。
お勉強というのは、考えても仕方のない事実があるのでございます。
というのも、前提となる用語や語句、決まりごと、定義、公式などがシッカリ頭に根付いていないと、考えられないからでございます。
少なくとも、建設的な答えは得られない、と。
わたくしたちは、ある程度、知識を蓄えないと考えられないものでございます。
考えても考えても結果、「やっぱりわからないナァ」に至るのは、やはり知識というものが不足しているからと考える次第でございます。
知識は、思考のベースでございます。それが足りないうちは、どんなに考えても名案浮かばずでございましょう。
簡単にいえば、イーストも知らない人に、急にパンを作れてといっても無駄であろう、ということでございます。やっぱり膨らし粉くらいは知っておかないと。
「考える」それ自身単独では、あまり詮がないのでございます。
それでは、憶えてから考える、というのはどうでしょうか。
しかし、それも上策ではありません。えんえんと無味乾燥なテキストを憶えるなんて、たまったもんじゃありません。
単純な暗記・記憶は時間がかかるし、味気のないものでございます。塩っけのないポテトサラダをえんえんと食べるが如きでございます。独学では、即、挫折に繋がることでしょう。
シッカリ憶えるには、理解が求められます。
理解には、ある程度の前提知識が必要、知識を得るには憶えるしかない。。。しかし憶えるには。。。とループしていくのでございます。
結局のところ、お勉強のベースが繰り返しというのは、わたくしたちは、考えつつ憶え、憶えた事を元手に更に考えて理解を深め、理解が深まったが故にもっとシッカリ憶える、という円環のおこないなのだと思うものでございます。
自分の壁にやみくもにぶち当たっても仕方のないことでございます。
考えてもワカラナイなら、必要となる知識をシッカリ憶えて再挑戦。
憶えられないなら、じっくり考えて記憶に努める。
相反するようですが、らせん状にわたくしたちの実力は伸びていくものと、考えるたものでございます。
恋は一直線ですが、愛は巡り深まると、飛躍するわたくしでございます。

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忘れるから

お勉強の脂が乗り出すと、これもしよう、アレもしようと思うものでございます。
実力がついてくると、自分のできないところや弱点、穴などがわかるようになるもの。
敵は本能寺にあり、と明確な目標のもと、これらを埋めたくなるのは人情なのでございます。埋めるごとに、実力は完成に近づくので、その快感も忘れられません。
しかし、こういうやる気が出ているときに、仕事のトラブルや町内会の雑用、嫌な目・悔しい目に見舞われるものでございます。警察のいやらしい取締りとか。
冷や水をぶっ掛けられたような感じがするものでございます。
とはいえ、避けれるものは避け、避けられないなら甘んじて受けましょうぞ、が独学でございます。
取るに足らないトラブルや雑用に見舞われても、心構えと致しては、アセアセ焦らない、怒りに身を任せない、でございます。
というのも、結局のところ現実として、シッカリお勉強をしても忘れるからでございます。
いくらやる気があっても、忘れるものでございます。子供の誕生日だって怪しいもんだ。
記憶の事実を踏まえれば、トラブルの原因や雑用の発端人を、アーダコーダ憎んだり毒づいても仕方のないこと、極めて徒労なのでございます。
ぶちゃけいうと、罵るだけ損でして、変な吹き出物、大人にきびが出るくらいでございます。
100%のお勉強でも、何割かは忘却するものでございますから、お勉強時間を横から奪われても、そうカリカリする事はないのでございます。
無用に怒らず焦らず、「これだけの時間でできることを」と思って、絞りに絞った内容のお勉強をすればよいだけの話でございます。
それか、自分の最たる弱点や必要とすることをやっていけばよいのでございます。
シッカリやっても忘れる、を逆手にして、忘れるんだから焦ってカリカリ、毒づいてプリプリまでやる事はないのでございます。

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