先だっては、自己満足の罠に気をつけろと申しました。
しかし、存在するものはすべて論理的であると申します。この危険な自己満足も、役にはたっているものなのでございます。
たとえば、過度過大なプレッシャーに晒され続けたなら、人は己の心身のバランス取るため「ま、こんなもんでいいか」と考えるものでございます。
「過ぎたる」ことから心身の磨耗損耗を防ぐ意味、またプレッシャー・ストレスをやり過ごす意味で、自己満足は資するものなのでございましょう。
しかし問題にしたいのは、「いつまでもその状態でよい」ワケではないことでございます。
自己満足というのは、結局一時のシノギだからでございます。
一時シノギは、次のシノギを呼ぶだけでございまして、解決には至らないものでございます。
わたくしは、自己満足を否定しきるものではありません。ただ、状況環境が変われば自己満足からは抜け出なければならないのでございます。
自分がしんどくなってくるからでございます。
不完全燃焼と申しましょう、エネルギーが発散されていないのも、自己満足状態の特徴でございます。
溜まったエネルギーはどこぞで抜かないと、爆発してしまうもの。人間も獣でございますよ。
はらへって飯食っている以上、エネルギーは蓄積されているのでございます。それをどう抜くかなのでございます。
そのために目標目的があるのでございます。
しかし目標目的にも適したサイズがあるのでございます。過大な目標ではいけないのでございます。
大きな目標、それ自体はよいのです、しかし実際のエネルギーの向ける先は、『自分のできる小さなこと』に限定していくのでございます。
チョット軽め、ちょいとキツメの目標日課工程計画を、設定するのも勉強の重要な部分なのでございます。
トレーニング理論「超筋力」がいいますように、ちょっとづつ負荷を加えることで、人は実感をもって成長できるものなのでございます。
世は時に春、野良の草はなのように、心中の可能性の芽を出してみてはいかが、と思うわたくしでございます。
相変わらず汚い己の字を見ての発奮でございました。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2007年4月9日 5:17 PM |
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自己満足に浸ってしまった人は、救いようがないのでございます。
ハッキリいえば、ネギ以下の存在に成り果てたのでございます。
畑のネギや大根ですら、太陽の光を浴びようと伸びよう伸びようとしているものでございます。
対して自己満足に陥った人は、これでえーわと伸びることを止めてしまっているのでございます。
こうなるとつける薬がございません。
わたくしは、己を育てるものは己のみ、と考えるものでございます。もちろん、恩師師匠先生先達上司等々との接触の中で、心中の触媒が反応するのはいうまでもない事でございます。
難しくいってますが、カンタンにいえば、男はオンナに磨かれ、女はオトコを踏み台にして育つということでございます。
自己満足は、この「成長のための反応」をみずから放棄しているのでございます。
「己を育てるものは己のみ」と申しましたのは、反応するものをまず自分で持ってないと成長しようがないからでございます。
考えてください、恩師師匠先生先達上司いい男いい女、彼らに携わった人すべてが成長しているわけではないのでございます。
いい人だけどクソ女房の場合もありまして、わたしはこの人からいい影響を受けて尊敬さえしてるのに、彼に一番近い女房がそうでないのですから、成長のキッカケとはどこに潜んでいるかわからない、人それぞれである事を如実に語っていると考える次第でございます。
自己満足で成長反応を閉じてしまうと、どんどん伸びる機会、それも機会の絶対数を失うのでございます。
三日遭わざれば括目して見るべし、と申します。人は、機会と機縁と出会いがあれば三日で変わってしまうものでございます。恋せし乙女とオクサマ方の顔を較べてなさいまし。あんなに。。。
数ある人間の悪徳のなかで、自己満足は嫉妬に次ぐ危険性を持つのでございます。
十分気をつけていただきたく思うわたくしでございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2007年4月6日 8:14 PM |
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基本的に、わたくしは毎日コツコツとお勉強を進めることを推奨するものでございます。
なんもせずに寝てしまうよりかは、眠たいマナコをこすりながらの5分でも、お勉強なさるがよいと考えるものでございます。
5分あればいろいろできるものでして、離婚届にハンコも押せます、「別れよか」と終わりの言葉も発せます、腐れ縁を切ることもできるのでございます。
5分あれば、今日のサボリをカバーする次回の勉強の計画を立てることもできましょう。
5分あれば、あの用語の意味の確認、解法パターンの確認、解き方の確認、あの表あの図を見直すこともできるのでございます。
このような地味な作業の積み重ねが、アタマの中に沈殿し忘れぬ記憶の元となると考えるものでございます。
とはいえ、こうともいえます。
毎日学校に行く人が、アタマがいいとは限らない、成績上位者とは限らない。
毎日会社に行く人が、仕事ができるとは限らない。風邪をうつすだけの人もいる。なかにはインフルエンザで来る人もいる、何をしに来た!支社長命令で帰宅される人もいるものでございます。
毎日練習したからといって、常にレギュラーとは限らないものでございます。
必ずしも、毎日やったからといって効や験があるものではないのが、浮き世の習いなのでございます。
ですから、わたくしはサボリ、弩サボリを禁ずるものではないのでございます。
ときにぼーとするのもよいものでございます。帰ってそそくさ風呂入り飯食ってテレビも見ないで布団に入り、「アアこんな時間に」とひと息つくのは楽の極みでございます。
ベッドに入りむしゃむしゃと洋菓子和菓子をほおばるのもようございましょう。チョコクッキーにぼんち揚げのウルトラうまいが太るコンビで菓子の極みを味わうのもようございましょう。
720mlで数千円する日本酒大吟醸を寝転びながら飲むのも酔うございましょう。
ぽっと生まれる空白期間が、新たなやりよう進め方、解き方見落とし陥りようを発見するものでございます。
難しく考えてるだけやん、とか、欲張りすぎの予定やからや、腐れ縁を切るチャンスや、などなど。
サボリの多様は禁物でございますが、行き詰まりを感じたならどーんとサボるのも一手なのでございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2007年4月5日 8:14 PM |
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