独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

サムタイムロープライス

論理的なことを考えたく思います。
資格試験のお勉強とは、難しいことではありません。数百ページもの論理を追う問題など、ひとつも出ないからでございます。まず、出しようがございません。
試験とは、正解を置かねばなりませんから、意図的に論理に過ちを加えたりしております。
ですから、少し不自然なのでございます。
問題を解くための着目点さえわかってしまえば、あとは演習量だけがものをいうのでございます。
試験問題では、ちょっとした違和感を大事にすべきでございます。
なんかちょっとおかしいなぁ、という選択肢は、えてして間違いになっているものでございます。
ちょっとしたことを気づくかどうか、そこに合否を争う1点、2点が落ちているのでございます。
受験勉強のため、論理的な能力を鍛えたいのでしたら、十分、日常の生活の範囲内で賄えるものでございます。
日常の小さな相違点を大切にすることでございます。
それは、論理的に違うことでしょ、と突っ込む生活をするということでございます。
世のいたるところで、ヘンな文言・行為は満ち溢れているものでございます。
たとえば結婚前の約束とか。
しかし、「人」がらみの論理矛盾は言ってはならないのでございます。姑になるからでございます。
あまで世の事象に鋭い突っ込みをいれるのを、身を損なわないためにも徹してほしく存じます。
茶々を入れるのは、あくまで世の事象であります。たとえば、「エブリデーロープライス」といった罪のない文句でございます。
「エブリデーとは、毎日ではないか。この店は「ときどき」安いではないか。毎日では断じてない!従ってバツである」と突っ込むものでございます。
「サムタイムロープライス、としなければいけないではないか!」というわけでございます。
カレー粉安いなと思っていたら、全然入荷しなくなったり、値段を上げだしたりして、とてもじゃないが、エブリデーではないと噴したときに、勉強の機会があるのでございます。
なんかちょっと違うよね、という日常の疑問を丁寧におさえるだけでも、十分な選択し吟味能力に繋がっていくのでございます。

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薄皮

美しさは皮一枚、と申します。
人間の美醜など、ほんの数ミリの差でしかないのでございます。
しかし、そのわずかなもので、男女ともども人生が変わり、好転し、破綻するものでございます。
世の中には、ほんの少しで大きな差を生むものでございます。
薄皮をむく、という表現がございます。
理解というものは思いますに、やはり薄皮一枚の世界なのでございます。
ほんのちょっとしたことで、一気に氷解するものなのでございます。
しかし、その「ほんのちょっと」にたどり着くには、けっこう時間やら手間を食うものなのでございます。
物覚えの悪い人を見ると、イライラしてしまいますが、知っている人には当然なのに、知らない人には待ったく皆目わからない、ピンと来ない世界が理解なのでございます。
知らない人、わからない人に、どれだけ多くの言を重ねても、「?」であり、何かの拍子で「なあんだ」となるものでございます。
せっかくの理解の努力も、大半は失われてしまうものでございます。
ちなみにわたくしは、多くの資格試験で完全な理解に至ったものはすくのうございます。
実のところ、しっかり理解したというより、「このくらいなら点が取れる」という程度の把握が多かったなと自問する次第でございます。
「過去問の調子からすれば、まあこの程度でよかろう」という塩梅でございます。
実際のところ、完全に理解するのは難しいので、最終的な本試験の日までは、点を落とさない程度に把握しておけばよい、という姿勢で臨んでおりました。
試験勉強というのは、中・長期の期間を取るものでございます。
科目のなか、学科のなかには、「薄皮」のような、ほぼ偶然に近い形で理解に到るものも多いのでございます。
ゆえに、そんなものに徒労に終わりうる努力をするよりも、自分のできることを着実にやっていこうとした次第でございます。
本試験まで、直前期までは、適当と申しますか「この程度」くらいでおさえていけばよいと存じます。
一生懸命やって理解にいたるものではないのが、この薄皮。
できる部分からおさえ、できる部分が増えてから、よくわからない箇所を攻めていくのでございます。

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少しは論理的に

論理的、であることが苦手な方がございます。
そうはいっても、嘆くことは少しで結構でございます。
人間、論理で割り切ることはデキマセヌ。
毎日、鏡を見れば言わんとすることがわかるかと存じます。
毎日、お風呂に入るときに気づくかと存じます。
まあ、情緒的な方が人間味も出るし、周りは円滑になるものでございます。卑下することはそうそう、ないのでございます。
理屈一本の人間は、何か病的な面があるものでございます。何事も程がよい、と申します。
しかし、まったく論理性がなくてもよい、かというとそうでもないわけでありまして、山椒のように、多少はないと人生、うまく行かないのも必定でございます。
たとえば、多少の論理思考なのでございます。
1年に100万円預ければ、4ヵ月ごとに9万円が配当として支払われます。年あたり36万円、36%でまわせるという「お話」があったとしましょう。
よくよく考えてほしく思います。こういうことでございます。投資の話であるからウマイと思ってしまうのでございます。
金を貸すのと同じ理屈なのでございます。
サラ金から年利36%でカネを駆りまくっている親戚なり知人にですよ、あなたにも同様に年36万円の利子を払うから貸してくれ、といわれたとき、あなたはどうなのですか、ということです。
その親戚・知人、金を駆りまくっては高級外車、時計、身なり、飲みに金をつぎ込んでいたとしたら、あなたならどうするのでしょうか、というわけでございます。
おそらくは断ることでありましょう。
お金の動く名目が違うだけでございます。
「投資」か「出資」か「借金」かで、違うだけでございます。実質的なカネの動きを見てほしく存じます。
金を貸してくれ、といわれたら貸さないのに、投資で年利36%といわれると財布のひもが緩むのでございます。
不思議な話でございます。
理屈はいくらでも生み出せます。事実は、ひとつでございます。
多くをアレコレ考えるより、ひとつの事実、動かしえないものから考えるほうが、より論理的かと存じます。

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