独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

不安はどこからやってくる

試験勉強においても、不安というのは取り除いてしかるべきものでございます。
日常生活においても、気がかりなことは、できるだけ晴らしておくことが、よく生きるコツでございます。
連絡する、伝える、聞いてみる、考えてみる、質問してみる、おしゃべりする、BBSに書き込んで有識者うや経験者の談を尋ねる、といった作業を通して、できるだけ、不安の種を潰すか無くすか、減らすかしていった方が、よい結果が得られるものでございます。
心中に不安がありますと、取るに足らないことを仕損じたりするものでございます。
お勉強でも、不安は大敵でございまして、理解は悪くなるし、憶えは悪くなって、勉強効率は著しく低下してしまうものでございます。
不安を素早く解消することが、お勉強では重要な部分を為していることを、御理解頂ければと存じます。
それでは、お勉強の不安を解消するには何をしたらいいか、という問題になります。
まず、わたくしたちは、シンプルかつ単純に考えるべきかと存じます。
お勉強の不安はどこから来るのでしょうか。
お勉強の不安の根源は、試験勉強の最も単純な事実から生じてございます。
当たり前の話なのですが、わたしたちは、合格できるかどうかわかりません。
わたしたちは、究極的に、試験勉強は合格できるかどうかわからないのに、試験勉強をしなければいけないが故に、お勉強に不安を持つのでございます。
どんなにお勉強しても、ちょっとしたケアレスミスを犯せば、試験には落ちます。
どんなに模試でいい成績をとっても、それは合格を保証するものではありません。
何回テキストを読もうが、問題集を解こうが、過去問を繰り返そうが、確かに、合格は近づきはするも、100%合格できるとは断言できないものがあるのでございます。
いうならば、試験勉強は不安に運命付けられているのでございます。
つまり、試験勉強をする以上は、不安と戦っていかなければいけないのでございます。
もっというなら、お勉強とは不安と不即不離なものと考えておけばいいでしょう。
不安の発展形態である、次第に自分の今やっていることに意義が見出せなくなったり、先行きを慮ったりするのは、実は、試験勉強においては、晴れ、雨、曇り程度の、ごく自然の事柄であるとお考えくださればと存じます。
お勉強は根源的に不安に支配されておりますから、不安を根絶することはできませんが、その正体をしっておけば、大分、不安の対処も楽になるかと思います。
お勉強の不安が生じても、、別におかしいことではない、それが普通だ、程度におさえておけばよいかと存じます。
完全な解消や解決を目指すことはおやめくださればと存じます。
試験勉強の最終的な解決は合格以外ないわけであって、あれやこれや真剣に手立てを立てたところで、徒労に終わるのが落ちでございます。
不安は普通、だからこそ、くよくよしない!くらいの心持で目の前のことをこなしていけば、現在の心悩みなど、いつの間にか消えているかと考える次第でございます。

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機械的

ひとつひとつに心を込めて、といいますが、おそらく、それは嘘でありましょう。
1個や2個なら、心を込めて作ることはできましょう。まあ、100個や200個なら、修練と修行でできないことはないでしょう。
しかし、それ以上の数となれば、心を込めることはできないかと存じます。
ひとつひとつに心を込める代わりに、たくさんのものを作るシステム・機構に心を込めなければいけないからでございます。
つまり、どうしたら、たくさんの商品の質を落とさないようにできるか、品質を均等にできるかに、心を砕いていかなければいけないのでございます。
いうなれば、間接的に心を込めているわけでありまして、目の前のことに直接的に心を込めているわけではないのでございます。
相思相愛のふたりもいつの日か、母親としての君は好きだ、父親としてのあんたを愛している、という風になるのと同様の事情であるかと存じます。お前個人はどうでもよいという腹になるのでございます。
お勉強でも同様かと存じます。
全部が全部、心を込めて真剣にやれといわれても、無理な話でございます。
テキストは数百ページ以上、問題数もこれまた、数百にわたるものでありましょう。
全部に心を込めることなど、現実的にできないものでございます。
機械的にざざっと済ませてもよいところは、済ませてしまうべきでございます。
定型的にできることは、ざざっと効率よく済ませることが肝要であるかと存じます。
たとえば、表やリストの暗記など、心を込めれば憶えるというものではありません。
適当な語呂を作って、何回も何度も、機械的に見直した方が、憶えはよいかと存じます。
逆に、わからないところや、頻出事項・重要事項であるのに間違えてしまうといったところは、丁寧に見ていけばよいのでございます。
機械的におざなりに済ませてしまっても、問題の解決には程遠いことでありましょう。
必ずしも、心を込める=よいやり方ではありません。
そして、機械的=効率的なやり方ともいえません。
その場、そのとき、やることで、上手に切り替えていかねばなりません。
また、複合の場合もございます。つまり、機械的にやってみて、やるべきことが見つかったら心を込める作業もございます。たとえば、復習など、その最たる作業であるかと存じます。
復習は機械的に取り組んだ方が持続しますし、また、確実に見直す機会を確保することが可能となります。あれこれ考えず、とにかく復習には臨んだ方が効率的なのでございます。
しかし、復習をしていくうちに、いまいちできの悪いところ、記憶の怪しいところもあるかと存じます。
そういうときには、丁寧に丹念に、見直すなり解き直すなり読み直していけばよいのでございます。
全てが全てに全力を尽くせばよいというわけではないこと、また、全てを機械的に済ませばよいというわけでもないことを、御理解いただければと存じます。
逆に、そうした切り替えに鼻がくんくんと利くようになれば、よいお勉強になっているということができましょう。

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やってみるべし

最初から順風満帆とは行かないものでございます。
中盤になれば楽になる・・・わけには行かないものでございます。
終盤ともなれば・・・やることはもっと増えていくものでございます。
憶えてもすぐに忘れてしまうのが、わたくしたちの常でございます。
解けた問題も、いつの間にやらできなくなっているものでございます。
テキストも少し読むのをやめると、内容がつかめなくなってしまうものでございます。
学習計画を立てても、破綻と修正と建て直しの連続でございます。
とはいえ、それでもやっていけるのが、独学のよさかと存じます。
なにせ、失敗して誰それに迷惑がかかるわけではありません。金銭的なロスもわずかでございます。
失敗や責任は我一人の問題でありまして、その分、気は大いに楽なのでございます。
下手を打っても、1年を棒に振るくらいでございます。ほんとうに、その程度でしかないことを、まずは、ご理解頂ければと存じます。
独学のモットーは、やってみるべし、でございます。
十分な準備をしてから進むのではありません。
先ほどもいいましたように、お勉強の失敗などそれほどのものではないからでございます。
丹念な準備をしてからよりも、さっさと手を付けて、走り転びつやっていくほうが、理解も早く効率的なのでございます。
不完全でもよいのでございます。お勉強では、とにかく、やってみることが大切なのでございます。
しんどくて全くやる気が出なくても、1文1句、1問でよいのでございます。とにかく、やってみることが重要なのでございます。
完全な勉強を求めて気を揉んだり、時間を浪費するよりも、不完全でも敢えて進む方が賢明なのでございます。
なにせ、よくわからないことばかりでございます。遠巻きにしてあれこれ論じるよりも、近寄ってその招待が何かをつかむ方が賢明なのでございます。
「よくできること」、「よく知りたること」、「ある程度見当が付くもの」、「重大な問題」については、入念な準備、情報収集、環境の見極めなどが、重要な役割を担っております。
いきなり預貯金をはたいて商売をするのに、全くの徒手空拳では先は見えていることでありましょう。少なくとも、3年計画は見通しを立てているべきでありましょう。
先のことはよくはわからないからといって、「やってみるべし」では、あまりにいただけないものでございます。こうした場合は、野放図な「やってみる」はよろしくないのでございます。
お勉強はいくら「やってみても」よいものとなってございます。
不完全でも、できなくても、少しだけでも、どんどんとやっていけばよいのでございます。
しまった!と思ったら、元の道に戻れば、引き返せば、スタートからやり直せばいいだけのことでございます。
多くの合格者は、不完全なところから試験勉強を始め、そして、合格を果たしているのでございます。
やっていくうちにわかってくることが多いことを、再確認してくださればと存じます。

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