独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

運・鈍・根

物事をうまく運ぶコツを要約して、「運・鈍・根」という古人の言がございます。
運というのは、そのままの運否天賦の運ではないように思います。
運というのは、多少なりともよくすることが出来るかと考えます。
たとえば、身の回りを整理整頓したり、身嗜みを整えたり、散らかっているところを掃除するといったことは、多少なりとも運を良くするものと考える次第でございます。
そんなことは無い、と思う方も居られるかもしれません。
では、こう考えてみればわかるかと存じます。
こういう神社をどうお思いになるでしょうか。境内は落ち葉で一杯、所々にコンビニゴミがあり、手を洗う手水舎は水も出ておらず、手拭も土色。お札売ります・お守り売りますの看板だけは多数。境内の半分は神主や神社関係者の駐車場になっている神社でございます。
皆様は、こうした神社に、七五三や厄払いに行くでしょうか。おそらくは行かないかと思います。
このような、祈る気にもならない神社には、お賽銭の1円・10円すらもったいなく感じるものでございます。
こうして、この散らかって乱雑、やる気の無い神社は、お賽銭1円の収入の途もなくなるのでございます。
有体にいえば、1円の金運すら呼べない、というわけでございます。
整理整頓や身嗜みで運が良くなるわけはないと言い切る人は、だらしない・不潔な格好でお仕事に行って欲しく思います。すぐさま、お仕事は来なくなることでしょう。
整理整頓・掃除・身嗜みが、わたくしたちの運の大事な部分を構成していることを、ご理解いただければと存じます。
さて次は、「鈍」でございます。
鈍というのは鈍さのことでございます。
お勉強においては、聡いよりも鈍い方が丁度よいのでございます。
聡いと、確かにお勉強は進んでいきますが、脆いといいますが軟いといいますか、トラブルやアクシデントには弱いのでございます。
お勉強というのは過敏すぎてもよろしくありません。
不安はより大きくなり、心配の種は引きも切らず、結局その分だけ、心労が祟ったりやる気が出なくなるからでございます。
鈍さの鈍感さが、事態を改善することもあることを意識して欲しく存じます。
最後の「根」でありますが、根気を指すことは、見ただけでもお分かりいただけるかと存じます。
根気・継続は、お勉強の要、コツでございます。どんなことでも続ければマスターをすることが可能なのは、これまでのススメでも何回も述べて参りました。
しかし、この「根」は、そうした忍耐力や耐久性のみに限らないのでございます。
そのまま、根っこの「根」とも読めるかと存じます。
植物というのは、葉や茎が多少痛もうとも、根っこさえ丈夫であれば、生きていくことが可能でございます。
逆に、葉や茎や幹がどれほど逞しくても、根っこの部分が腐ってしまえば、早晩に倒れるのは締めの理であるかと存じます。
お勉強においての「根」とは、自分のやる気のもとや、知恵・知識の供給源を大切にせよという意味合いであるかと存じます。
落ち込んだときにする趣味や気晴らしも、「根」にカテゴライズされることでありましょう。
背水の陣のお勉強はたいがい失敗します。
自分の源泉といいますか、そうした自分の根っこ部分を大切に扱うようにという意味も含んでいると考える次第でございます。

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だからといって

できるようになるのは、神秘の世界の物語ございます。
幾分か、わたくしたちの努力の範疇を超えた事柄であることに、ご配慮くださればと存じます。
何時、どうすればできるようになるのか、それは人のあずかり知らない事なのでございます。
まず、何時できるようになるのか、というのは、はっきりと捉えられません。
工業製品のようには、わたくしたちの「できる」は出来上がらないのでございます。
できる方法というのも、曖昧でございます。
いろいろなやり方や手段方法が、巷には溢れかえってございます。
それは即ち、それだけ、多数の方法があるということでございます。
逆にいえば、「できる」ようになるには、決まった手順や方法が無いということでございます。
このように、できるようになるのは、確実でありながら不確実という、至極はっきりしない事情下にあるのでございます。
これが、何かを学ぶときの障壁になるのでございます。
お勉強を含めて、ピアノ、ギター、水泳、絵画などなど、ほとんどのことは、練習して訓練していけばできるようになります。
どんなことでも、どれほどの量でも憶えることができます。
高々、テキストの1冊、問題集・過去問の数冊の内容など、人間の作ったものですから、可能の範疇に入っているものでございます。
できるようにはなるのでございます。
しかしながら、いつできるようになるのか、どうすればできるようになるのかは、至って不明なのでございます。
ゲームのように、「○○はレベルアップした!」というわけでもございません。実際のところ、ぴかーんと閃いてできるようになったのを自覚するのは、ごくごく、稀なのでございます。
何時の間にやら、できるようになっていたというのが、真実の姿であるかと存じます。
できるということには、深くて暗い古井戸のような、よくわからないメカニズムが働いてございます。
「やれやれ!!」と口をすっぱくして言い付けたのにも拘らず、一向にやる気配がないので、もうこいつはだめだと諦めrた途端に、できるようになる御人も居られます。あなたですよ。1回は見捨てられてますよ。
大事な事実は以下の通りでございます。
教わったからといって「できる」のではございません。
理解したからといって「できる」ものではございません。
よい教材、よい解説があっても「できる」わけではありません。
しっかり理解したとしても、正確に憶えても、必ずしも、100%「できる」に繋がるわけではないのでございます。
何時の間にやら、ひょんなことからできるようになって、気が付いたらできて行くようになるのでございます。
お勉強には忍耐力が必要といわれておりますが、少しく言葉が違うかと存じます。
できるようになるまでの時間を、気楽に構える姿勢でございます。
練習して訓練していけば、何時の日かできるようにはなります。
そのときが来るまで、焦らずのん気に構えられるかどうかが、できるかどうかの境目なのでございます。

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太陽のように

先日のススメでは、できるようになるまで訓練するように申し上げました。
しかし、ここに注意しなければならないことがございます。
それは、太陽のように、暖かく見守ることでございます。
やってはいけないのは、鬼教官のように峻厳な態度で当たってはいけないのでございます。
北風のように、びゅうびゅう寒い風を送ってもコートが取れないのと同様の理でございます。
馬に鞭ばかりをくれても、走らなくなるのと同様の話でございます。
もちろんのこと、厳しく当たることも大切なのでございます。
だらだら、ぐだぐだ。
のろのろ、とろとろ。
怠惰と惰性の間を行きつ戻りつして、これでは・このままではダメになると思う下降線を描いているときには、厳しい「活」が効いて来るのでございます。
生温い現状から抜け出すには、すべての着物を脱ぎ捨て、あえて寒中に入っていかなければいけないこともあるでしょう。
そうした転機の時には、峻厳に己を律していかなければいけないのでございます。
しかしながら、わたくしたちは、そんなのに厳しい目に毎日毎回遭うとイヤンになる凡人でございます。
ときどきであるから、作用と効能があるのでございます。
何度も続けば、いやになるものでございます。
いやになれば、お勉強から遠ざかってしまうのは、これまた自然の理なのでございます。
試験勉強は、継続こそがポイントでございます。継続さえできれば、誰でもある程度の実力までは到達できてしまうのでございます。
わたくしたちは、「続ける」という観点を忘れてはいけないのでございます。
学校時分には、厳しい先生という方は居られました。
しかし、どこか暖かいところ、楽しいところ、面白いところがあったように思います。
100%に近い厳しさなどは、どこか人気の居ない山の中の修行で求められるものでございます。
普通に生きているわたくしたちには、100%の厳しさなど要求されていないのでございます。
殊、試験勉強というのは、そのほとんどが「できない」の連続でございます。
できることなどは、過去問演習後しばらくたって後に、実感していくものでございます。
「できない」がほとんどでございます。
それなのに、厳しい仕打ちをしたらば、お勉強がどうなるかは想像に難くないことでありましょう。
自分の出来なさ加減を、厳しくも暖かく見守ることでございます。
失笑するのもようございます。
うひひ、くひひと己のできなさ加減を笑い飛ばすのもようございましょう。
こんなことができなくてどうするんだ、という発奮が2割。
うひひ、まだできへんなあ、生暖かく見守るのが8割。
こうした割合で見ていけば、お勉強は続いていくかと存じます。
厳しさの中の優しさ、寒中の暖こそが、万事に渡るコツであると存じます。

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