独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

カンの勉強

試験では、山をかけるとか、カンで答えるといったことがございます。
皆さんの多くも、学生自分に何度かご経験があるかと存じます。
何回かは山勘があたって、ほっと一息胸をなでおろしたこともあるかと存じます。
独学では、こうしたカンを否定するわけではございません。
うまくいけば、少ない労力で多くの利を手にすることができますし、また、なかなかに当たるものでありますから、馬鹿にならないのでございます。
というのも、お勉強を続けてある程度の実力が蓄えられると、(これ、でそう)とか、(このあたりは妖しいな)という霊感ともいうべき発見や気付き、思い為しがあるものでございます。
そして、こうしたカンの働いたところを丁寧におさえていくと、本試験でどんぴしゃに当って、1点や2点の点数の上乗せになることがあるのでございます。
とはいえ、ならば、全てをカンでやればいいのかといえば、そうでもないのでございます。
もし、半年や1年といった試験勉強の期間をじゅうぶんに確保できるのでしたら、カン型の試験勉強は大損でございます。
カンは当たるかもしれませんが、根本的に当たれば儲け、外れて普通という背景がございます。
本試験の問題すべてをカンで解いて正解を叩き出すことなどは、魔法か唐人手品のようなものでございます。
わたくし個人の意見ですが、本試験問題の全問をカンで答えて合格するインスピレーションや直感があるなら、他の面で大活躍できるかと思います。
わざわざお勉強などでそれを発揮する必要も、お勉強で才を浪費することもないかと考えます。
ま、ほとんどの人は、卓越した霊感などないわけですから、カンが効くからといっても、それだけで合格できるわけではありません。
いくらカンがあたるからとはいえ、知識の抜け落ちの多いスカスカの状態で本試験に臨んでも、惨憺たる結果が待ち受けるのみでございます。
基本的に、十分な時間があるなら、テキストや問題集、過去問をみっちり仕上げた方が合格は確実でございます。
また、勉強時間がないのでカンで済ましちまえと運否天賦のお勉強をするよりかは、計画を見直した余裕のあるお勉強とするほうが、時間と労力を無駄にしないかと存じます。
カンに頼らずとも、テキストを読み、問題集を解いてできるようになる問題で着実に点を重ねた方が、合格は近うございます。
どうにも難しい問題や対策にどえらい手間と労力がかかる問題にはカンを働かせ、通常の努力で解ける問題はカンを使わず、いうなれば、カンの発揮をおさえて、1点を取っていくのが賢明な解き方であるかと考えます。
カンも、お勉強においては重要な要素でございます。また、愚直な努力のみが、合格に至る道ではございません。
できる問題、解ける問題は着実な努力で、「ピンッ!」と来ないようにしていただければと思います。
できない問題・わからない問題のみに、カンを働かせる方がよろしいかと存じます。

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頭に汗を

うまくいかないとその時間は無駄であった、そのお勉強は徒労であったと考える人がおられるかと存じます。
テキストがすらすらと読めないと、問題がバリバリと解けないと、ぐんぐんと憶えていかないとお勉強ではない、と考えている人がおられるかと存じます。
しかし、それらは、間違っていると断言できるのでございます。
そうしたお勉強ができるのはごく一部の人の話でございます。
凡人たるわたくしたちは、ときどきそうなるものでありまして、常に毎回毎度、好調なお勉強を当てにしてはいけないのでございます。
それらは不適切なイメージでありまして、それをそっくりそのまま、己に当てはめることなどできないのでございます。
では、そうしたイメージがどうして定着するかというと、幼少期の記憶にあるのではないかと考える次第でございます。
神童と呼ばれる方がございます。
凄くお勉強のできる子供のことでございます。おそらく、ひとりかふたり、そう呼ばれた人の思い出があるのではないかと存じます。
しかしながら、クラス会や同窓会でかつての神童と呼ばれた人と再開し話してみると、いたって普通、いや、中には劣化退化してしまったのではないかと訝る、残念な人の方が多いのではないかと存じます。
おそらく、昔に神童や秀才と呼ばれた人の8割は、普通の人になっているかと存じます。
では、どうして、そうなるのかといえば、その人に罪はないのでございます。
ただ、彼ら彼女を見ていたわたくしたちの方に問題があるのでございます。
そう、わたくしたちは、勝手に勉強のできる人や頭の良い人に特定のイメージを抱いてきただけなのでございます。
急に人の頭の中身は変わりませんので、大人になって普通になってしまったという人は、子供のときもごく普通の人であったことでしょう。
それなのに、頭がよさそうに見えるだけで、勝手なイメージの投げかけていたのが、かつてのわたくしたちなのでございます。
こうしたイメージの原体が、間違った勉強観の原因になるのではないかと考える次第でございます。
お勉強というのは、ほとんどの人がうんうん唸って考えたり、忘れては覚え、問題を解いては間違える繰り返しでございます。
したり顔に見えていた人も、見えないところで努力をしているものなのでございます。していないように見えて、きっちりやるべきことは行っているのでございます。また、中には意図的に、努力をしていない風を見せていた人もいたことでありましょう。
最初の方に述べた、一見無駄や徒労に見えるお勉強が、お勉強の真実なのでございます。
この点、取り違いのないようにしてくださればと存じます。
もう一点、論拠を示しておきたいと思います。
スポーツやトレーニングを念頭に置いてください。
素振りを何回しても1点は入りませんし、シュートの練習をしても同様に、何の点数にもなりません。走っても筋トレしても、何の点も入りません。
では、そうした汗をかく作業は無駄であり、徒労であるといえるでしょうか。然りと答える人はいないかと思います。
練習の汗が試合の1点になるのでありまして、それをはしょってしまえば、小学生のチームにさえ負けることでしょう。
お勉強も同様であるかと存じます。直接、結果や成果につながらなかったといって投げ出さないことでございます。
頭に汗をかくようなお勉強は決して無駄ではないことを、再度ご確認くださればと存じます。

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自分の力を発揮

料理法や料理の仕方を追い求める方がございます。
料理の教室に通い、本を読み、雑誌の記事を丹念に見、メモを取ってございます。
手作りパンやら自家製ハム、ポトフの作り方といった、世界のあらゆるレシピ・資料をてんこもりに集めてございます。
しかしながら、一向に料理が上達しない方がございます。また、ひとつも料理しない方もございます。
ほかでもないわたくしの母上と妹君でございます。
母上の得意料理は水炊き、湯豆腐、冷奴でございます。
こうした低カロリーでシンプルな料理で育ったからこそ、わたくしはこの歳まで大病せず、健康に暮らせたのでありましょう。
本当に両手を合わせて拝みたくなるほどありがたい気持ちで一杯でございます。
一方の妹君は何十万とパン教室に支払って師範の資格があるにもかかわらず、これまでパンのひとつも作ったことがございません。
彼女曰く「パンは、作るより買った方が経済的かつ合理的である」と、まるで経済学者のように結論を仰られるのですが、ではいったい何のためのパン師範なのか、全くの摩訶不思議でございます。
師範ともなれば作らなくても良いのかと、ひとりごちているわたくしでございます。
さて、先日、わたくしはある料理法を会得したのでございます。それは、「白菜と豚肉の重ね蒸し」という料理でございます。
作り方は簡単で、白菜を切る、鍋に敷く、豚肉をその上に敷く、また白菜を敷く、豚肉を再度敷く、といった感じで鍋一杯になるまで繰り返します。
最後に酒を適当に振りかけて蓋をして、火にかけます。水も何も入れないのがポイントでございます。
時間は分量によって異なりますが、10分くらいです。豚肉が硬くなる前に火を止めるのが良いかと思います。
蒸せたら、ぽん酢に柚子胡椒か七味唐辛子で頂きます。
やっていただければ氷解するかと思いますが、べらぼうにおいしいのでございます。
おそらくは、これまで食べたことのない分量の白菜を食すことになるでしょう。それほど、はむはむと食べに食べてしまうのでございます。
豚肉のうまみは白菜に吸収され、白菜の水っ気は豚肉の油と融合し濃密なスープと化し、何ともおいしい鍋へと変貌するのでございます。
調理など切って敷くだけという簡単さでこの味。まったくコストパフォーマンスに優れた一品としかいいようがございません。
この重ね蒸しは、お互いの持ち味が最大限に活きる調理を施したが故の結果であるかと考える次第でございます。
さて、お勉強とこの重ね蒸しが何の関係があるかといいますと、結局のところ、自分の力を発揮することほど、効率の良いことはないということでございます。
お勉強の方法やノウハウが100や200あっても、自分の力が発揮できなければ、結果がついてこないものでございます。
逆に、あの重ね蒸しのように、ひとつふたつのシンプルなやり方でも、自分の力が最大限に発揮できるならば、そのほかの方法論などうっちゃってもよろしいのでございます。
自分が活きるかどうかを、方法論ややり方を追いかける以上に考えなければならないかと存じます。

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