独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

ほかごとでも

お勉強に限らないことでございます。なんでも最初が難しいもの、大変なものとなってございます。
最初に職場に立ったときのことを思い出してほしく存じます。
1日目はぐったりと、3日経っても気疲れして、1週間はひどく疲れたのではないかと存じます。
まだまだ慣れは致しません。1ヶ月経っても、3ヶ月経ってもなかなかに疲れは引かないものでございます。
半年ほど経って漸く仕事にも慣れ、余暇を過ごす余裕も生まれてくるのではないかと存じます。
最初は簡単に見えていても、いざやってみると、見えなかった問題点が噴出しててんやわんやするものでございます。
最初の方は何かと手を焼き、うまくいかないことが多いかと存じますす。
大変であるからこそ、作業の難易度、量を見据え、自分の能力、経験、その他お勉強の進み具合を勘案して、現状の認識をしてくださればと存じます。
さて、これをお読みの方の中には、大変だからこそ「やれ」といわれた方もおられるかもしれません。
確かにその言は、一理どころか百理ある処世訓でございます。
大変なものは嫌でありますから、距離を取っていたりぐずぐずしていると、余計に嫌が募るものでございます。
イヤイヤ感が溜まりに溜まると、作業そのもの、お勉強自体を放棄することになりかねないのでございます。
だからこそ、大変なときこそ逃げずにやれという言があるのでございます。
この言は、100人中98人は賛同する正論でございます。
しかしながら、わたくしは、それもそうだが100%ではないと考える次第でございます。
一時、「がむしゃら」という言葉がもてはやされたときがございます。
確かに、歩兵を敵の要塞へ突撃させるためには、「がむしゃら」が指導方針として適切でありましょう。
しかし、いまどきそんな作戦案を提出する将官などございません。
そんな作戦を認可した政治家は次の選挙で落ちるのは目に見えているからでございます。
もっと被害の少ないやり方はないのか、それを考えるのが昨今の将官の役目であるかと存じます。
大変なときの行動は大切ではありますが、何か、壁にたまごをぶつけるような空しさや徒労感をもつようになったときは、がむしゃらではよくないサインでございます。
大変であれば、そこから逸れてみるのも一策であるかと考えます。
うまくいかないなら、どうしたらうまくいくかと考えてみたり、別のやり方はないかと模索するのもよいでしょう。
同じことでもやり方を変えると、ぐっとやり易くもなりますし、また、新鮮さも違うものでございます。
5分でテキストを何ページ読めるか、過去問1年分を復習まで含めて何分でできるか、30分でできないかなど、時間で作業を区切るのも一手でございます。
また、あーして、こーしてと今後の学習計画を立てるだけでも、良いかと存じます。
計画作りは、息抜きにもなるうえに、これからの進捗を踏まえるうえで重要な作業でもあります。
実行や行動は大切ではありますが、それがすべてではありません。
間違ったこと、誤ったこと、方向がそれている、などなど、ダメに向かって実行・行動しても無駄でございます。
やれ!やれ!と自分を駆り立てるような真似もほどほどにするのが肝心であるかと存じます。

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曖昧だと

やろうと思っていること、やらなくてはいけないことが明白かどうか、まずはそれを調べることが先決であるかと存じます。
中心部分がしっかりしていないと、以後の作業はグダグダになるものでございます。
コンセプトが曖昧な芝居や映画は、えてしてダメでございます。どれだけ演出や音楽が優れていても、悪く言えば、それらでごまかそうとしても、駄作にしかならないものでございます。
開幕5分で心をつかめなかった作品は、例外なくほぼ駄作で終わります。
タイトルすら憶えられずに消え去る作品となるものでございます。
こいつはダメだと、最初の5分で何度思ったことか、苦い経験を皆様お持ちであるかと存じます。
期待するのは結構疲れるので、今後の鑑賞に用立たせてくださればと存じます。
さて、お勉強についてでございます。
基本的に、やるべき対象とやるべきことの内容が曖昧であれば、お皿が宙に浮かぶくらいに考えても、徒労に終わるものでございます。
もう子供ではありません。
仕事であれ、家事であれ、やるべき対象とやるべきことが明確であれば、できるものでございます。
できないときというのは、よくはわからないもの、よく知らないものを、知ったようにわかっているかのように振舞うときによく起きるのでございます。
全くできないことには、多少距離を取って棒で突くなり、軽く一当てするなどして、いきなり完成させてやろうとかやりきってやろうとかを夢にも思わないものでございます。
やるべき対象とやるべきことが曖昧であるからこそ、うまくいかないことにご理解頂ければと存じます。
きちんと段取りを決めずに作業に臨むから、気持ちは空回りしてその場で地団駄踏むかのような結果になってしまうのでございます。
2:8の法則と呼ばれるものがございます。
全体のうちの重要な2割の部分に時間と作業をしっかり割けば、残る8割など終わったも同然となる法則のことでございます。
やるべき対象とやるべきことをはっきりさせることは、この法則の「2」の部分でございます。
何をするのかはっきりさせること、目標をしっかり定めること、曖昧なところをなくすこと、これらは諸作業の基本であるかと存じます。
うまくいかないときは、自分が闇雲に作業に臨んでいないか、やるべきことを舐めて呑んでいないかをご確認くださればと存じます。
少し作業の力点を変えるだけで、進捗はスムーズと相なります。
やるべき対象とやるべきことに曖昧さが含まれていると、その作業時間は棒に振るとお考えくださればと存じます。

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怒りと恨み

怒りと恨みという2大感情は、持たないほうが良いといわれてございます。
これらふたつの感情を抱いていると、身体のほうが悲鳴をあげるからでございます。
何かに怒ると、頭がかあっとするというのは、適当な形容詞・擬態語であるかと考えます。
その言の通りに、頭が熱くなって血管がぴくぴくするのを体感できるかと存じます。
そう、怒ると血の巡りが良くなり過ぎてしまい、おそらくは、血管や心臓の負担が急激に高まるのでございます。
怒ったときに深呼吸をしてくださればと存じます。
息の調子と心拍が普段と全く違うことに気づくかと存じます。
いったん怒りの状態に入ると、呼吸も息も荒々しく変わってしまい、元に戻そうとしてもなかなかうまくいかないのでございます。
元の状態に戻るのには、結構な時間がかかることを発見するかと存じます。
怒りっぽい人は早死にするといいますが、さもあらん、と思えるような心身の状態になることを、お確かめくださればと存じます。
さて、上記の怒りは本当にわかりやすいのですが、身体で恨みを体感するのは難しいものがございます。
恨みというのは、内にこもる点が特徴であるかと存じます。
ある意味、怒りとは外に向かって発奮されるのですが、恨みとは、しんしんと中へ中へ、内へ内へと入っていくような感じが致します。
恨みが身体に好くないのは、どんどんと、発散されないエネルギーが身体に溜め込まれていくことでありましょう。
ガソリンや灯油入りのポリタンクを家に買いこんでしまっていくようなものでありまして、おちおち、タバコも喫えないかと存じます。
わずかな火の不始末で爆発する危険性は言うまでもありません。
この爆発が発病に当たると考えれば、シックリ来るのではないかと存じます。
しかしながら、これら怒りと恨みは、全く無駄ではないのでございます。
意味や効用があるからこそ、人体に備え付けられている機能ということができましょう。
料理でたとえるなら、怒りや恨みは香辛料の類と考えてもよろしいかと存じます。
スパイスを効かせ過ぎると料理はダメになってしまいますが、全く無いとそれはそれでおいしさは半減するものでございます。胡椒のないステーキというのも、あれかなあと。
怒りも恨みもスパイス程度に、時には摂取することをお勧めしたく存じます。
たとえば、グダグダした日が続いたり、気力が続かない日が続いたり、入ってはいけないのにのん気モードになってしまったときなどでございます。
こうした時には、なぜ、自分はお勉強を志したのか、どうして、勉強しようかと思ったのか、その原点に立ち返っていただきたく存じます。
(あのクソガキ、しゃあしゃあと)とか、(あのダボ、ぬけぬけと言いよる)とか、(この恨み晴らさでおくべきか)など、かつて在りしことを思い出すのではないかと存じます。
ありありとそれらの日を思い出せば、次第に心がふつふつとたぎってくるのではないかと存じます。
やってやれないことはない!と、猛烈に意識が固まっていく自分を発見するかと思います。
時には怒りや恨みに身を任せ、原始的なパワーを取り戻すのも方便であるかと存じます。

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