基本的に、お勉強といいますのは、不安との戦いでございます。
といいますのも、昨日確かに憶えたことでも、今日の昼となれば忘れていることがあるからでございます。
昨日憶えたことですら忘れるのであれば、1週間前にやったこと、1ヶ月前にやったことなど、一体どうなるのだろう・・・と不安に思い出すのも致し方のないことかと思います。
しかしながら、こうした忘却の恐怖や不安をあまり思わないことを、皆様方にご助言したく存じます。
忘れることを恐れて怯んでしまう方が、体力的に精神力的にも無駄でございます。
取るに足らないことで、有限のエネルギーを浪費してはなりません。
基本的な認識として、わたくしたちは、やったことはやった分だけ頭に入って行く事実をお忘れなきよう、釘を刺しておきたく存じます。
やったことは、相応にして頭に入っていきます。ただ、わたくしたちは、完全には憶えていないのでございます。
逆に言えば、不完全にしか憶えていないというわけですが、ということは、やったことの全てを完全に忘れたわけではない、ということができるのでございます。
過去お勉強したことに対して、全く見覚えすらないという事態には、それほど遭遇しないかと存じます。
正確に言うなら、あっちやこっちの細かい部分を忘れていたして、記憶が不完全な状態に止まっているわけでありまして、100%完全に忘れてはいないわけでございます。
半熟たまごのように、固まりきっていない状態であるといえましょう。
かつてやったことを忘れるのは、全ての受験生の性でございます。
どれほどトップクラスの人でも、忘れてしまうもの。違いがでるのは、不完全な記憶群を復習に次ぐ復習で確かなものにしているか否かでございます。
夜明け前が1番暗いと申します。
言うなれば、完全な記憶になる前の、不完全の記憶が最も脆い、ということができましょう。
(ああ〜もう、できてないじゃん〜)とか、(わすれてんじゃん〜)などと、愚痴って気分を重くするのは、賢くはありません。誰でもそうだからです。
それ以上に、どれだけの部分の記憶を維持できたかを確かめ、(これだけ維持できたわい)程度の認識でお勉強は進めるべきものでございます。
不完全な状態は、あと2個か3個の手間か作業を加えれば、立派なうでたまごになる=完全な記憶になるものでございます。
人間の頭は、パソコンのハードディスクのようにすらすらっと即憶えられるものではありません。
忘れること、忘却の川に流されてしまうことは、言うなれば、お勉強の自然現象でございます。
仕方のないことでグダグダ言って、やる気や時間を疎漏するよりも、現状を前向きに「冷静に」捉えて、目の前のことを消化して行ってくださればと存じます。
点の取れる完全な記憶まではあと少し、数歩先にございます。
わたくしたちには期限の利益がありますから、記憶の不完全状態は本試験という最終締め切りまでに間に合わせれば良いだけでございます。
ゴール目前でぶうたれて、折角の果実を見過ごすような愚かな真似はしないようにしてくださればと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年9月4日 6:42 AM |
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先日のススメにおきましては、試験問題の大半は「できなくはない」ことを述べさせていただきました。
おさらいしますと、本試験の問題というのは、できなくはないのでございます。
一部の特定・特殊な人しか解き得ない問題というのは、試験という公正かつ公平さの理念に反するからでございます。
ですから、できない問題・解き得ない問題は出ないのでございます。
しかし、そうはいっても、全くできない問題に、多々遭遇するかと存じます。
そうなのです。試験問題を出す側は、「解けない」「できない」問題が出せないが故に、解けそうにもない問題を意図的に作成して出題してくるのでございます。
「解けない・できない」問題と、「解けそうにもない」問題とはどこが違うのか?と、これらの違いが判らないかもしれません。
前者は全くどうにもならない、対策不能の問題を指します。
試験範囲からぶっ飛んでいたり、一般では入手不可能な資料やデータに基づいて作成された問題を思い起こしてくださればと存じます。
一方、後者の「解けそうにもない」問題というのは、その問題を正解するために払わねばならない作業量・努力量・投下時間数があまりにも高いので、現実的にはやりようがない問題を指します。
1日24時間の勉強時間があれば、まあ、抑えられなくはないけれども、そうでなければ到底対策不能な問題、重箱の隅のそのまた隅を突いてくるような問題を思い浮かべてくださればと存じます。
理論上はできるけど、実際にはできない、そういった塩梅の問題を、出題者側は出してくるのでございます。
お勉強におきましては、目の前の問題が割に合うかどうかを、強く意識すべきかと存じます。
300ページ以上の資料やら何やらを読み込まねば取れない1点など、完全に無視の範疇でございます。
100〜200ページを読んで1問出題されるかされないかいう傾向であるなら、こんな割に合わない問題は、やらずに捨て問題とする方が懸命でありましょう。
50ページくらいに1問であれば、まあ、手が空けば、テキストを3回精読し過去問をみっちり繰り返した暁に、着手すればよろしいでしょう。
30ページに1問なら、そう割りに悪いわけではないので、お勉強対象に含まれることでしょう。
10ページで1出題なら、割りはいいです。しっかり復習して必ず点が取れるようになって起きましょう。
わけのわからぬ判例集や条文集、通達集、規定・ルールブックを読んで憶えて、一体、何点稼ぐことができるのか。
「それ」をする時間があれば、テキストや問題集、過去問はどのくらいできるのか。
「それ」に向かわしめる時間や手間を復習にまわしたら、どのくらいのことができちゃうのか。
一旦は、こう考えてみるべきであるかと存じます。
全くできなくても、300ページクラスの手間を払わねば取りえない問題なら、鼻歌交じりにばっさり切って捨てれば良いのでございます。
もちろん、その他の頻出箇所で点をしっかり稼ぐことは言うまでもありません。
割に合うかどうかを見極めるのも、お勉強のひとつの重要且つ重大なコツでございます。だって、それが見極められれば、多くの徒労を防ぐことができるからです。
出題傾向を調べ、各種の情報を集め、やるべきところはしっかりと、そうでないところはそれ相応にやって頂ければと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年9月3日 10:47 AM |
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お勉強といいますのは、取り敢えずは「難しい」ものでございます。
お勉強中に遭遇する文章や用語は一般的に難解で、小学生なら見向きもしないものでございます。
しかしながら、皆様におきまして憶えて頂きたいのは、できなくはないということでございます。
お勉強といいますのは、特に、試験というものが前提とされているお勉強は、絶対的にできなくはないのでございます。
専門家でもできないもの、答えが導かれないものは、問題とされないからでございます。
普通の人がやればできるもの、それが試験問題というものでございます。
一部の特殊な人、特別な訓練、特異な教養を持った人にしか解きえない問題は、試験制度の制度上の建前から忌避されるものでございます。
たとえば、、、
『作品○○の文体は、主観と客観の両方の視点を、一層自由に交錯させている。(ブレヒトのいう)Verfremdungseffekt(異化効果)のお陰である』
こういった評論めいた文章は、一部の人にしかわからないために、本試験では問われることはないのでございます。
まず、文章中の主観と客観の意味がよくわかりません。自分が思うことが主観で、他人(会社、組織、学会、)が思っていることが客観でしょうか。考え出すと、このあたりから難しくなってまいります。
交錯・・・混ぜて述べている?混ざってるの?
ブレヒトって誰?鳩山?
Verfremdungseffekt、、、日本語で言ってくれないとわからない等々、小学生が読めば何のことやらさっぱりわからないことでしょう。
良いことを書いているのか悪いことを書いているのか、褒めているのかけなしているのか、最も基本的な部分もわかりかねます。
こうした難しい文章以外に、政策的に意見が割れていたり、学説によって異論があるところも、試験には問われません。問題にしにくいからでございます。
まず、指しあたって、お勉強では「できないもの」は出題されないことを意識の片隅に置いてほしく存じます。
つまり何かしらの努力、試験の傾向に適した努力さえしていけば、大概の問題を取れるようになるのでございます。
ただ一部、できなくはないのだけれども、やろうとすると膨大な量の資料を読み込み、数字を憶えないといけないような出題はございます。
こうしたものは、解答はできなくはないけれども、とてもじゃないか、実際のお勉強では消化できないものでございます。
「解答可能対策不能問題」とでも、言うことができましょうか。
こうした問題はできるかもしれませんが、やるにはあまりにも不合理なので、手を付けずに捨て問題にするのが良いでしょう。
試験問題といいますのは、やれば必ずできるものではありますが、「割り」というものがございます。
このあたりを見切るのが、試験勉強をうまく運ぶコツであるかと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年9月2日 10:04 AM |
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