独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

詰まったら模様替え1

お勉強といいますのは、遅々たる歩みでございます。
そして、焦って急いだところで、片っ端から忘れるのみで、払われる努力に比べれば成果は低いものでございます。
「ゆっくり急げ」とアレク大王は仰りましたので、わたくしたちもそれに倣いたい所存でございます。
とはいえ、ゆっくり急ぐと言うのは、実にストレスがあるものでございます。
ブレーキをかけながら、アクセルを踏むが如しでありまして、行けばいいのか止まればいいのかどっちなんだ?コノヤロ!!と相成るわけでございます。
そのうえ、お勉強由来のわからないストレスも押し寄せてまいります。
このため、お勉強といいますのは、ストレスが高じやすくなっているのでございます。
ストレスを食べたり飲んだり発散するのも限度がございます。
そこで、今回では、リフレッシュ効果の高い模様替えについて、お話したく存じます。
まず、第一に行っておきたいのは、模様替えはストレスの発散効果は高いという点でございます。
人間は環境の生き物と申しますが、如実にその言の意味を悟られるかと存じます。
後ろにそびえるたんすをどこぞに動かして、ぽっかり空間が生まれるだけでも、なんだか背中の辺りが軽くなると申しますか、すっきりするのでございます。
なんだかすっきりしない、ストレスが抜けきれないという方は、是非とも模様替えをお考えくださればと存じます。
模様替えのコツは、まず、大きなものから考えることでございます。
まず、要らない収納箱や使ってもいない、単に服をかけたり物を置くだけになっている家具什器類の処分から頭をお働かせくださればと存じます。
(ほんとに、これいるかねえ?)と訝るのも、なかなかのストレス発散がございます。
(なにかこれ、別に使えないかねえ?)と物の新たな用途と設置場所に頭を捻るのも気持ちが良いものでございます。
お勉強の合間合間に、こうした「模様替え前段階思考」をするのも結構でございます。
お勉強といいますのは、テキストと問題集を相手にする、単調で平面的で、実に画一的な作業でございます。
主に、言葉のみの世界に埋没していなければなりません。しかもその言葉群に対して、こちらから働きかけることもなく、唯々諾々と取り敢えずは見ていかねばならないのでございます。
しかし、模様替えを考えることは、まず、イメージ(想起)しなければ、話が始まりません。
そして、物や場所の多くの可能性とを考え、そして、自分の好み・家族友人の反応を踏まえて、あれこれと考えを練らねばなりません。
加えて、違和感の多さも特筆すべきことでしょう。
(こうだ!!)と会心の配置や用途を考えても、他の家具類との兼ね合いや、部屋の持つ雰囲気、空気、明るさに押されてしまい、駄目であることは多々ございます。
しかし、打ちのめされるダメ感ではなく、何か、(これではない。もっとしっくりくるものがあるハズ)風の希望の持てるダメ感を味わうことになるかと存じます。
こうしたことで、頭をお勉強以外のことで使い、身体を物を動かすことで使ってみると、何分心身ともにすっきりしたものと、新鮮さが満々て来るかと存じます。
抜けないストレスを感じ始めたら、模様替えという手法が残されていることを、意識の片隅にでも置いていてくださればと存じます。
(明日に続く)

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気持ちを重視するとき

基本的に、わたくしは気合や精神力で事を済ますのは好きではありません。
頑張れといわれても、その実効性たるや疑問がつくものが多くございます。
単に頑張れといわれても、困るのでございます。どう頑張ればいいのかを示さなければ、気持ちは空回りするだけでありましょう。
もちろんのこと、人生の多くの局面では、ヒントも何も与えられない状況で試行錯誤を繰り返すことも必要ではございます。
問題なのは、「頑張れ」という人が、そういった状況であると認識して、いわれた人がそれを乗り越える適切な段階にいることを知っているかどうかでございます。
単なる「頑張れ」が、発言者の指導力や指示力、指揮力のなさを隠してしまうことは多々あるのでございます。
「頑張れ」を連呼する、気合や精神力というものは、効率さや合理性を損なわない範囲でのお話でございます。
先ほどもいいましたように、どうしても越えなければならない壁を突破するために、ひたすら前進した方が合理的である場合もございます。
しかしながら、そんな壁というのは、本当に10年か15年に1回あるかどうかでございます。
「頑張る」だけを連呼するのは、無能を隠す衣である可能性がございます。
皆様におきましては、連呼では済ませない、合理的かつ効率的なやり方手段方法を模索してくださればと存じます。
とはいえ、わたくしたちにはまだまだ未熟な部分がございます。
(こうしたらうまくいくんでないかい)、と思ったことがうまくいかなかったり、自分なりに工夫を重ね考えても、事態がひとつも進まないときもあるでしょう。
また、これまで正しかった手段が対応できなくなっていたり、かつてはうまくいった方法では結果が付いてこなかったりするときがあることでしょう。
こういった、理性的に考えても、頭をフルに回転させても、突破点や着手点が見てないときがございます。
いわゆる、踏ん張りどころというところでございます。
こうした場合に、先ほどわたくしたちがいったんは否定した、精神力や気合が事態突破の要素となるのでございます。
ここが踏ん張りどころだな、というところでは、気合や精神力、理知を離れた情感がキーとなって来るのでございます。
「どうして、これをしなければいけないのか?」という問いかけに対しては、「理由AとB、そして、メリットCからやらねばならない」と考えるかと存じます。
大半の場合では、うまくいくでしょう。ここは頻出だから、過去問にでてたから、忘れているので云々、理由を見出せるかと存じます。
しかし、数ある理由付けでは、効き目のないときがございます。いくら理由や意味、意義を見出していても、身体のほうが付いていかず、やる意欲がさっぱりなときがあるでしょう。
また、理由や意味、意義を把握してはいても、なかなか対象のレベルについていけないときもあるでしょう。
こういった場合は、下手に考えてもやる気は出ません。
論理や理性を一足超えねばなりません。
たとえば、(やるからやるんだ)、(頑張らないといけないから頑張るんだ)といった、非論理的ではあるけれども、何か、自分に元気を与えてくれそうな「気持ち」になって進んでいかねばならないのでございます。
理性と感情では、感情の方がエネルギー量は多くございます。感情は無方向性で一定しないため使いにくいものではありますが、用途がないというわけではありません。
考えてうまく行かないときは、気持ちで事態を突破するようにしてくださればと存じます。

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古本について

基本的にわたくしは、本屋さんよりも古本屋を利用するものでございます。
といいますのも、古本屋での価格こそ、本の価値を現すものと信じているからでございます。
かつて、古本屋のおやじほど、本の価値に精通した職の方もいませんでした。
今では、古本屋チェーン店が覇を競っておりますが、やはり、その本の価値を供給された量を踏まえて、合理的な値段を設定してございます。
まあまあ、穏当に当っているかと存じます。
いくらメーカー側が定価735円だと言い張ろうとも、古本屋に流れた時点で105円になることは多々ございます。
読んでみれば、(ああ、やはり105円の内容だわ。)とか、(ジュース代くらいの価値しかないね)、(年末まで置いてみて再読しなければゴミだな)と相思うものでございます。
もちろんのこと、掘り出し物・大いにおトクになる場合もございます。
ベストセラーであったり内容が優れていてたくさん刷られた本は、供給量が飛びぬけておりますから、その分だけ値段が安くなるものでございます。
こうした場合だと、優れて面白い本を105円で読めるわけですから、@ホクホクするものでございます。
本一般につきましては、新書を扱う本屋よりも、古本屋のほうが賢明であるかと存じます。
さて、では、お勉強においての、本屋の利用についてでございます。
基本的に独学では、古本屋での教材購入をしないように申しております。理由は明白でございます。
わたしたちのやる気をしっかり受け止めて、使いに使われ、読みに読まれ、解きに解かれる優れた教材といいますは、古本屋に流通しないからでございます。
良くお考えください。
いい教材には、思わずが引かれたり、どうしても、何か注釈やメモ、注意事項をメモしてしまうものでございます。
それは、お勉強が順調に進んで、わたくしたちの理解や読解が及ぶからこそ、そうなるからでございます。
逆にいえば、何かを書き込みたくなったりするのが、優れた教材と相成るわけでございます。
これが、悪い教材だと何も書き込めなくなるものでございます。
読みにくければ理解に及びにくく、何を書いていいやらわかりませんし、専門用語と漢字の羅列では、読むことさえままにならないことでしょう。
ピントのずれた問題集というのも、やっていて砂を噛む感が大で、大いにやる気はそがれてしまいます。
そうなのです。
古本屋で売られている綺麗な教材というのは、元持ち主が何も書き込まなかったといえるわけでございます。
「何も書き込まなかった」という事実の意味するところを、踏まえて欲しく思います。
そして、買取の場面を思い浮かべてほしく存じます。
元の所有者は、自分のメモを書きに書いた、線を引きに引いたテキストや問題集を売りに行くでしょうか。
使い込んだ教材は、ぶっちゃけいうと、手垢でどす黒くなっていますし、線やメモの書き込みでしわしわのどろどろでございます。
はっきりいいますと、売れたものではなく、買取に値する代物ではないのでございます。
古本屋の買取係員も、使い込んだどろどろで、怨念が染み付いたような教材を引き取ることはないでしょう。
売るほうの立場からすると、買ってはみたが使わなかった、若しくは使えなかったために、「結果的に綺麗」なままであった教材を売りに行くのではないでしょうか。
古本といいますのは、新古書でもない限りは、誰かの手を伝わってきているものでございます。
その誰かの手から、どうして本が離れることになったのか、ご一考くださればと存じます。
古本屋に流れる教材というのは、「使われなかったから」、つまり、使いにくかったり内容が乏しかったり、記述に工夫がなかったりしたものが多くございます。
よっぽど名が通って、実績がある出版社の教材以外は、いくら安いとはいえ買わないほうが良いかと存じます。
基本的にわたくしは、お勉強の教材におきましては、古本屋を利用しておりません。
わたくしたちが欲しい教材は、使い手が使いに使う、わたくしたちの努力を大いにかさ上げしてくれる一冊でございます。
しかし、そうした教材は、古本屋には、売り買いの構造から流れないようになってございます。
この点を、頭の片隅に入れておいてくださればと存じます。

(さらに…)