最上の手、最もいいやり方というのは、数少ないかと存じます。
また、これしかない、こういう方法しか存在しないというのも、稀ではないかと思うのでございます。
今、わたくしたちのしていることというのは、お勉強を含め、仕事から家事育児その他の雑用に到るまで、何かしら変えていける余地があるかと考えている次第でございます。
わたくしごとですが、わたくし、洗濯のやり方を変えたのでございます。
10年来、洗濯というのは朝やるものばかり、晴れの日にやるものばかりと考えていた次第でございます。
しかし、絶対にそうしなければならないわけでもないことに気付いたのでございます。
10年来、ずうーーと朝・晴の日に洗濯をしていたのですが、なかなかそんな日のみに洗濯ができるわけではありません。
結局、朝起きれなかったり雨に降られたりで洗濯物は溜まりに溜まり、土日祝の午前は洗濯機を回しにまわさねばならなくなっていた次第なのでございます。
しかし、ふと、下着類や汗をかいたもの、タオル、ハンカチ類は別に夜に洗ってもいいではないかと気付いたのでございます。
というのも、この梅雨の頃合、汗をかいたものや湿っているものを一晩放置しておくと、途端に異臭やカビにまみれる事態になることに、漸く気付いたのでございます。
大きなものは洗えないけれども、上記の小さいものなら洗えるだろうと思い、夜洗濯→夜干しにしたのですが、別段、支障は無い毎日でございます。
雨が降りそうなら一部は部屋干ししますが、大きな支障はなく、逆に、洗濯物がすっきりして快適なくらいでございます。(出先で洗濯の山を思い出し、ああ今頃発酵してそうだなあと思うことほど嫌なものはありません。)
また、ハイター等の消臭・漂白・除菌の洗濯洗剤と一緒に洗えば、生乾き的なアノ臭いも抑えられる上に、汗臭さ・汗ばみ等も防げ、(ああ、なんてもっと早くに、夜に洗濯をしなかったのだろう)と嘆息した次第でございます。
10年来、疑問も無くやってきた洗濯ですら、変えることのできることに気付いたわたくしなのでございます。
考え方を変えるとは、何も新規なやり方を追い求めたり、人とは敢えて違う風に考えたりするのではないのでございます。
自分が息をするかのように当然・当たり前と思っているものを変えることなのだなあと思い立った次第でございます。
お勉強におきましても、同様の事情であるかと存じます。
それはそうするしかない、それはそうするものだ、と当たり前のように考えているものに、何か大きく進展する萌芽があるように思えてならないのでございます。
本当にテキストなんてものは、このように読まなければならないの?
問題集・過去問はこのようにしか解けないのか、もっと別の使い方はないの?
憶え方はこれでいいのかなどなど、考えてみると、今までに気付かなかった改善策を思いつくかと存じます。
大きく変えなければならないときは人生の転機でありまして、だいたいのことは小さな変化で事が済むものでございます。
小さいマイナーチェンジで、本試験まで凌いでくださればと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年6月23日 9:37 AM |
| ▲ Back to Top. | ▲ Back to Homepage. |
お勉強におきます強さとは何であろうか、と疑問に思うときがございます。
理解力の高さであろうか、記憶力の優劣だろうか、などと考える次第でございます。
しかし、どれも帯に短し襷に流し、お茶請けには多過ぎてておやつには少な過ぎ、友人にはいいけれど付き合うには頼りないといった物足りなさを感じるものでございます。
たとえば、どれほど理解力があっても、わからないところにいちいち捕まって放棄する勇気が無ければ、理解力のよさなど吹き飛んでしまいますし、いくら記憶力が良くても、何を憶えて何を憶えなくて良いかわからなければ、宝の持ち腐れでございます。
それでは、精神力や気合といったものが、お勉強における強さでしょうか。
お勉強におきましては、継続が命でございます。
同じ7時間の勉強を1日のみで終わらせるよりかは、1時間を7日かけた計7時間の方が、得てして実力が付いてくるものでございます。
では、毎日毎回、何があっても、半分眠りながらもお勉強を続ける精神力や気合が、お勉強の強さなのかというとそうでもないかと考えるのでございます。
というのも、そんな緊張感溢れた厳しい環境に、人は慣れないからでございます。たとえ、慣れたとしても、毎朝枕の周りには抜け毛がシーツの模様かと思わんばかりに転がっていることでありましょう。
そんな緊張感のあるお勉強の毎日など、直前期の1ヶ月、30日間程度しかもたない気が致します。
試験が数ヶ月先、半年先、1年先などという場合だと、このようなタフな精神力・気合などは適切ではないと考えるのでございます。
では、お勉強を貫くような、強さというものは無いのかいうと、そうではないと思う次第でございます。
わたくしは、全試験勉強期間を通して、強さを発揮するものに、寛容性があげられるかと存じます。
寛容性とは、受け入れられる度合いと考えればしっくり来るかと存じます。
たとえば、お勉強をしないことも、お勉強の常でございます。古い友人が近くまで来ている、いい酒が手に入った、トラブルやアクシデントが発生したときなど、どうしてもお勉強ができないときがあるかと存じます。
また、わたくしたちは機械ではありませんから、どうしても勉強したくないときがあるものでございます。
そのほか、お勉強におきましては、できない・忘れた・間違えたなどの失敗の類も多くございます。
大切なのは、こうした事態をどれだけ受け入れられるかということでございます。
今日のお勉強をさぼったとしても、それはそれで構わないのでございます。
多少できなくても、前に憶えたことを忘れていても、それはそれで構わないのでございます。
何故に構わないかというと、いったんはできなかったことを認めない限り、次の方策に頭が向かわないからでございます。
ここで、「どうして勉強しなかったのか」などに頭を費やしてはならないのでございます。いくらでも原因を思いつくことができますし、あれこれ結果を分析できるからでございます。そんなことは、ときどきで、年に10回程度いい。
大切なのは、やらなかった事実以上に、しなかった分をいつやるか、どうカバーするかの方なのでございます。
いったんは認めるからこそ、次の一手が打てるのでございます。
その「認める」ことこそ、寛容性が最も発揮するところではないかと思うのでございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年6月22日 10:23 AM |
| ▲ Back to Top. | ▲ Back to Homepage. |
人間、二度手間を苦手とするものでございます。
同じ100mでも、忘れ物を取りに帰る100mは無限の如くに感じられ、足が重たくなるものでございます。
重複を如何に避けるか、それが知恵のひとつであると考える次第でございます。
お勉強におきましても、同様の事情であるかと存じます。
お勉強そのものはしんどくないものでございます。しんどいのは、重複なのでございます。
できないのならば、そんなにしんどくはないのでございます。
しかし、できたはずのものができなくなっていたり、憶えたはずのものを忘れていたりしていると、暴風雨のように徒労感が吹き荒れるのでございます。
また、成績についても、同じようなことがいえるかと存じます。
順位が上がったり下がったり、実力が伸びたり落ちたりしている状態が、実は1番かったるいのでございます。
恋の道なら、一喜一憂もむべなるかな、スパイスの如く感じられて心地よいときもありましょうが、基本、一喜一憂というのは、しんどいものでございます。
「1喜」がなくて、淡々と日常的なほうが、気が落ち着く分、楽であると申せましょう。
とはいえ、できなくなったり忘れたのであれば、もう一度やり直さなければならないのがお勉強の常でございます。
さて、では、この手に余る徒労感を如何せんというわけでございます。
簡単にいいますと、実力などない!と考えることでございます。
暴論かと思われますが、どのみちやらなければならないのなら、これまでやってきたことなど全て意味はなかったと、いったんおじゃんにするのが賢明であるかと存じます。
「やる」ことが成功裡に終わるかどうかは、これまでやってきたこととは関係ありません。
ならば、これまでやってきたことなど無いものとして、再び接していった方が、大いに気が楽なのでございます。
あんなにやったのに忘れてる、とか、あーあーなどとため息をつくよりかは、「何にも無い!」と思ってやり直しに取り掛かるほうが、エンジンのかかり方が違ってくるかと思います。
ときに、人は自分の知らず知らずのうちに、無用の荷物を背負い込んでいるものでございます。
苦難にめげず、あきらめないでどうせ最後までやるのですから、重たい荷物は降ろして進むのがよろしいかと存じます。
正直申しますと、中途半端な実力など、あって無きに等しいものでございます。
できかけのカレーなどうまくとも何ともありません。炊きかけのご飯などこわくて食べられません。
できない・忘れたというのは、中途半端な実力の証拠。
そんな、古わらじのようなものに執着せず、さっぱり捨ててしまって、新しい気持ちで取り組むのが賢明であるかと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年6月19日 9:34 AM |
| ▲ Back to Top. | ▲ Back to Homepage. |