独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

気持ちを重視するとき

基本的に、わたくしは気合や精神力で事を済ますのは好きではありません。
頑張れといわれても、その実効性たるや疑問がつくものが多くございます。
単に頑張れといわれても、困るのでございます。どう頑張ればいいのかを示さなければ、気持ちは空回りするだけでありましょう。
もちろんのこと、人生の多くの局面では、ヒントも何も与えられない状況で試行錯誤を繰り返すことも必要ではございます。
問題なのは、「頑張れ」という人が、そういった状況であると認識して、いわれた人がそれを乗り越える適切な段階にいることを知っているかどうかでございます。
単なる「頑張れ」が、発言者の指導力や指示力、指揮力のなさを隠してしまうことは多々あるのでございます。
「頑張れ」を連呼する、気合や精神力というものは、効率さや合理性を損なわない範囲でのお話でございます。
先ほどもいいましたように、どうしても越えなければならない壁を突破するために、ひたすら前進した方が合理的である場合もございます。
しかしながら、そんな壁というのは、本当に10年か15年に1回あるかどうかでございます。
「頑張る」だけを連呼するのは、無能を隠す衣である可能性がございます。
皆様におきましては、連呼では済ませない、合理的かつ効率的なやり方手段方法を模索してくださればと存じます。
とはいえ、わたくしたちにはまだまだ未熟な部分がございます。
(こうしたらうまくいくんでないかい)、と思ったことがうまくいかなかったり、自分なりに工夫を重ね考えても、事態がひとつも進まないときもあるでしょう。
また、これまで正しかった手段が対応できなくなっていたり、かつてはうまくいった方法では結果が付いてこなかったりするときがあることでしょう。
こういった、理性的に考えても、頭をフルに回転させても、突破点や着手点が見てないときがございます。
いわゆる、踏ん張りどころというところでございます。
こうした場合に、先ほどわたくしたちがいったんは否定した、精神力や気合が事態突破の要素となるのでございます。
ここが踏ん張りどころだな、というところでは、気合や精神力、理知を離れた情感がキーとなって来るのでございます。
「どうして、これをしなければいけないのか?」という問いかけに対しては、「理由AとB、そして、メリットCからやらねばならない」と考えるかと存じます。
大半の場合では、うまくいくでしょう。ここは頻出だから、過去問にでてたから、忘れているので云々、理由を見出せるかと存じます。
しかし、数ある理由付けでは、効き目のないときがございます。いくら理由や意味、意義を見出していても、身体のほうが付いていかず、やる意欲がさっぱりなときがあるでしょう。
また、理由や意味、意義を把握してはいても、なかなか対象のレベルについていけないときもあるでしょう。
こういった場合は、下手に考えてもやる気は出ません。
論理や理性を一足超えねばなりません。
たとえば、(やるからやるんだ)、(頑張らないといけないから頑張るんだ)といった、非論理的ではあるけれども、何か、自分に元気を与えてくれそうな「気持ち」になって進んでいかねばならないのでございます。
理性と感情では、感情の方がエネルギー量は多くございます。感情は無方向性で一定しないため使いにくいものではありますが、用途がないというわけではありません。
考えてうまく行かないときは、気持ちで事態を突破するようにしてくださればと存じます。

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古本について

基本的にわたくしは、本屋さんよりも古本屋を利用するものでございます。
といいますのも、古本屋での価格こそ、本の価値を現すものと信じているからでございます。
かつて、古本屋のおやじほど、本の価値に精通した職の方もいませんでした。
今では、古本屋チェーン店が覇を競っておりますが、やはり、その本の価値を供給された量を踏まえて、合理的な値段を設定してございます。
まあまあ、穏当に当っているかと存じます。
いくらメーカー側が定価735円だと言い張ろうとも、古本屋に流れた時点で105円になることは多々ございます。
読んでみれば、(ああ、やはり105円の内容だわ。)とか、(ジュース代くらいの価値しかないね)、(年末まで置いてみて再読しなければゴミだな)と相思うものでございます。
もちろんのこと、掘り出し物・大いにおトクになる場合もございます。
ベストセラーであったり内容が優れていてたくさん刷られた本は、供給量が飛びぬけておりますから、その分だけ値段が安くなるものでございます。
こうした場合だと、優れて面白い本を105円で読めるわけですから、@ホクホクするものでございます。
本一般につきましては、新書を扱う本屋よりも、古本屋のほうが賢明であるかと存じます。
さて、では、お勉強においての、本屋の利用についてでございます。
基本的に独学では、古本屋での教材購入をしないように申しております。理由は明白でございます。
わたしたちのやる気をしっかり受け止めて、使いに使われ、読みに読まれ、解きに解かれる優れた教材といいますは、古本屋に流通しないからでございます。
良くお考えください。
いい教材には、思わずが引かれたり、どうしても、何か注釈やメモ、注意事項をメモしてしまうものでございます。
それは、お勉強が順調に進んで、わたくしたちの理解や読解が及ぶからこそ、そうなるからでございます。
逆にいえば、何かを書き込みたくなったりするのが、優れた教材と相成るわけでございます。
これが、悪い教材だと何も書き込めなくなるものでございます。
読みにくければ理解に及びにくく、何を書いていいやらわかりませんし、専門用語と漢字の羅列では、読むことさえままにならないことでしょう。
ピントのずれた問題集というのも、やっていて砂を噛む感が大で、大いにやる気はそがれてしまいます。
そうなのです。
古本屋で売られている綺麗な教材というのは、元持ち主が何も書き込まなかったといえるわけでございます。
「何も書き込まなかった」という事実の意味するところを、踏まえて欲しく思います。
そして、買取の場面を思い浮かべてほしく存じます。
元の所有者は、自分のメモを書きに書いた、線を引きに引いたテキストや問題集を売りに行くでしょうか。
使い込んだ教材は、ぶっちゃけいうと、手垢でどす黒くなっていますし、線やメモの書き込みでしわしわのどろどろでございます。
はっきりいいますと、売れたものではなく、買取に値する代物ではないのでございます。
古本屋の買取係員も、使い込んだどろどろで、怨念が染み付いたような教材を引き取ることはないでしょう。
売るほうの立場からすると、買ってはみたが使わなかった、若しくは使えなかったために、「結果的に綺麗」なままであった教材を売りに行くのではないでしょうか。
古本といいますのは、新古書でもない限りは、誰かの手を伝わってきているものでございます。
その誰かの手から、どうして本が離れることになったのか、ご一考くださればと存じます。
古本屋に流れる教材というのは、「使われなかったから」、つまり、使いにくかったり内容が乏しかったり、記述に工夫がなかったりしたものが多くございます。
よっぽど名が通って、実績がある出版社の教材以外は、いくら安いとはいえ買わないほうが良いかと存じます。
基本的にわたくしは、お勉強の教材におきましては、古本屋を利用しておりません。
わたくしたちが欲しい教材は、使い手が使いに使う、わたくしたちの努力を大いにかさ上げしてくれる一冊でございます。
しかし、そうした教材は、古本屋には、売り買いの構造から流れないようになってございます。
この点を、頭の片隅に入れておいてくださればと存じます。

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3分・3日

基本的に、できることというのは、3分あれば着手できます。
たとえば、靴磨きや皿洗い、洗車に各種メンテナンスなどは、3分という時間があれば、そして「よし、やるか!」と気合を入れさえすれば、できるものでございます。
できるか・できないかの基準は、時間で測ることができるのでございます。
つまり、やろうと思い立って3分後には着手していればできること、手も付けられずもたもたしていることはできないことなのでございます。
テキストを読むときに、さらっと読み出せるようなら、できていると考えてよろしいでしょう。
あとは、重要事項と頻出事項としっかりおさえ、余力があれば以ってでそうなところ・妖しいところを読むくらいでございます。
問題を解くときに、(あーでこーだから答えはコウコウだよね)といった風に、さらっとさくさくと解ける問題であれば、できる問題だといって良いでしょう。
あとは、抜け落ちた知識や薄れつつある記憶を埋めて、同じような問題が出たときに確実かつ正確に判断が付くようになっていればよかろうかと存じます。
「3分」あれば着手でき、相応の時間を払えばできることが、確かに「できること」であるかと存じます。
ですから、ある問題を解こうとして、解くのにうだうだグダグダしてしまったり、テキストのある部分を読もうとして、とちったり詰まったり途中何が書いてあるのかわからなくなったりしてしまったときは、「できない」こととして、対策を練っていかねばならないわけでございます。
それが自分にとって、できるかできないかを判断するときは3分の基準でお考えくださればと存じます。
さて、できないことについてでございます。
できないわけですから対策を取らねばならないのですが、では、どう考えて行くかでございます。
そこで、わたくしは、「3日」を基準に考えるようにしております。
どうしたらできるようになるか、うまくいくかを考え初めて、あれこれ・こうこうと頭を捻って、3日を経過する間に解決するかしないかを、判断基準とするわけでございます。
3日を経過する前に解消・解決したり、(こうしたらいいんでねか)とか、(たぶん○○をやればできるんでないかい)と思えたものについては、考えることを続行いたします。
おそらくは、解決までもう1歩、あと少し何か手を加えれば、できない問題は解決することでしょう。
しかし、3日を超えて考えても、全く解決の糸口が見えてこないときも当然ございます。
こうした3日を越えたときは、長期戦を覚悟しなければなりません。
おそらく、力が足りないか、重要な情報が欠けているか、認識不足、考えアイデア欠乏、経験が少ないなど、解決に当たっては時間がかかる要因があるはずでございます。
時間がかかることを毎日うんうん考え込んでも、名案は出ません。
経験から言うと、距離を取って見て行くほうが解決の道のりは確かであるかと存じます。
というよりも、考える側であるわたくしたちの疲労度やストレスが異なってきますので、その余力の分だけ、新しく考えることができるわけでございます。
考えて3日を越えても解決の糸口が見えないときは、新しい発想やアイデア、情報、認識改め、ひらめきなどが起きないと、なかなかすんなり解決に到らないものでございます。
解決に時間がかかることを考えに考えまくっても、ストレスが高じるのみで、いい結果は遠のくばかりかと存じます。
そのうえ、問題を考えることに時間が取られるので、そのほかのことが手薄になったり遅れたりするデメリットもございます。
考えて3日を越えても解決が見えないときは、これまでのうんうんと唸る思考から脱出して、長期戦を胸にあれこれ違う角度から攻めてみるようにご助言する次第でございます。
できないことに対しては、数打ちゃ当る方式で、手法や手段を固定化することなく、何度も何回も短いアタックしてくださればと存じます。

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