腹8分に医者要らずと申します。
昔から食べ過ぎは、身体によくないものでありました。
そして、現在という時代にあっても、食べ過ぎは身体によくないものの筆頭でございます。
現代の3大疾患のほとんどは、食べ過ぎ・栄養過多が原因とされております。
昭和の初期までは、糖尿やガンなどは「金持ち病」といわれておりまして、比較的裕福で食べるものが豊富の家庭にしか起きなかったと申します。
しかし、いまや、農業技術、食べ物の保存技術・加工技術が発展し、同時に流通も改善されたことから、飽食の時代といわれるほど、豊かな食生活となりました。
かつて20年から30年前の正月というのは、どこも開いている店がなく、もちろんコンビにもない時代でございますから、独身者にとって正月というのは飢えとの戦いであったのでございます。
それがいまや、個人経営の喫茶店ですら開いている時代でございます。
食生活の豊かさは、アレクサンダー大王や神君徳川家康以上のものを普通に享受していると申してもよいでしょう。
しかしながら、その豊かさの分だけ、わたくしたちは、食べ過ぎるようになったわけでございます。
かつては、月1回か2回ある年中行事か、盆か正月に食べるようなボリュームの料理を毎日頂いているわけでございます。
最近、つくづく食べ過ぎは万病の元と思います。
食べる量を少し減らしたり、食べるものを変えたり、酒量を減らしたり、2〜3日断食するだけで身体は甦ることをつくづく体感しております。
多くの宗教と道徳が、大食を禁じているのも納得できるわたくしでございます。
皆様におきましては、現代という時代は得てして食べ過ぎになる時代であることを意識して欲しく存じます。
お勉強におきましても、大食いは控えるべきものでございます。
食べ過ぎが特に問題になるのは、晩御飯でございます。
晩御飯にお腹いっぱい食べると、眠たくなってしまいお勉強どころではなくなります。
ですから、夕食は少なめにするのが賢明であるかと存じます。
このことは、お勉強のみならず、持ち帰りの仕事を抱えていたり、レポートや宿題の類が残っているときも同様でございます。
夕食はやや軽めにしておくことで、食後の眠気を防止するわけでございます。
実感的には、腹5分にしておけばよろしいかと存じます。5分で済ませてお茶でも飲んでおけば、眠気を催すことなく、すうっと机に向かっていけるかと存じます。
しかしながら、腹5分では、次第に小腹が空くものでございます。
ですから、次にお勉強の合間や作業の合間に、軽い何かを頂くのでございます。
軽食候補の代表は、やはりトーストでございます。何しろ手軽で、バラエティに富んでおります。
塩辛いものが欲しいときは、ベーコンと一緒に焼くのもよし、チーズとマヨネーズを載せてトースターに放り込むのもよいでしょう。
甘い物が欲しいときは、普段家族の者には出さないとっておきのジャムを塗り込んで頂くと、幸福の頂点を体感いただけるかと存じます。
まあ、トースト1枚では少々量が足りませんので、果物や香の物を少し添えると、満足できる軽食が出来上がるかと存じます。
こうした軽食で、少な目の夕食の足りない分を補うのでございます。
つまりは、一時にたくさんの量を食べると眠くなりますから、できるだけ小分けにして頂くという塩梅でございます。
小分けすれば、意思の力を用いることなく、眠気を抑えられるかと存じます。
しかし、これまで見たのは夕食の5分と軽食の2部しかありません。
8分にはあと1分足りないものでございます。残る1分は何かと申しますと、お勉強中に食べるものでございます。
この1分にあたっては、何でも好きなものでよろしいかと存じます。
ケーキやクッキー、チョコレートといったお菓子でも結構でございますし、軽くお酒をいただくのもよろしいかと存じます。
ただ、残りの1分に適した量を取ることを、お忘れなきようにして頂きたく思います。
夜にお菓子を食べ過ぎと如実に体重に現われます。ズボンを履くときに、夜お菓子の威力を実感するかと存じます。
特に、お酒の量は注意です。ぐいぐい行くとあっという間に晩酌に変わってしまいます。
本当に喉を湿らす程度、お猪口2杯程度にしておけば、血の巡りも良くなって、ぐんと元気になることでしょう。
「1分」の量であれば、胃にももたれませんし、お勉強中にいただくことから、フル回転する脳に摂取エネルギーはどんどんと消化されていくように思います。
夜型の方は、腹5・2・1分でお勉強に備えてくださればと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年10月23日 9:53 PM |
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試験といいますのは、記憶量がカギでございます。
どれだけ憶えられたかで、合否は変わってくるのでございます。
ですから、多くの受験生が毎日毎夜、憶えようと憶えようと致します。それはそれで結構至極でありますし、穏当な勉強であるかとは存じます。
しかしながら、暗記や記憶が強い反面、それだけで勝てるものではないことを、頭の片隅にでも置いていてくださればと存じます。
試験は決して、記憶力と暗記だけで勝てるようなものではないのでございます。
記憶や暗記は、試験に有利に働くだけでありまして、勝利ではないのでございます。
有利と勝利は、「利」の1字が合っているだけでありまして、言葉の意味は、まったく別種のものでございます。
その違いたるや、醤油とサラダ油なみに異なってございます。
といいますのも、記憶などは、そのときの心理状態でいくらでもぶっ飛ぶからでございます。
問題冊子を開いてみれば、そこには、これまでに見たことも聞いたこともない問題のオンパレードでございます。
あまりの事態の変化と予想に反する出題に面食らってのぼせてしまい、その後の解答がグダグダになることなど、枚挙に暇がないものでございます。
そして、試験後に解いてみたら、解ける問題ばかりであったりするのでございます。
試験範囲や試験内容の改訂などがあった場合に、こうしたことは多々起きるものでございます。
また、試験というときは、尋常ではない心持でありまして、問題の内容自体はほとんど変わっていないのに、出題の順番が変えられただけで、記憶がぶっ飛ぶという話も耳にしております。
さもありなんと、わたくし自身を振り返ってみても、そう思うものでございます。
このように、記憶や暗記というのは、試験に必須のものではあるのですが、反面、脆いのでございます。
では、こうした脆さをどう克服するかでございます。
記憶や暗記の敵は、実は、不安や恐怖でございます。
先ほどの例でいえば、見たことのない問題を目にした瞬間、自分が落ちた姿を頭に思い浮かべてしまったのでありましょう。
そのため、心は恐怖の嵐に見舞われてしまい、記憶は綺麗さっぱりどこかに吹きすさんでしまったというわけでございます。
このため、試験勉強におきましては、暗記や記憶だけではなく、ある程度のふてぶてしさ、開き直りが大事になってくるのでございます。
このふてぶてしさ、開き直りこそ、記憶や暗記の側面を支援してくれるものかと存じます。
例えば、忘れるかも、忘れたらどうしようかと、意識の片隅で思いながらのお勉強というのは、実効性のあるものではありません。
心が不安で押されていれば、その分だけ、憶えようとすることに影響があるものでございます。
そこで、ふてぶてしさと開き直りの精神でございます。
あん?忘れちゃいないよ。 ・・・ま、結果的には。もう忘れた。いっしょだな。忘れることはあるよ。忘れたこともあったんじゃないか?記憶力ないな。うん。 ま、忘れたって、ちょ・・・いねえだろ。うん。でも忘れない限りは本質的には忘れない限りは、勝てないよな。たぶん。たぶん俺の試験勉強はそっからだから。うん。ま、忘れていいのか、悪いのかな・・・うん。忘れないで冷静に憶えたら、憶えた方がな・・・。コンディションはいいんだよ俺は。最っ高にコンディションはいいんだよ。あしたあさってまだあるし。俺はね。うん。
てな感じに、長州力風の節をつけて唱えておけば、何かしら心にどっしりしたものが生まれて、記憶の手助けになるかと存じます。
そして、くれぐれも、忘れたからといって徒労の思いにとらわれないことでございます。
試験勉強の基本は、「やって、忘れて、またやって」の繰り返しでございます。
一生懸命やったのに忘れてしまっても、記憶の芽が吹く土壌作りでもしたのだと思うことでございます。
基本的に、記憶とはそういうものでありますし、受験生の大半がそうしながら憶えていっているわけでございます。
こうした失敗や試行錯誤も、ふてぶてしさを生むいい素材となるのでございます。
忘れちゃいないよ。でも、まあアレだな、わすれるかもな。でも、まあ忘れても、いつだってやり直してやるよ、アア。忘れてからだろうな。アア。いつでもやってやりますよ、ああ、なあ、こうやってやってきたんだ、ウン、今更自分の頭のアレさ加減を、アレだな、アレしようなんて思っちゃいないよ、なあ。まあ、怖いですよ、忘れるのは。でも、アレするのをアレしてても、進まないしね、アア。。。時間かかるね・・・。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年10月22日 11:16 AM |
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お勉強をしておりますと、ときに、すべてを1からやり直さなければならない事態に遭遇するかと存じます。
実にめんどくさく、そして、物憂く感じているかと忖度いたします。
もちろんのこと、わたくしも、何度もこういう「振り出しに戻る」「1からやり直し」の状態に陥ったことがございます。
やはり、めんどくさくて、放り投げてやめたろうかしらんと思い詰めたものでございます。
しかし、でございます。
このやり直しというのは、いったい何かということでございます。
何かって?単にめんどくさい作業ではないかと考えるのは、ちと、早計であるかと存じます。
それは何故かといいますと、「やり直すことができる」という状態こそが、一種の特権であるからでございます。
本試験のそのときに、(ああ、もう一度だけ、テキストを読み直しておけばよかった)と心底思ったとしても、どうすることもできません。
試験の終了時刻までは、針の筵に座ったままで、これまでのお勉強の努力ががらがらと崩れ去って行くのをぼんやりと感じるだけが関の山でございます。
(もうちょっと、もうちょっとだけ、頑張っておけばよかった・・・)と本試験中に臍を噛んでも、あと1年ワンクールお勉強を続けなければならない事態に、少しの変化もございません。
よくよく考え直してみれば、「やり直せる」ということ事態、まだましな状態なのでございます。
ましというよりも、まだまだ合格できる可能性を秘めた現状なのでございます。
本試験でそう思うのに比べてみれば、100倍もいい状態とさえ言えるのでございます。
やり直すことは、確かにめんどくさいものでありましょう。
そして、これをお読みの方は、おそらく根はまじめでありますから、途中で放り投げることなく、やり直し作業に着手するかとは存じます。
しかし、義務からそうするのではなく、やる権利であることを思い起こして欲しく思います。
やらなくちゃと思ってやるのは気が重いものでございますが、やれるんじゃんと思えば、今の現状のやり直しが、なんだか合格を担保するもの・保証する行為のように感じれるようになるものでございます。
そうすれば、やる気も多少は上昇カーブを描くのではないでしょうか。
人間、結構単純でありまして、フランスのある心理学の実験の話ですが、膝まずいて胸の前で指を組み、神様にざんげするように電話帳を声を上げて読みあげると、実に敬虔で謙虚な気持ちになるとの事でございます。
そう、その姿勢は聖書を読む姿勢なのでありますが、聖書が謙虚にさせるのではなく、姿勢がそうさせている、というわけでございます。
根は単純なのでございます。最初は騙された感で何が権利だいと思っていても、これがチャンスなんだと思い返してイヤイヤ感を圧倒しておけば、いつの間にやら気持ちも変わってくるものでございます。
経験豊富の皆様方におきましては、「あのときもう少しだけやっておけば、がまんしておけば、がんばっていれば、下調べをしておけば」というご経験があるかと存じます。
当時の過ちから得られた教訓を発揮するのは、今このときなのでございます。
積年の宿題を、今やり終えてくださればと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年10月21日 9:59 PM |
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