| カテゴリー: 過去のススメ |
お勉強においては、まあ、だいたいのことが教訓に、経験に、そして、肥やしになるものでございます。
決して、やったことがダメになることはないのでございます。
中途半端に手を抜いてやったお勉強でさえ、後々で役に立つものでございます。
「コレコレのやり方では絶対にダメだ」という確信の1材料になるからでございます。
大事なことは、感情的にならないことでございます。
「できた」と思っていたことが全くできていなかったり、見直してみれば全くのスカスカ状態であったことを知ったときは、そら衝撃も大きく、どんなに気丈な人でも衝撃を受けるかと存じます。
心の張りがなくなって、くよくよとしてしまうこともありましょう。
しかし、状況がいくらダメであっても感情の赴くままに、くよくよするのはよした方がよかろうかと存じます。
状況などいくらでも変わりますし、くよくよを24時間続けても、決して物事は先に進まないからでございます。
お勉強から来るくよくよ感は、悩んだところで解決するわけでもなし、最終的な合格を果たさない限り、決してなくなりは致しません。
同じくよくよするのであれば、感情的にくよくよするのではなくて、理性的にくよくよすべきかと存じます。
感情的に、(点が伸びない)(点が取れない)とあれこれ嘆いていても、お勉強はひとつも進みませんし改善されません。
対して理性的に、何で伸びなのかねえと考えることは、これまでのことを省みて分析する機縁が生まれるのでございます。
理性的にくよくよしていけば、「では、どうする」という次の展望が開けるのでございます。
こうしたやり方ではできないんだから、どうしたらいいんだい、と次第に二の次・三の次が生まれてくるのでございます。
感情的なくよくよが全くダメなのは、ダメだという結論からひとつも動かないことでございます。
「ダメでした」で済むのは、小学生のせめて低学年まででありまして、常民良民であれば、対案・対抗策・次善策を想うものでございます。
あーしても、こーしてもダメだったというのは、「あー」と「こー」ではうまくいかないことが判明したわけですから、そのほかの手立てを取ればいいだけでございます。
本当のところ、、ありありと「ダメ」を感じるのであれば、幾分か希望が胸に灯るものでございます。
なぜなら、絶対にうまく行かないやり方がはっきりしたからでございます。
金輪際、そういう仕方をしなくて済むわけですから、うまく行く方法にわずかではあれ、近づいたわけでございます。
中途半端にダメを感じてくよくよするのは、単に現状に甘えているだけですし、今後の方策をも薄めてしまうのでございます。
リアルにダメを感じて欲しく思います。
さすれば、幾分かの新しい道筋ややり方が見えてくるかと存じます。
このやり方じゃあ
2009年10月27日 2:35 PM
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