独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

じっとするのも実力

時折、体力が落ちたなあと思われる方も居られるかと存じます。
一晩ぐっすり寝ればスッキリしていたのに、今や、2〜3日は寝ないと疲れが取れないという人も居られるかと存じます。
模様替え等で、ちょっと重い荷物を動かすと、すじこばるといいますか、体中のあちこちが痛くなったりする方も居られるかと存じます。
このような現実を目にするにつれて、ああ、体力が落ちてきたなあと、すこしく寂しくなるものでございます。
しかしながら、でございます。
体力が落ちてきた一方で、以前と比べたら、だいぶ落ち着きも出て来たのではないでしょうか。
ひとつの場所でじっとしていられなかった人でも、体力がだんだんと下降気味になるにつれて、こつこつと何かに取り組めるようになっているのではないかと存じます。
お勉強もかつての自分と比べてみれば、例えば学生時分と比べてみると、今の方がずっと集中して取り組めているのではないでしょうか。
集中力が増したのは、ある意味、体力が落ちたからではないかと存じます。
体力と一言でいいましても、無駄な体力といいますか、余計な力といいますか、そうしたものが無くなって来たと言えるのではないかと存じます。
換言すれば、エネルギーの使い方が上手になったわけでございます。
元気の有り余っている子供の姿を見てみると、ひとつのところに止まって何かをやるのは、ひどく苦痛なように見受けます。
体力があるといっても、むやみやたらに放散していれば無いのと同じ、無駄なことをする分時間の無駄とも言えるわけでございます。
体力が落ちてきたからこそ、じっくりと目の前のことに、焦らずに落ち着いて、正確に集中して取り組めるようになったわけでございます。
ですから、お勉強というのは、体力があるからといって、一概に若い人が有利であるとはいえませんし、また、体力がないからといって殊更に試験勉強が不利になるとはいえないかと存じます。
わたくしたちは、何かを失った分、やはり何かを得ているものでございます。
奪われっぱなしというわけではないのでございます。
新たに得た「落ち着き」「慎重」「集中」という武器を意識して、やり方に変化を付けては工夫を重ねて、お勉強の難関を突破してくださればと存じます。
できないことは決してありません。
ただ、体力の急激な低下は、病気や持病の悪化、生活の荒れ、不摂生、食生活の不備、過度の飲酒、タバコ、高ストレス状態、悪い遊びなど、見過ごせない要因があるものでございます。
若いときは多少身体に毒な事をしても、有り余る体力で凌いでまいりましたが、今となってはその余分な「分」の体力はないわけで、やはり、節制と統制が必要になっているかと存じます。
また、意識的な体力づくりも忘れてはいけません。若いときに体力があったというのは、単にたくさん運動をして身体を動かしていたのも、見逃せない要因でございます。
今週は何の運動をしたか、振り返ってみてほしく存じます。衰えは本当に足腰から参ります。
階段の1段は寿命1日と申します。通勤時や移動には、階段を1段上がるたびに、1日寿命が延びた、1日寿命が延びた、1日寿命が延びたと唱えながらお登り下さればと存じます。年を取ってから運動しても遅いんです。
体力が落ちたと口に出すのみに終わらず、機会を見つけては身体を動かすようにしてくださればと存じます。

身体の感覚から

お勉強の敵はまず、「眠さ」であるかと存じます。
難解な文章、どうでもいい練習問題、不可思議な過去問を前にすれば、誰だって眠たくなるものでございます。
疲れていれば、なおさら眠りを誘うものでございます。
30センチ先も見えないモヤが頭に立ちこめ、どんなにがんばってもまぶたはひっつこうとするものであります。
こうも眠くなってしまいますと、1文字すら頭に入っていかず、お勉強は頓挫してしまうわけでございます。
次の大敵は、退屈さであるかと思います。
お勉強と言うのは基本的に繰り返しが基本でありますから、見るのも読むのも解くのも、殆ど変わりません。
同じ、手垢の付いたテキストや問題集、過去問がわたくしたちの勉強相手でございます。
同じものを相手に、同じようなことを同じようにやるのでございます。そら、退屈でありますよ。
テキストと問題集を開いても、ひとつも読もうとも解こうとも思わなくなってしまう、これこそ退屈の仕業なのでございます。
次の敵は、飽きでございます。
どんな美人でも、3日もすれば飽きると申しますが、美人の「び」の字もない、無機質で無愛想な存在に対して、どうして飽きずにいられるでしょうか。
それはもう、退屈の塊といっても、まったく過言ではございません。
このように、お勉強とはもともとが眠たい上に退屈で、飽きやすいという三重苦を背負っている存在なのでございます。
しかし、わたくしたち自身で決めたことでございます。合格する!と決意したのでありますから、途中で放り投げるわけにも行きません。
そこで、どうしたらいいか、と言うわけでございます。
まず、眠たくて退屈で飽き飽きしている状態というのは、身体の感覚もぼんやりとしているものでございます。
ですから、まず、身体感覚を取り戻すことが重要であるかと考える次第でございます。
まず、椅子から立ち上がるなり、せんべいザブトンから腰をあげるなりして、立ち上がりましょう。
そして、相撲取りがやるように、太ももをバシンと手の平で叩きます。場所は、おしりでも構いません。
できるだけ強く、関取が気合を入れるように「バシリバシリ」と叩いてみてください。
太ももやおしり以外には、わき腹を叩くと目が覚めます。皆様方におきましては、いい音が発せられるかと存じます。
腕や胸をグーで叩くのもようございます。これまた、朦朧としてきた意識がはっきりとしてきます。
わたくし個人は、叩きで気合を入れた後で四股を踏みます。
片足を高く上げて数秒間、そのままの姿勢でいます。足の外側の筋肉がびりびりとしてきたところで、ズンっと床を踏み抜くように踏みつけます。これを4〜5回行っております。
片足を上げて不安定な姿勢になると、脳がバランスを取ろうと活性化するのでしょうか、頭がかなりスッキリするのでございます。
最近わたくしは四股を踏むのにはまっておりまして、実に手軽な気分転換方法と考えている次第でございます。
1日に数回、1回につき4〜5回程度踏んでおります。これだけでも十分、血の巡りが良くなって、かっかとしてきます。
四股の動作から思いますに、まず、腰痛予防、足の外側の筋肉を鍛える、バランス感覚を良くする、あと痔の予防にも(意外におしりの筋肉が刺激されているので血行がよくなってうっ血が減るように思います)効果があるのではないかと考えている次第でございます。ちなみに、痔は血流障害の病気とのことでございます。
ま、痛いぐらいに太もも・おしり・お腹・腕を叩いてみてください。できれば、足がつるくらいに高く上げて四股を踏んでみてください。
なお、女性の方につきましては、誰も見ていないところで、コッソリお願い致します。100年の恋も冷める姿を見られるのは一生の不覚となりかねません。
男女平等共同参画社会とはいえ、四股を踏む女性だけは絵になりません。周りの人がトラウマにならないためにも、コッソリお願い致します。
わたくしたちは、痛みや刺激によって現実に立ち返る生き物でございます。
ばしばし叩いて気合を入れ、ドスコイと四股を踏んで身体と脳を活性化して、お勉強の3つの敵に抵抗してくださればと存じます。
気合や精神力で渡り合うよりも、はるかに楽であるかと存じます。

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上向き加減で歩こう

今回のススメは、散歩を推奨する一環でございます。宜しくお目汚しの程、お願いする次第でございます。
これまでのススメで申しましたように、散歩が何故によいかといいますと、考えごとをしながらできる数少ない動作のひとつであるからでございます。
そして、上向き加減となって歩ける点も、付け加えたく存じます。
上向き加減に歩く、つまりは、空を見上げつつ歩くことが出来ることが、考える上で、実によいことに気付いたのでございます。
基本的に、うつむいて歩くよりも、上を向いて歩く方が健全なのは言うまでもありません。
もちろんのこと、疲れ切ってバタンキュウの状態であれば、1歩1歩を見定めつつ歩くのも良いでしょう。
しかし、うつむいて、地面を見ながら歩くというのは、先ほども行った疲労困憊時のほかに、登山かハイキングのときくらいでございます。
こうしたときなら、遠くを見ながら歩くと余計にしんどさを感じますし、気負いが生まれてきますので、目の前の30から40センチ先を見据えながら、1歩1歩歩く方がよろしいでしょう。
しかし、そのくらいのケースしか、うつむき歩きが適うのはないかと思われます。
特に、街中では、うつむき加減に歩いている人の顔色は大概悪く、不運そうな灰色のオーラが漂っております。できるだけ、近寄りたくないものでございます。
また、自分自身のことを振り返ってみても、うつむき加減で歩いているときと言うのは、大概調子も良くなく、事が順調に運んでいないときでございます。
考え込むうちに、うつむき加減になってくるのでありますが、じゃあ、考えて名案なりが生まれたかどうかといいますと、殆んど記憶に残っていないのでございます。
あまり考え込まないのが、人生の処世訓でありますが、考え事といいますのは、大概が堂々巡りでありまして、同じようなことを同じようにぐるぐるグルグル考えているわけでございます。ハムスターを笑えません。
うつむき加減になりながら歩いているときに考える事も、そうしたことが多いように思うのでございます。
この点、散歩を致しますと、あまりうつむかないところに特徴がございます。散歩をする人を観察してもらえば一目するかと思います。下向きで散歩をしている人は、まあまずいないことでしょう。
景色を見るのも散歩の楽しみでありますから、視線は、自然と上向くのでございます。
そして、空にちらほら顔を出している星々やお月さん、明星を眺めるのでございます。(ああ、久しぶりに星を見たな)などと。こうした懐かしい経験と相まって、上向き加減に歩くこととなるわけでございます。
上向きになって空を見つつ歩くと、気持ちはなんとも広やかに、心持明るくなるものでございます。
こうした状態のために、建設的に考えることができるようになるのでございます。
アレはどーするか、どう解くか、どうやって憶えるか、こうしたことを、試しにうつむいて考えたときと、上向きになって考えたときを比べてみてほしく思います。
おそらく、上向き加減のときの方が、よいアイデアや発想、視点、取っ掛かり点、突破口が浮かぶのではないでしょうか。
もちろん、散歩をする場所に制限されてしまいますが、散歩をするなら雑踏や住宅街よりも、公園河川敷ため池の周りお寺周辺などが、自然と緑のあるところがよかろうかと存じます。
考え事に適している散歩でございますが、それは、上向きで歩けることもひとつの要因であるかと考えている次第でございます。
陰気陰気に、マイナスの上にマイナスに考えがちになる人は、どうぞ、外に散歩に出かけて上向き加減でお歩きくださればと存じます。
「上を向いて歩こう」という歌詞がございますが、何か生ぬるい人生訓などを穿ってみるようなことはせず、リアルに上を向いて歩いてくださればと存じます。
まあ、実際には上を向いては歩けませんので、上向き加減に歩いてくださればと存じます。すッと考えが変わることもあるかと存じます。

(さらに…)