独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

不調がふつう

独学では、言い出すときりがありませんから、好不調をそれほど考えません。
良いときと悪いときが相互に訪れて、まあ、最後の本試験のときに、良い状態に巡り合っておけばよい、位に考えております。
まあ、正直なところ、うまくは進まないのが普通の状態であって、すらすら行く好調が珍しいくらいに考えておけば良いかと思います。
ですから、うまく行かないのをグダグダいっても仕方がありません。
それが普通なのでございます。普通の事を嘆いたところで、良くも悪くもなりません。
お天気と言いますのは、晴れの日と雨の日があるのが普通でございます。
それを雨が降ると、テメエコノヤローと怒っても致し方のないことでございます。
ま、愚痴で時間を浪費する分、「悪」とさえ言うことが出来ましょう。
基本的に独学では、ぐじぐじする時間があるくらいなら、次善策を練った方を選択するものでございます。
わたくしなどは常に前向きだと、肯定的だといわれておりますが、精神論や一般論でそうするのではなく、単純な功利性ゆえにでございます。
だって仕方ないんだもん、というわけでございます。
成績伸びねえ、進まねえといって酒を飲めば進むわけでもなし。
ぐじぐじしますと時間を失うだけでなく、精神力と言いますか気の張りといいますか、テンションその他のものも、一緒になくなっていくような感じが致します。
こうした精神的なものはいったん失うと、取り戻すのにこれまた、時間と労力がかかるものでございます。
先ほどもいいましたが、できねえといって酒を飲めば、まあ内臓は疲れるし身体は重くなるし、二日酔いを醒ます分勉強その他のことが出来なくなるし、おいしい酒は飲めないしで、賢明とはいえないかと思います。
良い状態、すらすら進む好調な状態のみを考えると、そら、遅々として進まぬ現状は良くないものと映ることでしょう。
しかし、良い状態・蜜月・好調などといいますのは長続きしないものでありまして、そんなもんが永続すると考える方が少しく愚かであるかと存じます。
この世は天国ではありませんから、好調なんて天国の代替物を望んでも仕方がないかと存じます。
不調が普通、とお考え下さればと存じます。
しかし、不調=ダメというわけではありません。好ましくはないかもですが、最悪ではない筈です。
自分が病気になっているわけでなし、家族が寝込んだり入院しているわけでもなし。
火事で家を追い出されているわけでなし、借金負債にてんてんこまいになっているわけでもなし。
お勉強ができると言う状態は、健康であり多少の経済的な余裕と時間があってこそ、できることでございます。
少なくとも健康でなければできないのですから、多少お勉強が不調でも、人生全体では割の良い状態なのではないかと思う次第でございます。
好不調の感じ方など胸先三寸で変わってくるものでございます。
うまくいかねえなあと思っても、こんなもので結構と思って、いたずらに落ち込むことなく自暴自棄になることなく、善後策と工夫を持って目の前のことのお取り組み下さればと存じます。

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本試験があるからこそ

これは、もし・仮に、の話でございます。
もし、本試験がなかったなら、お勉強はどのようなものになるでしょうか。
きっと、全く緊張のないものになるかと存じます。
ギリギリッとした気の張りといいますか、テンションといいますか、そういったものは全く出てこないかと存じます。
やべえなあ、とかのよく口に出る台詞もでないことでありましょう。
もし、でございます。試験という選抜システムが無かったとしたら、どうでしょうか。
まあ、形式的な問題はあるでしょうがそれに答えれば、誰でも、何点であっても合格できてしまうとしたら、日々のお勉強は如何ばかりになりましょうか。
やってもやらずとも結果が同じであれば、まあ、やる気は出ないでしょう。
わたしたちは本試験というものを忌避し嫌がっておりますが、逆に、本試験があるからこそ、日々のお勉強にいい緊張と気の張りが生まれて来るわけでございます。
もし、Aという科目があったとして、それが無試験・無選抜で修了証書なりがもらえたと致しましょう。
しかし、手元に「A合格」という文言の印刷された紙切れがあったとしても、Aのそのものは10年経っても少しも上達していないでありましょう。
例えば、無試験で取れる簿記なんてものがありましても、ひとつも記帳が出来ないでしょうし、やってもミスばかりで余計に時間がかかるでしょうし、ちっとも財務諸表も読めないことでしょう。
確かに、試験勉強でありますから、試験用のくだらない知識を憶えなければなりません。
しかし、それらを補って余りある新知識や新たなる視点が得られるのが試験勉強でございます。
ストレスやプレッシャーと言う力があるからこそ、わたくしたちは勉強して新たな知識を得、新しく変化していくのでございます。
勉強をせざるを得ないという引力が働くからこそ、新たな力が付くわけでございます。
その引力が弱ければ弱い力しか付かないでしょうし、ゼロならゼロでありましょう。
プレッシャーとストレスの大元ではあるけれども、だからこそ成長の源泉でもあるのが本試験でございます。
お勉強のイヤイヤ感は、逆に言えば得られるものの大きさを示しているものでございます。
「あーめんどうだ!」とか、「したくねえ!」と叫びたくなるものほど、後々の果実は多いものでございます。
また、お勉強には、明白な期限が切られております。
永遠かつ無限にそうした状態が続くわけでもないのでございます。
資格の取得にかかる時間は、一部の最難関の試験を除けば、数ヶ月程度の比較的短期間でございます。うまく時間をやりくりすれば捻出できる時間数でございます。
終わりがない芸術に従事する事を考えれば、どれ程負担が少ないかお分かりいただけるのではないかと存じます。
試験といいますのは嫌なものではありますが、良薬口に苦しと申します。
ぐだぐだ、ぐじぐじしたところで試験の現実は変わりません。
ですから、試験そのものの利点を考えて、現実の解釈を深めてくださればと存じます。

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完全半日休み

日々のお勉強といいますのは、どうしても雑事や雑用に追われて押されているものでございます。
落ち着いてやってはいるつもりなのですが、時間に急かされている気もするものでございます。
ゆっくりと腰を落ち着けてやりたいものだ、と思うものでございます。
しかし、なかなかに完全に休みの日を設けるのは、難しいものがございます。
まずご家族の居られる方も居られるでしょうし、ご友人、ご交際相手が居られますでしょうから、完全に1日を自分のものにするというのは、難しいのでございます。
しかし、我が身自身の事情が完全な休みを阻害している事もあるかと存じます。
例えば、何かを補充しなければならない、買い物に行ってこないといけない、洗車しないといけない、押入れの片づけを、掃除を、DVDを見たり溜まった録画を見なければならないなどなどでございます。
こうした我が事の雑事が完全な休みを埋めているといいますか、占めているのではないかと存じます。
そこでわたくしが実践しているのは、半日だけを100%休むと言うことでございます。
1日が完全に休めないなら、半日だけでも完全な自由時間を設けようと言う塩梅でございます。
この半日休みのときに、自分のやりたかったこと・すべきこと・挑戦してみたかったことを手がけるわけでございます。
しかし、この半日休みは、手帳やスケジュール表の日程欄に「この日は半休」と書くようなものではありません。
もっと計画的でアグレッシブなものでございます。
まず、雑事雑用は先取りして済ませてしまいます。やらなくていいことはやりません。
どうしてもしておかねばならないこと、済ませておかねならないことを優先して済ませてしまいます。
やろうと思っている事を書き損じのメモ用紙の裏にでも書き出して整理します。
(こんなもの酒を飲むときのアテにしたらいいわい)、(お茶を飲むときの手持ち無沙汰の埋めにしたらいいわ)と優先順位を調節し、しなくてもよさそうなものはやらないようにします。
先に言ったDVDや録画の鑑賞など適当に酔っ払ったときで十分でございます。酔いを醒ますような作品こそわたくしたちの滋養でありまして、そこそこの作品・出来損ないの作品・練れていない作品・二番煎じの作品などの酔いを醒ませられない作品など無用でございます。わたくしたちには残された時間がありません。
掃除や洗濯などもざざと済ませます。洗車もやれば1時間でできます。面倒ならGSに行けばよし。
やるべきことをどんどん前倒しで処理しその分の時間を、完全な半日に充てるのでございます。
また、半日の完全休みなら、周りの人の理解も得られるのではないかと存じます。
だらだらっと、休みでもあるけれどもやらないといけないものもあるという状態はスッキリしないものでございます。
いや、スッキリしないことがお分かりいただけるかと存じます。
そのくらい、完全半休は落ち着いて、どっしりとやりたかったことに取り組めるのでございます。おそらく、中途半端な休みの倍は、物事が捗るのではないかと存じます。
もちろん、ぐだぐだと、だらだらと、アレもしてコレもする休日もようございます。それはそれで、気の張る平日の神経をじんわりと解きほぐしてくれるかと存じます。
しかしそれのみではなくて、完全なる半休日を設ける過ごし方もあることを、意識の片隅にでも置いていてほしく存じます。

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