独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

過去問太鼓

お勉強におきましては、時に何をしたらいいのやらわからなくなることもあるかと存じます。
そうした時は取り敢えず、過去問を手に取ってくださればと存じます。
温故知新と申します。お勉強におきましては、過年度の古い問題が集った過去問を解くことで、いろいろとわかってくるのでございます。
昔から、作家といわれる人たちは、筆に詰まると古典に戻ったものでございます。
といいますのも、ネタというのはすぐさま尽きてしまいますし、何よりも、常に新しい物を書かねばなりませんから、新思想や新風俗など新しいものも尽きてしまうわけでございます。
例えば、わたくしの好きな谷崎潤一郎でございます。関西移住後、平安の王朝文学に関心が移り源氏物語を現代語訳をしたことはつとに有名でございます。通称谷崎源氏であります。
横浜在住時谷崎さんは、家でも靴を履く西洋一点張りであったのに、突然の平安回帰でございます。355度位の大反転でございましょう。
あの谷崎さんでさえ、古典に活路を見出しのたでございます。古典とは、洗練に洗練を重ね幾重もの批評に耐えた、実にタフな書き物でございます。たっぷりと栄養滋養が詰まっているわけでございます。
まあ、文学とお勉強を同列に並べるのは、非常にぶっ飛んだお話ではありますが、お勉強における古典こそ、過去問ではないかと考える次第でございます。
よく似ているのでございます。
洗練と言う意味では、過去問の問題は、数ある問題集など比較にならぬほど洗練され考え抜かれた問題でございます。
何しろ分野ごとの専門家が、1年という時間をかけて作成するのでございます。それも、これまで出した問題を踏まえ、そして、これからのその資格の未来と現状を踏まえて考えるわけでございます。
蓄積されたレベルが違うわけでございます。下手な問題集を新たに買うよりも、過去問を繰り返した方が実力が付くのは、単純に問題の質がよいからでございます。
次に、古典と言いますのは、読むほど新たな発見があるといわれておまりますが、これまた、過去問にもあるのでございます。
試験勉強の序盤では、過去問とは、1つの目標・到達地点でございます。
何はともあれ、過去問に書かれている事が読めなかれば、解く以前の問題でございます。
そこでわたくしたちは、テキストやら問題集やらで過去問のレベルまで追いつこうとするわけでございます。
過去問レベルに追いついた中盤以降では、今度は過去問の問題を何度も解いて物にする過程で、自分の実力を鍛え上げていくものでございます。
中盤後期から終盤に至って実力が付いてきますと、だんだん傾向やら問題の癖やらがわかってまいります。
ああ、こんな風に出してくるのか、とか、こんな風にひっかけてくるのねといった、最初のころではわからなかった問題の出し方や構成に目が行くのでございます。
試験勉強の終盤に到りますと、過去問の問題から、今後の試験で狙われそうなもの、最早、問われそうにないものを取捨選択して、自年度の本試験対策を練っていく次第でございます。
このように過去問とは、わたくしたちのレベルに応じて、見え方が異なってくるわけでございます。
例えば、太鼓と考えても良いかと思います。
実力つたなく「ぽん」としか叩けないなら、「ぽん」としか過去問太鼓は鳴りません。
力がめきめき付いてきて「どんッ」と叩けば、同じく「どんッ」と響くもの。
自信もついて「どかーん」と叩けば「どかーん」と返ってくるものでございます。
過去問に手ごたえを感じれば感じるほど、実力が付いてきた証拠でございます。
おそらくは、過去問の凄さを1番知っているのは、試験のプロたる専門学校の講師等の方ではないかと思います。
やればやるほど、接すれば接するほど、過去問の憎たらしいまでの完成度に息を巻いているのではないかと思います。
このように過去問は、古典名著のように、やるたびに新たな発見と示唆をわたくしたちに与えるものでございます。
「何をしたらいいのかしらん」、「何かテキスト読むのしんどいな」とか「いまいちやる気がないな」といった少しく停滞状態に居られる方は、過去問を紐解いてほしく存じます。
大半の人は、過去問を解くたびに、ああそういうことかあ、とか、ここに問題の狙いがあったのかあなどの発見があるかと存じます。お人によっては、おいらはまだまだだなと思う人も居られるでしょう。
自分が何をしたらいいのか、それを1番教えてくれるのは過去問でございます。
過去問をするから、何をすべきかが見えてくるのでございます。
トップレベルの実力の持ち主から、やり始めたばかりの素人まで、過去問は全受験生必読の「古典」であるかと存じます。
単に昔の問題を集めたもの、みたいな軽々しい扱いは、くれぐれもご法度でございます。

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取れる問題は取る

基本的に、試験といいますのは「1点」を争う戦いでございます。
たかが1点されど1点・・・なんて言うレベルではありません。
1点で数千数百の受験生が泣いている事実を、わたくしたちは忘れてはならないのでございます。
穏当に行けば、わたくしたちもその列に入ることは畢竟だからでございます。
「たかが1点だからいいや」なんて甘く見ていると必ず、合格点に1点足りずに落ちる、なんともやるせない事態に陥るかと存じます。
その1点で、あと1年の勉強でございます。
皆様方におきましては、「1点」を絶対に甘く見ず、取れる問題は必ず取るようにしてほしく思います。
っと、まあ、こうした趣旨の雑文は、当ススメなり何なりで、お耳にされた方がたくさん居られるかと存じます。
しかし、それでも、そうはわかっちゃいるけど、ピンと来ない人も居られることでしょう。
そこで、金銭価額的に考えて見たく存じます。ここに、平均勉強時間が500時間で受かる試験があったと致します。
この時間数を、まあ穏当なアルバイトの時給750円でかけますと、「375,000」円という金額になります。
そして、この試験の試験問題数は50問と致しましょう。
ならば375000/50で、1問あたり「7,500」円と相なります。
試験勉強をせずに、アルバイト・パートその他残業副業に身を入れていたら、375,000円を今、手にしていたわけでございます。
わたくしたちが日々目にしている問題の1問には、7,500円の金銭価値と引き合っているわけでございます。
しかし、この金額は得べかりし収入の金額のみでございます。
ならば、費用についても見てみなければなりません。計算は簡単でございます。
これまでテキストや問題集、過去問といった教材にかかった費用と模試代、受験料、交通費などの総合計を50問で割るといった塩梅でございます。
まあ、テキスト、問題集、過去問を@3500円として、10500円。模試が5000円、受験料が3,000円、交通費が1,000円と致しますと、19500円と相なります。1問あたり390円。
かくして、1問あたり7500円+390円で「7890円」の価値があると考えられるわけでございます。
1問を捨てるというのは、「7,890」円を捨てる行為なのでございます。
この点、よくよくお考え下さればと存じます。
自分のやっていることは、「7,890」に引き合うかどうか、しっかり考えないといけないかと思います。
このご時世、自腹の7,890円を捨てるのは、なかなかに難しいのではないかと存じます。結構ないい肉を食べられるかと思います。それか、斤あたりで肉を買い豪快な煮豚・燻製もできちゃいます。
勿論のこと、落ちてしまえば全部パーと相なります。
試験といいますのは、1点の争いでありますが、1点を甘く見て落とすことは、7,890円をドブに捨てるような行為に等しいこと、また、自分から不合格という釜の蓋を開けている行為である事を、深く納得してくださればと存じます。
そして、是非とも自分の受ける予定の試験での1問題あたりの単価を出してくださればと思います。
もったいねえなあ、というケチ心が生まれれば、もっと丁寧に真剣に、テキストや問題集、過去問に接することができるかと思います。

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情報は少なめに

かつて、情報というものは、実に貴重なものでした。情報というのはあればあるほど、よかったのでございます。
例えば、織田信長は隣国甲斐の武田信玄や北陸越後の上杉謙信のことについては、なんでも知りたがったと申します。
もちろん、彼らが、己の野望である天下統一への障害になると踏んでいたからでございます。
それこそ好物は何か、酒はどのくらい飲むのか、どんな馬が好きなのか、どんな歌を愛唱しているのか、などなど、知りうる限りのものを知ろうと勤めたといいます。
こうした細々としたことを総合し相手の心理を推し量ろうとしたり、行政や戦争の仕方を総合勘案して、自分の戦略に役立たせていたわけでございます。
しかし、いまや、インターネットの時代でございます。
「武田信玄 甲斐」と打ち込めば、それこそ腐るほどの情報に接することができるかと存じます。
信長が居れば、狂喜したことでありましょう。
情報量の少なすぎた数百年前に比べて、今や隔絶の感がする次第でございます。
しかし、情報が多くなったからと言っても本当に必要なことはそう変わらないかと思います。
逆に、現代では、情報がたくさんあり過ぎても困るというのが実情ではないかと考える次第でございます。
情報が増えた分、どうでもいいもの、とるにたらないものも同時に、多くなっていると言うわけでございまして、その分、キッチリ取捨選択をしていかないと、あっというまに時間をスポイルされてしまうわけでございます。
情報の取捨選択というのは別段に難しくはないかと思います。
常に少なめにするという意識を常に持っていれば、効率のよい選択ができるように思います。
最悪なのは、情報はたくさんあればいいという過去の神話を妄信している方でございます。
このネットの世の中、求めようと思えばいくらでも情報は集まります。それ何がしについてかかれた本、筆者その他の情報がどんどん集まってまいります。
しかし、わたくしたちの時間は24時間しかありません。すべてを追いかけることは不可能です。
また、追いかけようにも、それが真に自分の求めるものと適っているかどうか不明でございます。
まず、情報は増やさない、減らす、と言う観点から見ていくのがよろしいかと存じます。
今現時点手にしている情報で、うまく行かないのかどうかをお考えください。
うまく行かないのであれば、どうしてうまく行かないのかを考えてみてください。
うまくいかないときは、何かが不足している、準備不足、前提となるものをよく調べていない、表面的なものしか見ていない、答のみ・結論のみを急いでいる、などが考えられるものでございます。
どうでもいいことは、ほんのちょっとの時間と考察で結論付けても、それはそれでよいのです。
だって、どうでもいいことだから、失敗しようがうまく行こうが、どっちに転んでもどうだっていいわけであります。
しかし、少なくともやるべき価値のあることであれば、それなりの時間を割いて情報を集め、集めた情報を調べて分析し、現状の自分の事情と引き合わせ、考えることが必要であるかと存じます。
やるべき価値があるからこそ、知るべき価値があるのでございます。
価値のない事を追い求めない、そんなことに時間を費やさない、これだけでも十分に情報の選択は上手になっていくかと存じます。

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