独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

100%の努力

お勉強のコツの1つに、緩急強弱をつけることがございます。
お勉強といいますのは、全部が全部に対して、100%の努力をしなくてもよいのでございます。
どういうことかといいますと、お勉強の中には、やっていくうちにわかってくるものがあり、また、それほどに考えなくてもできてしまうところが、結構な数あるからでございます。
つまりは、普通に読んだり解いたりしていれば、自然とできていくところは、それほどに努力を払わずともよいわけでございます。
ま、油断は禁物ですから、時折の復習で、ぬか床のぬか漬のようにかき回して、理解なり記憶を確かめれば、それでことが済むわけでございます。
ですから、こうしたところには、ときどきの努力を、ま、60%・70%の努力をすればよいわけでございます。
お勉強のすべてのすべてに対して、100%努力すべし、というわけではないことを、まずはおさえてくださればと存じます。
しかしながら、ところどころ、要所要所にて、必ず100%の努力が求めれるところがあるのでございます。
本当に1から考えて、少しも不明慮なところをなくさねば、到底理解できないところがあるのでございます。
きっちりと隅から隅まで、1つも落とすことなく憶えておかねば、到底点の取れないところがあるのでございます。
こうしたところに対しては、100%の努力を向けるわけでございます。
100%の努力を向けるとは、今もっている時間や手間を、そこに集中する事でございます。
つまり、そこだけで、1日のお勉強の全てを費やしても構わないのでございます。
果てには、そこだけに、1週間のお勉強の全部を充てても構わないのでございます。
要努力の箇所は、中途半端な理解度では、点になりませんから、徹底してやるわけでございます。
100%の努力をもって、1字1句、1センテンス1パラグラフを揺るがせにせず、しっかりと見ていくわけでございます。
100%の努力ですべきところはそうして、そうでないところはそうしない、簡単に言えばそう言うことでございます。何も特殊めいたものはないかと存じます。
ただ、どこに100%で臨み、どこを適当に済ますかは、最初の内はわかりません。
ただある程度お勉強が進めば、ここはやっとかなあかんなあという、鼻が効くようになって参ります。
そういうところがわかってから、100%のピュア努力をやるべきかと存じます。
突然に、テキストの1ページ目・問題集の1問目から、ラストスパートレベルの努力を払う方を、ときどき見受けます。
そういうやり方を否定するものではありませんが、ただ一言、ロスは大きいという点を指摘しておきたく存じます。

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目をこすり奮戦しても

ひたすらの努力というのは、美しいものでございます。
一生懸命に、ひたむきにやっている姿は目に映えるものでございます。
人間の姿勢として、それらは大事なものであるかと存じます。
しかしながら、ただの努力、単なる努力、形だけの努力というのは、いただけないものでございます。
あなたがどれだけ眠い目をこすって奮戦しても、結果が付いてこないときは、少し努力をセーブしなければなりません。
それはただ努力でございます。
単に、努力の方が目的になってしまっており、目標の方に近づいていないのでございます。
たとえば、痩せたい痩せたいと仰るご婦人がおられます。
しかし、痩せたいのはどうしてか、と聞くと、綺麗に見られたいからというのでございます。
では誰に?と聞くと、なぜか女性に対して綺麗に見られたいというのでございます。
更に、では、どうして同姓である女性に対して綺麗に見られたいのか?と聞くと、返答に窮するのでございます。
ご婦人の幸せは、同姓の女性にあるものなのでしょうか。それとも、異性たる男性にあるものなのでしょうか。
男性の幸せは女性如何にありますなら、女性の幸せも男性如何にあるかと存じます。
しかしなぜだか、痩せたいという女性の関心の方向は、男性でなく女性に向いているのでございます。
並み居る女性のなかでNO1美人になれば、男たちはひれ伏すとでも思って入るのでしょうか。
大半の男は身近な女性、気のありそうな女性の方ばかりを向いているでしょう。
基本男性というのは、痩せていようが多少太っていようが、それが良いのか悪いのか、よくわからないのでございます。
正直、スタイルや体重に甚大な関心がある男性は、極めて少ないように思います。実際、男性の性欲は別のところに向いてございます。
「痩せろよ」などと言う男性は、実質的に痩せてほしいがためにそういうのではなく、もうちっと色気を出してほしかったり、もう少し労わってほしいがために言うのでございます。
それなのに、痩せようと、スタイルをよく見せようとするんでございます。
転倒が本末している例、まさに努力が自己目的化したよい例かと存じます。
また、痩せたいというのは変な欲でありまして、そんなに痩せる必要もないのに、そして、痩せたって魅力が増すわけでもないのに、痩せようとする人がいるのでございます。
これこそ、単なる努力しているだけの人がいるのでございます。
たとえば、お酒をよく飲むとか、脂っこいものが好きだという方なら、身体なり食事に気をつけて痩せようと努力するのは、結構至極でございます。
しかし、そうでもないのに、太ってもないのに、どこぞ身体が悪いわけでもなく、痩せようとする人がございます。
他のことをすべきでありまして、本当に人生を無駄にしているかと存じます。
形式的な努力もよろしくありません。
こーして、あーしたらいいんでしょ、みたいな、まるで自分で考えることを拒否していても、殆ど何も身につきません。
自分から身を入れないと、身に付くものはないと断言しても宜しゅうございます。
努力と一言申しましても、振り返ってみれば色々と思うところがございます。
最高の努力、最上の努力とはうまくいえませんが、よくない努力、とんちんかんな努力、明後日の方を向いている努力なら、何とか自力でお分かり頂けるかと存じます。
それらを避けていけば、きっと自分の本当の力となる努力に辿り着けるかと存じます。

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記録をつけてみる

わたくしごとでございますが、最近、カレンダーに食べたお菓子を書くようにしております。
たとえば、コーラーを飲んだ日には「コ」と書いたり、チョコレート菓子を食べた日には、「チ」などとメモしている次第でございます。おかきなら「お」、お餅なら「モチ」、クッキーなら「ク」でございます。
といいますのも、年がら年中、適量を守っているとはいえ、毎日何がしらの甘いものを食べている上に、暑くなってきたので、つめた〜い飲み物を口にするのが多くなってきたからでございます。
古来、甘いもの・砂糖といいますのは、薬でありました。
砂糖は薬屋で売られ、薬師(クスシ)の手によって処方されていたのでございます。
今ではありふれた砂糖ですが、かつては薬扱いだったわけでございます。一種の精神安定剤扱いだったといわれております。
そういえば、泣く子にあめ玉をあげますと泣き止むのも、砂糖の沈静効果であったわけでございます。
しかし、砂糖の性質や砂糖が身体に与える影響が、現代になって変ったわけではありません。
もとは薬なのですから、副作用もあってしかるべきでありまして、最たるものが糖尿病といったわけでございます。
本当に今では、カンタンに甘いものが食べられます。
わたし自身、まだ糖尿病ではないのですが、親族にはたくさんおりまして、遺伝的になる可能性が高く、まあ、今のうちから、適量を見ておこうといった考えから、このカレンダーメモをするようになった次第でございます。
書き出してみますと、意外に、思った以上に甘いものを食べているのが、はっきりとするのでございます。
特に、コーラーの消費が多く、こいつはまずいなとお菓子生活を見直した次第でございます。
これが単に、糖尿病が怖いから甘いものは控えよう、では、少しも改善しなかったように思います。
カレンダーに書くからこそ、期間比較でき、甘いものの連続がはっきりわかったわけでございます。
記録するという行為は、習慣や行動への大きな変化を生む力があるように思います。
お勉強が長続きしないという方は、是非とも、カレンダーへのお勉強記録をつけていくべきかと存じます。
また、お勉強の気が乗らないという方も、一度は、カレンダーにどのように勉強をしていったかを書いていくべきかと存じます。
どうしてこの日はやって、この日はやらなかったんだろう。
このあたりは、すらすら〜とやっていたのに、だんだん、やる気がなくなるんだよなあ。
こうした、自身の認識を深めていくべきかと存じます。
わたくしたちは、恐ろしいほど自分がわからないのでございます。
これは、汝自身を知れといった哲学的なものでもなんでもなく、物理的に自分の背中は見えず、頭の後ろは見えず、耳の中、口の中、鼻の中が見えないのでございます。
況や、己の内面のことをや、でございます。
手垢が付いてしまってピンとこないかもしれませんが、自分が当然と思っていることが、当然ではなかったり、よいと思っていることがよくなかったりもするのでございます。
ある人がお勉強を続けたりやる気を持ってやれているのに、自分にそれができないというのは、どこぞに何かの欠けたものや、単に自分の都合だけで見ている場合が多うございます。
そこで記録をとってみて、違うところから見直してみると、ふっと、あーしたら・こーしたらといった考えが生まれてくるものでございます。そうなったら、こっちのものであります。
記録とは、意外にパワーを生む作業であることを、ご実感くださればと存じます。

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