独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

ゆっくりやればいいじゃん

山登りをされた方には、ご経験があるかと存じます。
だいたい1つの山に1つは、心臓破りの坂と呼ばれるような、登るのに厳しい難所があるものでございます。
その難所では、急ぐと数倍は疲れるところでございます。ですから、ふうふうと、一足一足、足を動かしていかねばなりません。
山には、登り慣れた人がございます。まるで天狗のように、重い荷物を背負っているにもかかわらず、飛ぶように山道を登っていきます。
しかし、そうした天狗の方は、何度も何回も山を登っては下り、肩で息をして、ときには黄水を吐き出し、ときおり山の怖さを知った後での、天狗登りなのでございます。
幾多の経験を経てそうなったのに、ド素人の人がその真似をしたら酷い目に遭うのは、言を待たないかと存じます。
とはいえ、この点、山登りですと自然が相手ですので、登って行くうちに、(こいつはダメだ、ペースを守らんと)と悟って参ります。
ースを超えた登山をしても、酷い目に遭うのは自身ですから、どんな頑固な人でも、若作りな人でも、山に際しては、その本分を守るように、見受ける次第でございます。
ですから、難所に差しかかれば、ゆっくりと焦ることなく、段差を気にして、転ばないよう、僅か30センチも足らない距離を、時間をかけて踏んでいくわけでございます。
お勉強にも、登山と同じような場面に遭遇するものでございます。
山に勾配のきつい難所があるように、お勉強にも、どうにも難しかったり、複雑怪奇で理解によほど時間のかかるところがあるものでございます。
まあ、どんな試験でも、難所は5つほどあるとお考えくださればと存じます。
しかし、同じ難所といっても、お勉強におきましては、その難しさの起伏が物理的に目に見えません。
目の前にあるのは、同じ日本語で書かれたテキストしかありません。
ですから、頭のどこぞでは(こいつはムズカシイ、なんか違うぞ)と思いつつも、なぜかこれまでと同じような調子とペース、そして、気持ちで臨むことがあるのでございます。
しかし、難所ですから、普通の調子で行ってうまくいくわけがありません。調子のよいときなど、まさに好調に勢いを借りて、急勾配の坂をダッシュするかのような真似をする人もいて、散々な目に遭うのでございます。
目は先入観でいっぱいですから、理解は乏しく、憶えも悪く、だんだんとイライラして、余計に消耗するわけでございます。
お勉強の各試験科目、各単元、各章といいますのは、それ自体が独立したもので、ある章が簡単だったから、以降の章も簡単になるとは限りません。
なだらかな坂が続いたから、これからもなだらかだろう、と考える登山者がいれば、何時しかダウンして真っ青になることでしょう。
簡単といわれる試験でも、難所はございます。そこだけが難しいのに、調子に乗って、または高を括って油断する人が後を絶ちません。
まずは、お勉強というものには難所があるということを、もっといえば、何時しか難所に差しかかることを意識の片隅にでも置いていてくださればと存じます。
お勉強といいますのは、常に同じものではありません。どこぞで変わってくるものでございます。
まずは、そうした変化をおつかみくださればと存じます。そして、時折、その変化をつかみ損ねたときは、気持ちを入れ替え、ゆっくりじっくりと、地歩を固めるように目の前のことに接してくださればと存じます。
これまで上手く行ったから、今後も上手く行くだろうというのは、妄想に過ぎません。
試験なら高を括っても不合格だけありますが、人生のある局面の高括りが、致命的な失敗をもたらすことがございます。
お勉強はお勉強でありますが、それをしている人に変りはないことに、ご留意くださればと存じます。

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この程度で済んでいる

少し処世訓めいた雑文ではありますが、宜しくお目汚しの程、申し上げる次第でございます。
考える際の1つのポイントは、タイトルのままではありますが、「この程度で済んでいる」と考えるのが、大半のケースにおいて、適当ではないかと思う次第でございます。
もちろん、数年に一度くらいは、大惨事に遭遇することもありましょうが、そんな大惨事ともなりますと、人というのは肝が据わるもので、逆にぱぱっと解決したり割り切ったりできるのでございます。
意外に、考える事といいますのは、大惨事ではない普通のことで、アレコレと頭や心を悩ますものでございます。
このようなときは、「この程度で済んでいる」ように、目の前の事を考えるべきかと存じます。
いま目の前のことは、もしかしたらもっと悪くなっていた可能性だってあるわけでございます。
考えてみれば、この程度で済んでよかったのでは、というケースはたくさんあるように思います。
思い返してみれば、もっと悪いことが起きても少しも不思議ではないことはたくさんございます。
バイクでこけて擦り傷+修理代10万で済む人がいる一方で、同じような事故でも後続車に引かれてバイクは廃車、6ヶ月の入院になる人、しかもそれが原因でクビとなる人だっているわけでございます。
人もうらやむ配偶者を得た人が、実は、態よく同性愛を隔すために利用されているだけのこともあるわけでございます。
傍目から見れば理想的な家族でも、内実は全くの赤の他人よりも冷え切っていることなど、ごまんとございます。
わたくし達の認識といいますのは、制限されております。
先だってのススメでも申しましたが、自分の背中が見れない生き物でございます。
ブンチョウなどの鳥類、バッタといった昆虫ですら、360度のオールレンジ視界を有しているのに、人は悲しいかな、半分も見れないのでございます。
況や、心をや、内面をや、でございます。
お勉強のことで言いますれば、この程度の失点で済んでよかったじゃん、忘れたとはいえ他のところは憶えていたからいいじゃん、といったように、失敗や間違いに拘泥することなく、前向きに捉えなおしてくださればと存じます。
あるところが間違えていれば、他の似たところも間違って然るべきだが、間違ってないということは、その程度で済んでいる、といった次第でございます。
お勉強から日常の雑事・雑用、お仕事を含めて、トラブルや失敗に遭遇した際は、まず、「この程度で済んだ」と考えて、心に平静さを取り戻してくださればと存じます。
きっと好転するように思います。
しかし、ここからが本編なのですが、その程度で済んだことを天に感謝したら、もう2度と同じようなことが起きないように、鬼のような対策を取らねばなりません。
安心して、油断をして、ああよかったで済ましたり、事無きにしないことといっしょに、「この程度で済んだ」を見ていかねばならないのでございます。
間違えたのなら、2度と間違えないようにする。
忘れたのなら、2度と忘れないようにする。
そのための超絶な復習と繰り返しに着手しなければなりません。2度あることは3度あり、3度あれば必ずでございます。
再発の萌芽を、そのときに潰さねばなりません。将来的な解決を図るからこそ、楽観できるわけでございます。
楽観的といいますのは、非常に理性的で知性的、そして、打算的な考えでございます。
ぼけっとした状態を、決して楽観とはいいません。
きちんと考え、適切な対処・後処置を練る者が、楽観へとたどり着くのでございます。

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難しいは散歩のときに

考えるというのは、単に机の前で唸ることではありません。
机の前で唸っていれば、いったい誰が自然と名案やヒントが湧くと、言い出したのでしょうか。非常に謎でございます。
机の前でうんうんと唸ったり、首をひねっていれば、何かいいことがあったでしょうか。
基本的に、わたくしはよいことがなかったので、考え込むという行為については、懐疑的でございます。
1時間、考えに考えてみて、または、紙にあれこれと書き出してみて、またまた、文献をアレコレと当ってみて、何にも進展がないときは、潔く、机の前から離れるべきでございます。
そのまま、12時間座っていても、問題は解決しないことでしょう。
考え込むというのは、大概、難しいことやわからないことが、その対象であるかと存じます。
しかし、先に言ったように、難しいことやわからないことを考えてみて、1時間を経過したなら、場を変えるべきでございます。
推奨するのは、散歩に行くことでございます。そして、歩きながら考えてみることでございます。
近くの公園なり、河川敷なり、町内なりをぐるぐると、20分〜30分かけて、ゆっくり歩きながら、いま一度、前提から始めていったんゼロから考えてみることでございます。
なかには、せっかく捻出した勉強時間でありますから、散歩なんかもったいない、という方も居られるかと存じます。
そのようにお考えならば、否定は致しませんが、是非とも、考えに考えた結果、上手く行ったか行かなかったかだけは、きっちり把握してくださればと存じます。
考えに考えればうまくいく、という方も居られるでしょう。ただ、わたくしは上手く行かない人なのでございます。
うんうんと唸るよりかは、20〜30分の時間を犠牲にして、身体を動かしリフレッシュしてから、新たな解決方法なり解消の仕方を模索した方が、早いと実感する次第でございます。
考え込んでも名案が湧くでもない方は、うんうんと唸るようになったり、考えが煮つまったり、どん詰まりに落ち込んだり、思考の袋小路に入り込んだら、お散歩に出かけてくださればと存じます。
歩きに歩くと、呼吸も整ってきますし、身体動かすことから血流も増します。次第に、考えに疲れた頭もしゃんとしてくるでしょう。
そうすると、1〜2つくらいの、「こうしたらいいかも」とか「こうしてみよう」といった、手がかりなりヒントが見えてくるように思います。
長く考える作業というのは、その考える対象への理解が深まっており、たなごころのあるようなときに、最も効果を発するように考える次第でございます。
つまり、よく知っていることは、よく、長く考えられる、というわけでございます。
わからないことはもとより、難しいことは、あまりよくは知らないもの。ならば、ながーく考えるのに、不適当であるともいえるかと存じます。
難しいことやわからないことは、机の前で考え込まず、お散歩がてら歩きながら考えるのがよかろうかと存じます。

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