独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

集中ができないとき

だんだん、だんだんと暑くなってきております。
考えてみれば、今年もあと少しで半分が終わります。あと数日でもう7月でございます。
アレもコレもやっておきたかった!という焦燥感に駆られますが、暑くなるさなかでは、力は半分も出ません。
こうしたときは、何をどうやるか、しっかりとやるべきことの計画・順序と、力と時間の配分に思いを馳せて下ればと存じます。
しっかりした準備があれば、本調子になった際に、ぐっと物事が円滑に進むかと思います。
さて、本日のススメは、集中についてでございます。
お勉強というのは、片手間ではできるものではありません。
最近ではよく、インターネット上で行なわれるネット講義などがありますが、わたくし個人にとっては全くの無用と割り切ってございます。
というのも、ネットにつながった状態では、勉強どころか本すら読めないと、心底知っているからでございます。
必ずマウスはブラウザの起動ボタンをクリックして、何か趣味のページに飛んでいっていることでしょう。
集中というのは、実に繊細なものであって、何か少しでも邪魔をするようなものがあると、途端に揺れ動いてしまうことを、意識の片隅においておくべきかと存じます。
そして、集中というのは、心身の状態によって大きくブレのあるものでございます。
体調がよく、心も何とも落ち着いているときは、すっと集中状態に入り、長く集中状態に入っていることができます。
しかし、そんな心身ともに好調なんてことは年に数回しかないものでございます。
さて、集中して勉強をしたいが、何とも集中できないときは、まず、集中を妨げている物を遠ざけるか、隔離することがポイントでございます。
そこでまず、携帯電話の電源をオフにすることを推奨いたします。
何かとつながっているという状態は、まあ、安心するものではありますが、逆に、不安をもかき立てるものでございます。
基本的に、重大な案件の電話がかかってくるのは、年に1〜2回でございます。それ以外は、冷静に考えてみれば、ほんとうにどうでもいいし、お勉強の休憩のときや済んでから対処すればよいことばかりでございます。
ですから、ばっさりと電源を切ることを推奨いたします。
これで電話もかかってきませんし、メールもやっては参りません。外界とは隔絶された、自分の世界に浸ることが可能となります。
最初は不安がありますが、やっているうちに、次第に慣れていくかと思います。
携帯というものが思いのほか、自分を縛っていること、心の重みになっていることにお気づきくださればと存じます。
さて、さらに、もっと集中したいときは、インターネットの回線を切ることをお勧めいたします。
モジェラーから配線を抜いてしまうのでございます。こうすると、自宅の電話も通じなくなりますし、ネットにアクセスすることもできなくなります。
これで、どこからも、情報を得ることができなくなってしまいました。頼りになるのは、自分の頭とコレまでに蓄積してきた経験のみでございます。
やってもらえばわかるのですが、電話・モデムからコードを抜いてしまうと、何ともいいようのない不安と、安心というか安寧というか、落ち着きを得ることができるのでございます。
しかし、そのときに沸き起こる不安というのは、感じるのは最初だけで、ほおって置けばどこぞへ消える取るに足らない不安でございます。
もし、携帯やネットから分断されると、もの凄く不安になる方は、一度カウンセラーに相談するか、しっかりと自己を見つめる必要があるでしょう。これは、お勉強以上に喫緊な問題です。
ま、恐らく多くの方は、不安以上に落ち着きと安定の方を、感じるように思います。(あ、できそう!)というような実感に包まれるかと存じます。
基本的にわたくしは、ド集中したいときは、ネットの回線を物理的に切っております。
こうすると、他のところに気が散らなくなるので、ググっと目の前の事だけに入っていくのでございます。
インターネットというのは本当に便利なものですが、これまた大いに、わたくし達の集中を邪魔していたものだと、実感を得られるかと存じます。
便利なものほど邪魔になる。プラスがあればマイナスもある。
何か上手く行かないときは、プラスの物に潜むマイナスを見出してくださればと存じます。
プラスの中にそれがあるからこそ、見えにくいのでございます。

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ゆっくりやればいいじゃん

山登りをされた方には、ご経験があるかと存じます。
だいたい1つの山に1つは、心臓破りの坂と呼ばれるような、登るのに厳しい難所があるものでございます。
その難所では、急ぐと数倍は疲れるところでございます。ですから、ふうふうと、一足一足、足を動かしていかねばなりません。
山には、登り慣れた人がございます。まるで天狗のように、重い荷物を背負っているにもかかわらず、飛ぶように山道を登っていきます。
しかし、そうした天狗の方は、何度も何回も山を登っては下り、肩で息をして、ときには黄水を吐き出し、ときおり山の怖さを知った後での、天狗登りなのでございます。
幾多の経験を経てそうなったのに、ド素人の人がその真似をしたら酷い目に遭うのは、言を待たないかと存じます。
とはいえ、この点、山登りですと自然が相手ですので、登って行くうちに、(こいつはダメだ、ペースを守らんと)と悟って参ります。
ースを超えた登山をしても、酷い目に遭うのは自身ですから、どんな頑固な人でも、若作りな人でも、山に際しては、その本分を守るように、見受ける次第でございます。
ですから、難所に差しかかれば、ゆっくりと焦ることなく、段差を気にして、転ばないよう、僅か30センチも足らない距離を、時間をかけて踏んでいくわけでございます。
お勉強にも、登山と同じような場面に遭遇するものでございます。
山に勾配のきつい難所があるように、お勉強にも、どうにも難しかったり、複雑怪奇で理解によほど時間のかかるところがあるものでございます。
まあ、どんな試験でも、難所は5つほどあるとお考えくださればと存じます。
しかし、同じ難所といっても、お勉強におきましては、その難しさの起伏が物理的に目に見えません。
目の前にあるのは、同じ日本語で書かれたテキストしかありません。
ですから、頭のどこぞでは(こいつはムズカシイ、なんか違うぞ)と思いつつも、なぜかこれまでと同じような調子とペース、そして、気持ちで臨むことがあるのでございます。
しかし、難所ですから、普通の調子で行ってうまくいくわけがありません。調子のよいときなど、まさに好調に勢いを借りて、急勾配の坂をダッシュするかのような真似をする人もいて、散々な目に遭うのでございます。
目は先入観でいっぱいですから、理解は乏しく、憶えも悪く、だんだんとイライラして、余計に消耗するわけでございます。
お勉強の各試験科目、各単元、各章といいますのは、それ自体が独立したもので、ある章が簡単だったから、以降の章も簡単になるとは限りません。
なだらかな坂が続いたから、これからもなだらかだろう、と考える登山者がいれば、何時しかダウンして真っ青になることでしょう。
簡単といわれる試験でも、難所はございます。そこだけが難しいのに、調子に乗って、または高を括って油断する人が後を絶ちません。
まずは、お勉強というものには難所があるということを、もっといえば、何時しか難所に差しかかることを意識の片隅にでも置いていてくださればと存じます。
お勉強といいますのは、常に同じものではありません。どこぞで変わってくるものでございます。
まずは、そうした変化をおつかみくださればと存じます。そして、時折、その変化をつかみ損ねたときは、気持ちを入れ替え、ゆっくりじっくりと、地歩を固めるように目の前のことに接してくださればと存じます。
これまで上手く行ったから、今後も上手く行くだろうというのは、妄想に過ぎません。
試験なら高を括っても不合格だけありますが、人生のある局面の高括りが、致命的な失敗をもたらすことがございます。
お勉強はお勉強でありますが、それをしている人に変りはないことに、ご留意くださればと存じます。

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この程度で済んでいる

少し処世訓めいた雑文ではありますが、宜しくお目汚しの程、申し上げる次第でございます。
考える際の1つのポイントは、タイトルのままではありますが、「この程度で済んでいる」と考えるのが、大半のケースにおいて、適当ではないかと思う次第でございます。
もちろん、数年に一度くらいは、大惨事に遭遇することもありましょうが、そんな大惨事ともなりますと、人というのは肝が据わるもので、逆にぱぱっと解決したり割り切ったりできるのでございます。
意外に、考える事といいますのは、大惨事ではない普通のことで、アレコレと頭や心を悩ますものでございます。
このようなときは、「この程度で済んでいる」ように、目の前の事を考えるべきかと存じます。
いま目の前のことは、もしかしたらもっと悪くなっていた可能性だってあるわけでございます。
考えてみれば、この程度で済んでよかったのでは、というケースはたくさんあるように思います。
思い返してみれば、もっと悪いことが起きても少しも不思議ではないことはたくさんございます。
バイクでこけて擦り傷+修理代10万で済む人がいる一方で、同じような事故でも後続車に引かれてバイクは廃車、6ヶ月の入院になる人、しかもそれが原因でクビとなる人だっているわけでございます。
人もうらやむ配偶者を得た人が、実は、態よく同性愛を隔すために利用されているだけのこともあるわけでございます。
傍目から見れば理想的な家族でも、内実は全くの赤の他人よりも冷え切っていることなど、ごまんとございます。
わたくし達の認識といいますのは、制限されております。
先だってのススメでも申しましたが、自分の背中が見れない生き物でございます。
ブンチョウなどの鳥類、バッタといった昆虫ですら、360度のオールレンジ視界を有しているのに、人は悲しいかな、半分も見れないのでございます。
況や、心をや、内面をや、でございます。
お勉強のことで言いますれば、この程度の失点で済んでよかったじゃん、忘れたとはいえ他のところは憶えていたからいいじゃん、といったように、失敗や間違いに拘泥することなく、前向きに捉えなおしてくださればと存じます。
あるところが間違えていれば、他の似たところも間違って然るべきだが、間違ってないということは、その程度で済んでいる、といった次第でございます。
お勉強から日常の雑事・雑用、お仕事を含めて、トラブルや失敗に遭遇した際は、まず、「この程度で済んだ」と考えて、心に平静さを取り戻してくださればと存じます。
きっと好転するように思います。
しかし、ここからが本編なのですが、その程度で済んだことを天に感謝したら、もう2度と同じようなことが起きないように、鬼のような対策を取らねばなりません。
安心して、油断をして、ああよかったで済ましたり、事無きにしないことといっしょに、「この程度で済んだ」を見ていかねばならないのでございます。
間違えたのなら、2度と間違えないようにする。
忘れたのなら、2度と忘れないようにする。
そのための超絶な復習と繰り返しに着手しなければなりません。2度あることは3度あり、3度あれば必ずでございます。
再発の萌芽を、そのときに潰さねばなりません。将来的な解決を図るからこそ、楽観できるわけでございます。
楽観的といいますのは、非常に理性的で知性的、そして、打算的な考えでございます。
ぼけっとした状態を、決して楽観とはいいません。
きちんと考え、適切な対処・後処置を練る者が、楽観へとたどり着くのでございます。

(さらに…)