独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

この程度で済んでいる

少し処世訓めいた雑文ではありますが、宜しくお目汚しの程、申し上げる次第でございます。
考える際の1つのポイントは、タイトルのままではありますが、「この程度で済んでいる」と考えるのが、大半のケースにおいて、適当ではないかと思う次第でございます。
もちろん、数年に一度くらいは、大惨事に遭遇することもありましょうが、そんな大惨事ともなりますと、人というのは肝が据わるもので、逆にぱぱっと解決したり割り切ったりできるのでございます。
意外に、考える事といいますのは、大惨事ではない普通のことで、アレコレと頭や心を悩ますものでございます。
このようなときは、「この程度で済んでいる」ように、目の前の事を考えるべきかと存じます。
いま目の前のことは、もしかしたらもっと悪くなっていた可能性だってあるわけでございます。
考えてみれば、この程度で済んでよかったのでは、というケースはたくさんあるように思います。
思い返してみれば、もっと悪いことが起きても少しも不思議ではないことはたくさんございます。
バイクでこけて擦り傷+修理代10万で済む人がいる一方で、同じような事故でも後続車に引かれてバイクは廃車、6ヶ月の入院になる人、しかもそれが原因でクビとなる人だっているわけでございます。
人もうらやむ配偶者を得た人が、実は、態よく同性愛を隔すために利用されているだけのこともあるわけでございます。
傍目から見れば理想的な家族でも、内実は全くの赤の他人よりも冷え切っていることなど、ごまんとございます。
わたくし達の認識といいますのは、制限されております。
先だってのススメでも申しましたが、自分の背中が見れない生き物でございます。
ブンチョウなどの鳥類、バッタといった昆虫ですら、360度のオールレンジ視界を有しているのに、人は悲しいかな、半分も見れないのでございます。
況や、心をや、内面をや、でございます。
お勉強のことで言いますれば、この程度の失点で済んでよかったじゃん、忘れたとはいえ他のところは憶えていたからいいじゃん、といったように、失敗や間違いに拘泥することなく、前向きに捉えなおしてくださればと存じます。
あるところが間違えていれば、他の似たところも間違って然るべきだが、間違ってないということは、その程度で済んでいる、といった次第でございます。
お勉強から日常の雑事・雑用、お仕事を含めて、トラブルや失敗に遭遇した際は、まず、「この程度で済んだ」と考えて、心に平静さを取り戻してくださればと存じます。
きっと好転するように思います。
しかし、ここからが本編なのですが、その程度で済んだことを天に感謝したら、もう2度と同じようなことが起きないように、鬼のような対策を取らねばなりません。
安心して、油断をして、ああよかったで済ましたり、事無きにしないことといっしょに、「この程度で済んだ」を見ていかねばならないのでございます。
間違えたのなら、2度と間違えないようにする。
忘れたのなら、2度と忘れないようにする。
そのための超絶な復習と繰り返しに着手しなければなりません。2度あることは3度あり、3度あれば必ずでございます。
再発の萌芽を、そのときに潰さねばなりません。将来的な解決を図るからこそ、楽観できるわけでございます。
楽観的といいますのは、非常に理性的で知性的、そして、打算的な考えでございます。
ぼけっとした状態を、決して楽観とはいいません。
きちんと考え、適切な対処・後処置を練る者が、楽観へとたどり着くのでございます。

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難しいは散歩のときに

考えるというのは、単に机の前で唸ることではありません。
机の前で唸っていれば、いったい誰が自然と名案やヒントが湧くと、言い出したのでしょうか。非常に謎でございます。
机の前でうんうんと唸ったり、首をひねっていれば、何かいいことがあったでしょうか。
基本的に、わたくしはよいことがなかったので、考え込むという行為については、懐疑的でございます。
1時間、考えに考えてみて、または、紙にあれこれと書き出してみて、またまた、文献をアレコレと当ってみて、何にも進展がないときは、潔く、机の前から離れるべきでございます。
そのまま、12時間座っていても、問題は解決しないことでしょう。
考え込むというのは、大概、難しいことやわからないことが、その対象であるかと存じます。
しかし、先に言ったように、難しいことやわからないことを考えてみて、1時間を経過したなら、場を変えるべきでございます。
推奨するのは、散歩に行くことでございます。そして、歩きながら考えてみることでございます。
近くの公園なり、河川敷なり、町内なりをぐるぐると、20分〜30分かけて、ゆっくり歩きながら、いま一度、前提から始めていったんゼロから考えてみることでございます。
なかには、せっかく捻出した勉強時間でありますから、散歩なんかもったいない、という方も居られるかと存じます。
そのようにお考えならば、否定は致しませんが、是非とも、考えに考えた結果、上手く行ったか行かなかったかだけは、きっちり把握してくださればと存じます。
考えに考えればうまくいく、という方も居られるでしょう。ただ、わたくしは上手く行かない人なのでございます。
うんうんと唸るよりかは、20〜30分の時間を犠牲にして、身体を動かしリフレッシュしてから、新たな解決方法なり解消の仕方を模索した方が、早いと実感する次第でございます。
考え込んでも名案が湧くでもない方は、うんうんと唸るようになったり、考えが煮つまったり、どん詰まりに落ち込んだり、思考の袋小路に入り込んだら、お散歩に出かけてくださればと存じます。
歩きに歩くと、呼吸も整ってきますし、身体動かすことから血流も増します。次第に、考えに疲れた頭もしゃんとしてくるでしょう。
そうすると、1〜2つくらいの、「こうしたらいいかも」とか「こうしてみよう」といった、手がかりなりヒントが見えてくるように思います。
長く考える作業というのは、その考える対象への理解が深まっており、たなごころのあるようなときに、最も効果を発するように考える次第でございます。
つまり、よく知っていることは、よく、長く考えられる、というわけでございます。
わからないことはもとより、難しいことは、あまりよくは知らないもの。ならば、ながーく考えるのに、不適当であるともいえるかと存じます。
難しいことやわからないことは、机の前で考え込まず、お散歩がてら歩きながら考えるのがよかろうかと存じます。

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基本は先送り

基本的に独学では、わからないことや難しいことは、できるだけ先送りするものでございます。
とにかく、それほど手間のかからないところから制覇をして参ります。
次いで、そこそこの努力を払えば、点数の取れるところに着手いたします。
まだ、この時点では、判らないことや難問の解決を考えません。
まあ、ちょっとだけ挑戦するのもよいかもしれません。
実力が思った以上に充実していたり、調子がよいときや、冴えているときなら、さくっと解決するかもしれないからでございます。
とはいえ、物事といいますのは、そう簡単にうまく行くものでも、自分が思ったようにならないものでございます。
挑戦してみても、穏当にできないまんまであるかと存じます。
さて、ポイントは、ここでできなくても落ち込まないことでございます。
まだまだ先がございます。また、今できないからといって未来永劫、できないわけではありません。
ですから、再度先送りをして、目の前にある復習事項なりを消化していけばよいわけでございます。
さて、では、いつ難しいことやわからないことに着手するかでございます。
はっきりいますと、これといった基準なり要件はありません。
ただ、自身の心のうちに「やろう!」という気持ちが出て来るまでは、先送りすべきかと存じます。
そんなのでいいのかと思われるかもしれませんが、わたくしはいいと思います。
お勉強を続けるうちに、その難しいところやわからないところの配点の高さや、頻出度がわかってくるものでございます。
(ああ、あそこができなければ、2〜3点は失うなあ)などと思うことでしょう。
模試を受けたときにでも、(あそこができるようになれば、Aランクになってたんだよなあ)などと、思うこともありましょう。
人は、「なぜそれをするのか」という理由がある方が、いっそうエネルギーが湧いてきます。
先の思ったことが、それをする立派な理由となるのでございます。
「合格するためには、どうしてもできなければならない!」と打倒の炎が燃えている状態と、「やったほうがいいみたいな感じがするけれども、ぶっちゃけやりたくないよね。でもやったほうがいいんだけどめんどうだよね」というような、ダブルバインドの状態でやるのとでは、どれほどやる気の湧き方が違うでしょうか。
別人の如く、違ってくることでありましょう。
それに、でございます。
もしかしたら、難しいことやわからないことは、試験にはあまり出ないものかもしれないのでございます。
あまり試験に出ないものや重要でないものに、過度のパワーを費やして疲労困憊するよりも、「なぜするのか」という理由と根拠を先に集めるべきかと存じます。
集まって、難しいことやわからないことをやる価値が十分に実感してから、着手しても少しも遅くないように考える次第でございます。
やるにあたっての「機」について、お図りくださればと存じます。

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