昔からわたくしは、芸能界絡みのことを気になったことがないのでございます。
本当に、全く興味が沸かないのでございます。
ですから、雑誌等で芸能界が絡んだ記事というのは、ほとんどスルーしてしまいます。
どうでもいいからでございます。
代わりに、とでもいっておきましょうか、他人の身の上相談というのは、意外に好きなのでございます。
話というのはよくあるものでございます。
「亭主が浮気をしている、許せない!」てな感じなのですが、そこにいろいろと個人的な事柄が付いてくると、実に興味を抱き始めるのでございます。
介護と育児・教育でいそがしく、亭主の世話をしてなかったら、それを寂しく思ったのか、外で女を作った。しかし、その介護の相手は亭主の親で、育児・教育も亭主の子供たちである。
そのときは、毎日が忙しいので仕方がないと思っていたが、だんだんと馬鹿らしくなってきた。しかし先日、女から連絡があり、別れてくれて切り出された。
ナニヲイッテヤガンダコノヤロウ、と相談者は怒り心頭、どうにもゆるせない、どうしたいいか?と、身の上話から身の上相談へと続くわけでございます。
この時点でわたくしなどは、好奇心の固まりでございます。
非はもちろん亭主にございますが、亭主は亭主の事情もあるだろうと考えますし、もちろん、相談者の心情も痛いほどわかります。
もちろん、こんな馬鹿な亭主でも離婚すべきではありません。懲らしめなければなりませんし、浮気相手の泥棒ネコにも倫理の鉄槌をくださねばなりません。
しかし、相手は大人ですから、キイキイと怒鳴りつけてへこませても、影でどうするかわかったものでもありません。怒鳴ってあたるのも得策でない。事態は逆に進行することも考えられる。ならばどうすれば?!と考えは千千に乱れるのでございます。
この亭主が馬鹿なのは自明です。半分以上、自分のためにやってもらっているのに、それに対して、くそぶっかけるような真似をして、本当に愚かだなあと思わざるを得ません。
奥方の方も、風俗ならまだ許せたでしょうが、愛人ともなると、それも、節操なくこちらに連絡をつけて別れるよう切り出す程度の低い女なんざあ、怒髪天なのもわかります。
愛人も愛人で、そんなことをしたら火に灯油を注ぐようなもので、絶対に別れるわけが無いのに、連絡をするんですから、愚かとしか思えません。そもそも、愛人という不利な立場に立って戦おうとするだけで、愚かだわとアレコレ考えるわけでございます。
自分ならどう答えるか、などと考えだすと、たとえば、銀行の待ち時間などはすっとんでしまうのでございます。
こうした話は一例でございますが、しかし、よくよく考えてみれば、他人の身の上話というのは、実のところ、自分に起こっても少しもおかしくないことでございます。
一寸先は闇でございます。
破産話やら酒の上の失敗なども、読むにつけて我が身を振り返るわたくしでございます。
身の上話というのは、読んでフーン馬鹿だね、とかご愁傷様などと思うだけでは、非常にもったいないものがあるかと思います。
読んで当事者になった気になって考えて、次いで相談者になった気持ちで考えてみると、不思議なほど、事態というのが客観的に、第三者的に見えてくるのでございます。
それは巡って、自分というものを考える際にも、有用であるかと存じます。
お勉強に限らず、多くのことは何かある1つのことをすればうまくいく、というほど単純なものではありません。
がんばりさえすればよい、なんてことはありません。分析調査打算計算のもとで、わたくしたちは成り立っております。
困ったときほど、進展が詰まっているときほど、自分から1歩、身引いて考えなければならないように思います。
よくある身の上話にて、自身の客観視や第三者視を、ご練習くださればと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2010年7月14日 3:38 PM |
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最近になってよくよく思うことがございます。
お勉強というのは、知識なり教養なりを得るために、または、それを持っていることを証明するものを得んがために行なうものでありますが、もしかしたら、知らないことを知るために行なうものではないかと、つくづく思うようになってございます。
最近のわたくしは、何かを読んでもハハアと思ったり、何かを見ても、ふうむと思ったりするものでございます。
何かを知るにつけて、まだまだ知らないことだらけだなあ、と思うことしきりでございます。
ある一方でわかってくることがあれば、さらにもう片方でわからないことが増えていく、しかし、それが苦痛でもなく、何とも解明する楽しみというか期待感というか、そういうものがあるのでございます。
ま、そういう時期なり時の巡り合わせだといえば、そうなのでありますが、最近は実に知的に響くことが多いわたくしでございます。
個人的な、のろけの一種でありますが、お耳汚しでありました。
さてさて、お勉強についてでございます。
基本的に、お勉強の基本は楽観でございます。
理由の1つは、お勉強といいますのは、あまりに過度に、まじめに取り組んでも効がないときがあるからでございます。
お勉強したことがそのときはわからなくても、ちょっと時間がたってふとやり直してみると、そういうことかいなと氷解することは、得てして多いのでございます。
正比例のグラフのような、右肩上がりとならないのがお勉強の事実でございます。
すっごく身を入れてもダメなときもあるが、適当にやっても多少の理解に到る、こともあります。
ですから、出来や不出来を過度に考えるよりかは、気楽に楽観的に構えて、お勉強の継続を図るといった次第でございます。
とはいえ、気楽に、楽観的に構えるというのも、難しいものがございます。
本試験が近づけば焦りもするでしょうし、やったことを忘れていたり、できなくなっていれば、これまた、うんざりとして、悲観的になってしまうことでしょう。
確かに、憶えなければ合格は出来ません。
これは、記憶の有無を確かめる試験の真実でございます。
明確な記憶なくして、合格は絶対に出来ません。
言い換えれば、記憶することほど、合格をいざなうものはない、ということもできるのです。
量を憶えれば憶えるほど、点数を取れるチャンスは増し、正確に憶えれば憶えるほど、点のチャンスをつかむことができます。
だけれども、でございます。
最高の戦術が、自身を縛ることもあるのでございます。
記憶すれば優位なのが、逆に、記憶せねばならないとプレッシャーに転化してしまうと、これまた、荷厄介なことになってしまいます。
記憶というのは、ストレスを非常に嫌うからでございます。
憶えないと・憶えないと、と苛まれながら記憶の作業に励んでも、それほど効は奏しないのは、ピンとくるのではないでしょうか。
そうなった際は、「世の中知らないことばかり」などといって、視野を大きくすべきでございます。
確かに、目の前のテキストや問題集のアレコレを憶えなければならないでしょう。
しかし、それらは、いってしまえば、今後わたし自身が知るべきものの、1部分でしかない、もっと他にすべきこともあるのだ、などと考えることができますと、ふっと心の縛りが取れるといいますか、余裕を取り戻せるかと存じます。
記憶といいますのは根を詰めて憶えようとするよりも、何回も何度も時間を置いては改める方が、確実な記憶となるものでございます。
この「何回・何度」を可能にするのは、心の余裕にほかなりません。
(知らないことだらけなんだから仕方ないがね)などと思えるようになれば、記憶の敵である気負いや焦りも、だいぶ姿を消していくように思います。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2010年7月13日 3:22 PM |
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お薬の但し書きには、必ず「用法と用量をお守りください」と書かれているかと存じます。
お勉強も、同様でございます。
ときどき、自身の実力を超えた勉強量を課して、自分から破綻にひた走る方がおられるのでございます。
刷り込みとでもいうのでしょうか。
お勉強をがんばる=1日10時間も、12時間も勉強すると固定化されている人を見受けます。
脂が載りに載って、実力が付きに付いた直前期あたりなら、このような長時間のお勉強も可能でございます。
試験範囲の勉強はほぼ終わっておりますから、全て見聞きしたものでございます。
また、全科目・全論点・全単元について、考えたこともあるでしょうし、理解に及んだものばかりです。
記憶や暗記もある程度、できあがっております。
ですから、お勉強そのものについては、大きな障害がないわけでございます。
ゆえに、10時間以上ものお勉強が可能となるわけでございます。
彼らは最初から10時間の勉強をしてそうなったわけではなく、結果的に、10時間の勉強ができるようになっただけなのでございます。
しかし、実力がそうも付いておらず、また、試験範囲の勉強が全て終わってもいない、復習もそれほどやっていないのに、かの長時間の勉強をやろうとしても、障害が多くてかなりの苦痛となるのは、自然であるかと存じます。
お勉強におきましても、自身の実力に適うものを、自身の実力に適した量でやっていかねばならないのでございます。
車の免許を取ったばかりの人が突然、F1のレースに出るような無茶な勉強をやったり、ちょっと料理が上手くなったからといって、帝国ホテルの厨房に立つような身の程知らずの勉強をする方がおられます。
よほどタフで、精神力に優れた者でなければ、必ず挫折か放棄に到ることでしょう。
お勉強といいますのは、基本が長丁場の戦いでございます。
ということは、今すぐにできなくてもいいわけでありまして、じょじょにできるようになっていけばよい、ともいえるわけでございます。
一足飛びにできる方ならやればよいのですが、そうでないなら、1段1段、登っていくしかないように思います。
無理を通せば道理は引っ込みます。無理に無理をして、数ヵ月後に嫌気が差してばたんと止めてしまえば、元も子もありません。
一足飛びに階段を登っていって、頂上付近でスッ転べば危険なことはいうまでもありません。
お勉強という、一種の劇薬を摂る際は、適切な量と難易度をお確かめの上、摂取くださればと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2010年7月12日 11:01 AM |
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