ぱたんとやる気がなくなった時は、もくじを眺めることをお勧めいたします。
もくじといいますのは、試験について最も簡潔にまとめられた、いわば、まとめ図のようなものでございます。
やる気がない、といっても、本当のところは、残っているはずでございます。
なぜなら、完全にやる気がなくなって状態というのは、やるの「や」の字すら、頭に浮かばないからでございます。
完全になくなったとき、人はそのことを心の奥深くに仕舞い込んでしまいます。
ですから、やる気が出ないなあと思っていても、そう思えること自体が、まだ、やる気の残っている証左なのでございます。
それをどうするかが、腕の見せどころでございます。
さて、やる気が出ない状態というのは、2つ考えられます。
1つは、これまでにしんどいお勉強が続いたので、頭が今後もしんどいものが続くだろうと「予感」して、やる気にセーブをかけているときでございます。
結構、この自分でアクセルを踏もうとしているのに、ブレーキをもかけている状態はあるものでして、想像してみればわかりますように、ウォンウォンと車が行こうとしているのに止められているという、何とも身体によくない状態でございます。
2つ目は、先に何があるのかわからないので、不安で躊躇しているときでございます。
これもまた、先ほど言ったような、頭ではやろうとしているが身体はブレーキをかけている状態と、似たものがございます。
こうした状態にある時には、もくじが効くように思います。
これまでにやってきたことを、もくじを見て思い返してみると、自分が考える以上に、そうでもない思いを抱くように思います。
最初にを見たときに比べれば、ずっとわかるようになっておりますし、わからないのも、まあ、一時的なものだという感じを深められるのではないかと存じます。
そして、これからしていくところに視線を移せば、(このところは章は大変そうだな)という難易度の見当や、逆に、(この章はページ数が少ないので楽そうだ)といった見通しを立てられるように思います。
それぞれのページ数やボリュームも、もくじを見ればわかりますから、まるで登山の際の地図を見ているときのように、(○ページまではしんどそうだけど、面倒なのはここまでだな。あとは楽そう)とか、(難所はどこそこだ)といった、お勉強の工程といいますか、進めかたといいますか、お勉強詳細マップのようなものが頭に浮かんでくるように思うのでございます。
もちろん、あまりに次のところが難しいところは、飛ばすことにして、後々のできそうなところをもくじで探すのも、よき作戦であるかと存じます。
難しいところといいますのは、ある意味、総力戦でもありますので、こちらの実力が多少でも蓄えられてから臨んでも、全く支障はありません。
(テキストの本文は見たくない)、(問題集の問題も見たくない)、(過去問も言わずもがな)。
こんな時は、もくじをじっと眺めてみて、これまでのお勉強とこれからのお勉強について、思いを馳せてくださればと存じます。
基本、今までにそこまでできたことが、これからも相応にできるだろう証でございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2010年7月20日 5:11 PM |
| ▲ Back to Top. | ▲ Back to Homepage. |
運の良し悪しについての続きでございます。
運がいいとは、選択がうまくいくことなのでしょうか。
たとえば、AとBという箱が2つあって、Aにはお宝が、Bには生ゴミが入っていたとしましょう。
運がいい人というのは、Aが選べる人なのでしょうか。
しかし、そうではないでしょう。本当に運がいいのなら、AとBの両方の箱が選べる時点で、運がいいとは言えません。
生ゴミを手にする機会が、ほんのすぐそばまで迫っているからでございます。
しかも、運がいいのなら、AやBという箱を選ぶまでもなく、Aの中身が手に入っていて、しかるべきでございます。
Bの箱の中身を、まあ、Aより少し劣るようなものが入っていたとしましょう。
これも、よくよく考えてみれば、たとえAの箱が選べたとしても、まだ多少は価値のあるBが手に入れられなかったのでございます。
それは、運がよくないことではないか、というわけでございます。
そもそもの、そもそもでございます。
AやBという選択肢があること事態が、1つの不幸ではないでしょうか。
運がいいのなら、選択という悩むべき行為はないからでございます。
選ぶ、という行為そのものが、不幸なのでございます。
本当に運のいい人は、歩むべき道は1つであり、まっすぐに生き生きるものでございます。
まれに、こうした人もおられます。実に穏やかな顔をしてございます。
逆に、身の切れるような選択をした人ほど、何らかのつらさがにじんでいるものでございます。その選択がうまくいったとしても、でございます。
贅沢な悩み、というのは、幸運に見えて、実はそうではないのでございます。
たとえば、AさんとBさんとどちらと結婚しようか迷う、というのは、贅沢な悩みではありますが、言い換えれば、自分の命をなげうって少しも後悔のない、完全な愛をもちうるような人と縁がなかった、ということでもありましょう。
自身にとっては、A・Bさんともに一長一短、言ってしまえばそこそこだった、という縁の薄さを、そこはかとなく感じてしまうものでございます。
さて、このように考えて見ますと、意外に運の良し悪しなど、良かれも悪かれもあるのでございます。
言ってしまえば、運を良し悪しなど、あまり意味がないのでございます。
いや、考えて行けば、意味を見出す必要がなくなってくるのでございます。
不運だと思っても、もっと悲惨な境遇に陥ることだってございます。思い返したら、あの時は我が身の不運を呪っていたが、いまのほうが悲惨だべと思うことは誰だってあるように思います。
幸運だった出来事が、まさに逆縁で、悪いことばかりが起きることもございます。
反対に、何にもないというのが、意外に幸運だったりする方もおられるでしょう。
福禍はあざなえる縄の如し、とはよく言ったものでございます。
運の良し悪しなどは、見方を変えれば、いかようにも、その意味や内容が変ってしまうものでございます。
そんな当てにならないものは、茶飲み話程度にしておいて、各自、己のすべきことに尽力するのが1番幸せだったりするのでございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2010年7月16日 10:24 AM |
| ▲ Back to Top. | ▲ Back to Homepage. |
運といいますのは、あるようでないようなものでございます。
運がいい、悪いなどと、わたくしたちはいいますが、さて、どういうことが運のいいことで、悪いことなのか、あまりわかっていないものでございます。
たとえば、でございます。
不幸にも大掛かりな事故があったと致します。そうしますと時折、虫の知らせとでもいいましょうか、そのバスなり列車なり、飛行機には乗らなかったという人が出て参ります。
そういう人に対して、わたくしたちは「運がいい」と言いますが、さて、本当にそうなのか?、なのでございます。
九死に一生を得るような人というのは、運がいいのか、という次第でございます。
確かにぎりぎりで生き残った、ということだけ取れば運はいいでしょうが、どっちかというと、運の悪い部類の方ではないかと考えるのでございます。
本当に運がいい人なら、そんな危険な事態に遭遇しないはずでありましょう。
そうしますと、九死に一生を得る人というのは、そんな事態に我が身が近づく不幸な身でして、運がよいわけでもなくなるのでございます。
護身術というものに喩えてみれば、わかりやすいかと存じます。
護身術と聞きますと、手首をひねったり、顎を殴ったり、かかとで相手の足の甲を踏むなどなどと、そんな風なことが言われますが、さて、でございます。
そんな暴漢や痴漢もどきに襲われること自体、護身ができていないと思うのはわたくしだけでしょうか。
真の護身とは、危険な目に遭わないことでございます。危険なところは通らない、危険な人には近づかない、危険なことはしない、などが真の護身ではないかと考えるのでございます。
もっというなら、格闘技などは決して護身術ではありません。
腕に自信のある人ほど怪我をします。トラブルに巻き込まれます。
わたしたちが真に護身になるのは、例えば、常識や知恵であったり、挨拶であったり、礼儀作法であったり致します。
こうしたものの方を充実した方が、よほど身に降りかかる災いを振り払えるように思います。
さて、脱線しましたが、元の運の話に戻ります。
では、運がいいとは、自分が思ったとおりに事が運べば、運がよいことなのでしょうか。
駅に着いたらタイミングよく電車に乗れるのが、運がいいのでしょうか。でも、15分待てばいいことなので、運も不運もないでしょう。
ふと立ち寄ったお店がバーゲン中、売り出し中で、前から欲しかったものが安い値段で売っていたことが、運のいいことなのでしょうか。
しかし、本当に運がいいのなら、欲しかったものは既に手に入っていなければならないように思います。
欠乏すること事態が不幸であって、それは単に不運中の幸ではないか、というわけでございます。
そもそも、運がいいのなら、渇望なり不足なりの状態にならないわけでございます。
このように、わたしたちが運がいいと考えていることは、よくよく考えてみれば、それほど運のいいことでもないのでございます。
「運がいいとか悪いとか2」に続く。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2010年7月15日 6:43 PM |
| ▲ Back to Top. | ▲ Back to Homepage. |