運の良し悪しについての続きでございます。
運がいいとは、選択がうまくいくことなのでしょうか。
たとえば、AとBという箱が2つあって、Aにはお宝が、Bには生ゴミが入っていたとしましょう。
運がいい人というのは、Aが選べる人なのでしょうか。
しかし、そうではないでしょう。本当に運がいいのなら、AとBの両方の箱が選べる時点で、運がいいとは言えません。
生ゴミを手にする機会が、ほんのすぐそばまで迫っているからでございます。
しかも、運がいいのなら、AやBという箱を選ぶまでもなく、Aの中身が手に入っていて、しかるべきでございます。
Bの箱の中身を、まあ、Aより少し劣るようなものが入っていたとしましょう。
これも、よくよく考えてみれば、たとえAの箱が選べたとしても、まだ多少は価値のあるBが手に入れられなかったのでございます。
それは、運がよくないことではないか、というわけでございます。
そもそもの、そもそもでございます。
AやBという選択肢があること事態が、1つの不幸ではないでしょうか。
運がいいのなら、選択という悩むべき行為はないからでございます。
選ぶ、という行為そのものが、不幸なのでございます。
本当に運のいい人は、歩むべき道は1つであり、まっすぐに生き生きるものでございます。
まれに、こうした人もおられます。実に穏やかな顔をしてございます。
逆に、身の切れるような選択をした人ほど、何らかのつらさがにじんでいるものでございます。その選択がうまくいったとしても、でございます。
贅沢な悩み、というのは、幸運に見えて、実はそうではないのでございます。
たとえば、AさんとBさんとどちらと結婚しようか迷う、というのは、贅沢な悩みではありますが、言い換えれば、自分の命をなげうって少しも後悔のない、完全な愛をもちうるような人と縁がなかった、ということでもありましょう。
自身にとっては、A・Bさんともに一長一短、言ってしまえばそこそこだった、という縁の薄さを、そこはかとなく感じてしまうものでございます。
さて、このように考えて見ますと、意外に運の良し悪しなど、良かれも悪かれもあるのでございます。
言ってしまえば、運を良し悪しなど、あまり意味がないのでございます。
いや、考えて行けば、意味を見出す必要がなくなってくるのでございます。
不運だと思っても、もっと悲惨な境遇に陥ることだってございます。思い返したら、あの時は我が身の不運を呪っていたが、いまのほうが悲惨だべと思うことは誰だってあるように思います。
幸運だった出来事が、まさに逆縁で、悪いことばかりが起きることもございます。
反対に、何にもないというのが、意外に幸運だったりする方もおられるでしょう。
福禍はあざなえる縄の如し、とはよく言ったものでございます。
運の良し悪しなどは、見方を変えれば、いかようにも、その意味や内容が変ってしまうものでございます。
そんな当てにならないものは、茶飲み話程度にしておいて、各自、己のすべきことに尽力するのが1番幸せだったりするのでございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2010年7月16日 10:24 AM |
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運といいますのは、あるようでないようなものでございます。
運がいい、悪いなどと、わたくしたちはいいますが、さて、どういうことが運のいいことで、悪いことなのか、あまりわかっていないものでございます。
たとえば、でございます。
不幸にも大掛かりな事故があったと致します。そうしますと時折、虫の知らせとでもいいましょうか、そのバスなり列車なり、飛行機には乗らなかったという人が出て参ります。
そういう人に対して、わたくしたちは「運がいい」と言いますが、さて、本当にそうなのか?、なのでございます。
九死に一生を得るような人というのは、運がいいのか、という次第でございます。
確かにぎりぎりで生き残った、ということだけ取れば運はいいでしょうが、どっちかというと、運の悪い部類の方ではないかと考えるのでございます。
本当に運がいい人なら、そんな危険な事態に遭遇しないはずでありましょう。
そうしますと、九死に一生を得る人というのは、そんな事態に我が身が近づく不幸な身でして、運がよいわけでもなくなるのでございます。
護身術というものに喩えてみれば、わかりやすいかと存じます。
護身術と聞きますと、手首をひねったり、顎を殴ったり、かかとで相手の足の甲を踏むなどなどと、そんな風なことが言われますが、さて、でございます。
そんな暴漢や痴漢もどきに襲われること自体、護身ができていないと思うのはわたくしだけでしょうか。
真の護身とは、危険な目に遭わないことでございます。危険なところは通らない、危険な人には近づかない、危険なことはしない、などが真の護身ではないかと考えるのでございます。
もっというなら、格闘技などは決して護身術ではありません。
腕に自信のある人ほど怪我をします。トラブルに巻き込まれます。
わたしたちが真に護身になるのは、例えば、常識や知恵であったり、挨拶であったり、礼儀作法であったり致します。
こうしたものの方を充実した方が、よほど身に降りかかる災いを振り払えるように思います。
さて、脱線しましたが、元の運の話に戻ります。
では、運がいいとは、自分が思ったとおりに事が運べば、運がよいことなのでしょうか。
駅に着いたらタイミングよく電車に乗れるのが、運がいいのでしょうか。でも、15分待てばいいことなので、運も不運もないでしょう。
ふと立ち寄ったお店がバーゲン中、売り出し中で、前から欲しかったものが安い値段で売っていたことが、運のいいことなのでしょうか。
しかし、本当に運がいいのなら、欲しかったものは既に手に入っていなければならないように思います。
欠乏すること事態が不幸であって、それは単に不運中の幸ではないか、というわけでございます。
そもそも、運がいいのなら、渇望なり不足なりの状態にならないわけでございます。
このように、わたしたちが運がいいと考えていることは、よくよく考えてみれば、それほど運のいいことでもないのでございます。
「運がいいとか悪いとか2」に続く。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2010年7月15日 6:43 PM |
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昔からわたくしは、芸能界絡みのことを気になったことがないのでございます。
本当に、全く興味が沸かないのでございます。
ですから、雑誌等で芸能界が絡んだ記事というのは、ほとんどスルーしてしまいます。
どうでもいいからでございます。
代わりに、とでもいっておきましょうか、他人の身の上相談というのは、意外に好きなのでございます。
話というのはよくあるものでございます。
「亭主が浮気をしている、許せない!」てな感じなのですが、そこにいろいろと個人的な事柄が付いてくると、実に興味を抱き始めるのでございます。
介護と育児・教育でいそがしく、亭主の世話をしてなかったら、それを寂しく思ったのか、外で女を作った。しかし、その介護の相手は亭主の親で、育児・教育も亭主の子供たちである。
そのときは、毎日が忙しいので仕方がないと思っていたが、だんだんと馬鹿らしくなってきた。しかし先日、女から連絡があり、別れてくれて切り出された。
ナニヲイッテヤガンダコノヤロウ、と相談者は怒り心頭、どうにもゆるせない、どうしたいいか?と、身の上話から身の上相談へと続くわけでございます。
この時点でわたくしなどは、好奇心の固まりでございます。
非はもちろん亭主にございますが、亭主は亭主の事情もあるだろうと考えますし、もちろん、相談者の心情も痛いほどわかります。
もちろん、こんな馬鹿な亭主でも離婚すべきではありません。懲らしめなければなりませんし、浮気相手の泥棒ネコにも倫理の鉄槌をくださねばなりません。
しかし、相手は大人ですから、キイキイと怒鳴りつけてへこませても、影でどうするかわかったものでもありません。怒鳴ってあたるのも得策でない。事態は逆に進行することも考えられる。ならばどうすれば?!と考えは千千に乱れるのでございます。
この亭主が馬鹿なのは自明です。半分以上、自分のためにやってもらっているのに、それに対して、くそぶっかけるような真似をして、本当に愚かだなあと思わざるを得ません。
奥方の方も、風俗ならまだ許せたでしょうが、愛人ともなると、それも、節操なくこちらに連絡をつけて別れるよう切り出す程度の低い女なんざあ、怒髪天なのもわかります。
愛人も愛人で、そんなことをしたら火に灯油を注ぐようなもので、絶対に別れるわけが無いのに、連絡をするんですから、愚かとしか思えません。そもそも、愛人という不利な立場に立って戦おうとするだけで、愚かだわとアレコレ考えるわけでございます。
自分ならどう答えるか、などと考えだすと、たとえば、銀行の待ち時間などはすっとんでしまうのでございます。
こうした話は一例でございますが、しかし、よくよく考えてみれば、他人の身の上話というのは、実のところ、自分に起こっても少しもおかしくないことでございます。
一寸先は闇でございます。
破産話やら酒の上の失敗なども、読むにつけて我が身を振り返るわたくしでございます。
身の上話というのは、読んでフーン馬鹿だね、とかご愁傷様などと思うだけでは、非常にもったいないものがあるかと思います。
読んで当事者になった気になって考えて、次いで相談者になった気持ちで考えてみると、不思議なほど、事態というのが客観的に、第三者的に見えてくるのでございます。
それは巡って、自分というものを考える際にも、有用であるかと存じます。
お勉強に限らず、多くのことは何かある1つのことをすればうまくいく、というほど単純なものではありません。
がんばりさえすればよい、なんてことはありません。分析調査打算計算のもとで、わたくしたちは成り立っております。
困ったときほど、進展が詰まっているときほど、自分から1歩、身引いて考えなければならないように思います。
よくある身の上話にて、自身の客観視や第三者視を、ご練習くださればと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2010年7月14日 3:38 PM |
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