独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

過度のまじめを控える

お勉強といいますのは、語弊があるかもしれませんが、基本は適当でございます。
しかし、適当ではあるけれども、ふざけたり手を抜くわけでもないのでございます。
このあたりの塩梅は、実に難しゅうございます。
独学では、まず過度のまじめを避けます。
というのも、超絶的にまじめにお勉強に取り組んだとしても、だからといって必ず理解や記憶に到達するとは限らないからでございます。
理解や記憶というのは、非常にあいまいなもので、これこれこうしたらそうなる、といったものではないのでございます。
加えて、過度のまじめが困るのは、反動の大きさでございます。
一生懸命にやったけれども、結果が付いてこないと誰でも大ショックでございます。
このため、試験勉強の放棄や挫折に繋がりやすいのでございます。
しかもまた、まじめや真剣状態というのは、そう何度もなりえない、心の状態でございます。
まじめにするというのは、意外に心に負担がかかるのでございます。
まじめな状態というのは、ほんとうに逆説的な言い方ですが、自分がまじめにやると言う意識がなくなってから、真のまじめ状態・真剣状態に入っていくのでございます。
このように考えるとわかりやすいかと思います。
安全運転をしなくちゃと四六時中考えているドライバーは、安全運転をしてるのでしょうか。
おそらくそうではありません。
真の安全運転ドライバーとは、見通しの悪いところや視界の悪いとき、また、何か妖しく感じるところに来ると、何の標識も注意書きがなくても、無意識的に減速し周辺に気を配るのが優秀なドライバーでございます。
長距離トラックや大型重機の運転手などは、まさに、考えずとも無意図で安全運転が「できる」人たちでございます。
彼ら動きを見ていると、完全にわかっているように、無意識の部分にまでできあがっている感がございます。
そうしようと思わなくなって、そうなるという面が、人にはあるように存じます。
お勉強においても同様で、『勉強』という意識が薄れてきたときこそ、もっともがんばっている状態・やれている状態なのでございます。
こうなるには、まじめでがちがちに意識を固めていると、到達できないのでございます。
ですから、独学においては、過度のまじめを避け、心に多少の「あそび」をもって、お勉強に適当に接するわけでございます。
また、過度のまじめは、ストレスが溜まりやすい特徴がございます。
毎日毎日、まじめかつ真剣にお勉強をしていれば、それこそ、あっという間にストレスはピークに達し、挫折や放棄が顔を見せ始めるものでございます。
ですから、独学では、そう過度にまじめにやらず、肩の力を抜いて気長に取り組んでいくのでございます。
適当な方が、お勉強そのものへの接触回数が増えて記憶効率も良く、とりあえずですが、お勉強も続いていく次第でございます。
もちろん、燃え立つようなまじめで真剣なお勉強もないことはありませんが、基本的にわたくしのフル真剣とフルまじめは、模試前や本試験1ヶ月前の直前期くらいでございます。
過度のまじめは時々飲めばいいような、高級な栄養ドリンクか薬局処方の医薬品程度に考えて、多用しないのが賢明かと存じます。

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もくじを見るだけで

ぱたんとやる気がなくなった時は、もくじを眺めることをお勧めいたします。
もくじといいますのは、試験について最も簡潔にまとめられた、いわば、まとめ図のようなものでございます。
やる気がない、といっても、本当のところは、残っているはずでございます。
なぜなら、完全にやる気がなくなって状態というのは、やるの「や」の字すら、頭に浮かばないからでございます。
完全になくなったとき、人はそのことを心の奥深くに仕舞い込んでしまいます。
ですから、やる気が出ないなあと思っていても、そう思えること自体が、まだ、やる気の残っている証左なのでございます。
それをどうするかが、腕の見せどころでございます。
さて、やる気が出ない状態というのは、2つ考えられます。
1つは、これまでにしんどいお勉強が続いたので、頭が今後もしんどいものが続くだろうと「予感」して、やる気にセーブをかけているときでございます。
結構、この自分でアクセルを踏もうとしているのに、ブレーキをもかけている状態はあるものでして、想像してみればわかりますように、ウォンウォンと車が行こうとしているのに止められているという、何とも身体によくない状態でございます。
2つ目は、先に何があるのかわからないので、不安で躊躇しているときでございます。
これもまた、先ほど言ったような、頭ではやろうとしているが身体はブレーキをかけている状態と、似たものがございます。
こうした状態にある時には、もくじが効くように思います。
これまでにやってきたことを、もくじを見て思い返してみると、自分が考える以上に、そうでもない思いを抱くように思います。
最初にを見たときに比べれば、ずっとわかるようになっておりますし、わからないのも、まあ、一時的なものだという感じを深められるのではないかと存じます。
そして、これからしていくところに視線を移せば、(このところは章は大変そうだな)という難易度の見当や、逆に、(この章はページ数が少ないので楽そうだ)といった見通しを立てられるように思います。
それぞれのページ数やボリュームも、もくじを見ればわかりますから、まるで登山の際の地図を見ているときのように、(○ページまではしんどそうだけど、面倒なのはここまでだな。あとは楽そう)とか、(難所はどこそこだ)といった、お勉強の工程といいますか、進めかたといいますか、お勉強詳細マップのようなものが頭に浮かんでくるように思うのでございます。
もちろん、あまりに次のところが難しいところは、飛ばすことにして、後々のできそうなところをもくじで探すのも、よき作戦であるかと存じます。
難しいところといいますのは、ある意味、総力戦でもありますので、こちらの実力が多少でも蓄えられてから臨んでも、全く支障はありません。
(テキストの本文は見たくない)、(問題集の問題も見たくない)、(過去問も言わずもがな)。
こんな時は、もくじをじっと眺めてみて、これまでのお勉強とこれからのお勉強について、思いを馳せてくださればと存じます。
基本、今までにそこまでできたことが、これからも相応にできるだろう証でございます。

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運がいいとか悪いとか2

運の良し悪しについての続きでございます。
運がいいとは、選択がうまくいくことなのでしょうか。
たとえば、AとBという箱が2つあって、Aにはお宝が、Bには生ゴミが入っていたとしましょう。
運がいい人というのは、Aが選べる人なのでしょうか。
しかし、そうではないでしょう。本当に運がいいのなら、AとBの両方の箱が選べる時点で、運がいいとは言えません。
生ゴミを手にする機会が、ほんのすぐそばまで迫っているからでございます。
しかも、運がいいのなら、AやBという箱を選ぶまでもなく、Aの中身が手に入っていて、しかるべきでございます。
Bの箱の中身を、まあ、Aより少し劣るようなものが入っていたとしましょう。
これも、よくよく考えてみれば、たとえAの箱が選べたとしても、まだ多少は価値のあるBが手に入れられなかったのでございます。
それは、運がよくないことではないか、というわけでございます。
そもそもの、そもそもでございます。
AやBという選択肢があること事態が、1つの不幸ではないでしょうか。
運がいいのなら、選択という悩むべき行為はないからでございます。
選ぶ、という行為そのものが、不幸なのでございます。
本当に運のいい人は、歩むべき道は1つであり、まっすぐに生き生きるものでございます。
まれに、こうした人もおられます。実に穏やかな顔をしてございます。
逆に、身の切れるような選択をした人ほど、何らかのつらさがにじんでいるものでございます。その選択がうまくいったとしても、でございます。
贅沢な悩み、というのは、幸運に見えて、実はそうではないのでございます。
たとえば、AさんとBさんとどちらと結婚しようか迷う、というのは、贅沢な悩みではありますが、言い換えれば、自分の命をなげうって少しも後悔のない、完全な愛をもちうるような人と縁がなかった、ということでもありましょう。
自身にとっては、A・Bさんともに一長一短、言ってしまえばそこそこだった、という縁の薄さを、そこはかとなく感じてしまうものでございます。
さて、このように考えて見ますと、意外に運の良し悪しなど、良かれも悪かれもあるのでございます。
言ってしまえば、運を良し悪しなど、あまり意味がないのでございます。
いや、考えて行けば、意味を見出す必要がなくなってくるのでございます。
不運だと思っても、もっと悲惨な境遇に陥ることだってございます。思い返したら、あの時は我が身の不運を呪っていたが、いまのほうが悲惨だべと思うことは誰だってあるように思います。
幸運だった出来事が、まさに逆縁で、悪いことばかりが起きることもございます。
反対に、何にもないというのが、意外に幸運だったりする方もおられるでしょう。
福禍はあざなえる縄の如し、とはよく言ったものでございます。
運の良し悪しなどは、見方を変えれば、いかようにも、その意味や内容が変ってしまうものでございます。
そんな当てにならないものは、茶飲み話程度にしておいて、各自、己のすべきことに尽力するのが1番幸せだったりするのでございます。

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