独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

フェレンギ人のバイブル22〜24

『22. 賢者は風の音にも金儲けのタネを聞き分ける。』
タレスが、自身の天文学の知識を利用して、オリーブの先物で金儲けをしたことは有名である。(オリーブの搾取機械をすべて借り占めた。)
賢者と言うのは、常に開いている人であるように思う。
賢者は、膨大な百科事典的、文法的、数式的な知識でいっぱいになった人ではない。
なぜなら、彼らは閉じてしまっているからである。
彼らの知識の仕入先は決まっている。権威のある業界紙、論文集、博士号、ブランド名が、彼らの源泉である。
それらを豊富に引用すれば、誰かを説得はしやすいだろう。理屈めいたことを言えるだろう。ひとまず整理のついた言が吐けるだろう。
しかし、引用することは、物事を考えたことには、決してなりはしないのである。
必要なのは、自身の耳目と頭であろう。金儲けは、引用でするものではない。
なお、本当に儲かるのは、何物でもなかったものにある、と思うのだけれども、いかがであろうか。
個人的には、ぶつぶつ付きのしゃもじを作った人は、かなりの賢者要素があるように思う。
米作開始の弥生時代以来、何億というしゃもじが作られてきたろうが、突起が付いているしゃもじの方がご飯が引っ付き難いなんて、誰も気が付かなかったし、やりもしなかったのである。
しゃもじという、ほんとうに何でもない物からでも、富は生まれるのである。
タレスは星空から金儲けをした。賢者は、何物からでも学ぶことができるし、知ることもできる。
何物でもないことの叡智に気づく人が賢者である。
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『23. 最後のコインに手を出してはいけない。だがその他は全てつかみ取れ。』
考えられるのは、わたしたちの心理的なことである。
最後のことというのは、かなり憶えているのである。途中のことは、よく忘れているのである。
たとえば、会食等で、最後の最後まで皿を離さず食べている人がいるとする。
その人は、進行係であったり座持ち・場持ちをするために、会食中は全く食べずに飲まずにいたとする。
だから、自分が食べるのは、常に最後の方になってしまうのだが、これが毎度のことになると、彼はよく食べる、と言われるようになるのである。
彼なり彼女が、少し太っていたのなら、必ずそう言われるようになるだろう。
「最後」は記憶に残りやすいのである。
今回の言のコインについても、それまでに幾ら太っ腹なところを見せても、最後の最後までがっついていると、悪評の方が強くなってしまうのである。
いいイメージを演出してきたことが、すべてムダになってしまう。
だから、最後の最後は、自身のイメージを買うために、他に譲るのである。
謙譲の徳は持たずとも、謙譲のふりはすることができる、とフェレンギ人は見ているのだ。
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『24. いつ儲かるかなんて人には聞くな。』
まず1つは、かつがれているケースがある。
カモにされている人が、カモっている人に聞く時がある。「いつ儲かるの?」と。そんな馬鹿な話はない。
カモが鴨南蛮の料理人に、「いつ火が通りますか?」と聞くようなものだ。
自分の置かれた位置がわからないし、判断もできないし、そして、それらを考えようとしないから馬鹿なのである。
自分の頭脳を他人に預けていないかどうか、よくよく省みることである。預けるにしても、担保は取ろう。
さて、次に考えられるのは、将来的に、いつ儲かるかなんて誰にもわからない、ということである。
学者や研究者、評論家、作家、ライター、マスコミは、現在の読者のために奉仕するものである。
現在の読者のために、コメントなり、文章なり、論文を発表・販売する。
もしその金儲けが、耳目を集めてよい評判「そう」ならば、持ち上げるだろう。
数々の賞賛記事を思い出してみよう。
もし、彼らの利益を害したり、世評で悪い評判「そう」ならば、叩くであろう。
数々のバッシングを思い出してみよう。
現在の読者を念頭において書くのが、一流のプロであって、将来どうなるかについては、書けはしないのである。
そういう体裁をしているが。
もし、そんなことをしたら、ゴッソリと部数は落ちるか、今後のキャリアは道が閉ざされるだろう。
わたしたちは、いつ儲かるかが実に不確実であるから、他の何かに意見を求めようとする、それも、手っ取り早いものを。
しかし、儲かりそうか儲かりそうかでないかは、現場に立っているわたしたち自身が1番よく知りうる立場にあるし、なおかつ、儲かりそうかどうかは、心の底ではわかっているような気がする。
他人の儲かるか儲からないかは、一瞬でわかるのに、自分たちのそれはわからない。
そのあたりの機微を飲み込んだ上で、各種情報に接するべきかと思う。
※ ちなみに、「フェレンギ人」とは、『スタートレック』に登場する、金儲け☆大好き星人です。

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自信のあるなし

本試験などが近づきますと、自信について語られたりするものございます。
しかし、この自信でございますが、あればよい、という代物ではないことを、指摘しておきたく存じます。
有体に言えば、自信があり過ぎても困る、のでございます。
わたくし自身が思い返すに、最もしんどい思いをしたのが、まさに、自信のあるところだったからでございます。
自信の無いところというのは、まるでトゲのように、ちくちくと心を刺すものではあります。
気分のよいものではありませんが、テキストの集中的な読み込みや、徹底した集中演習など、ある程度の対処なり対策を取っていけば、自然と解消するものでございます。
自信がなくてアウトとなるのは、全く手付かずのまま、その自信の無いところを放置した場合でありまして、そらまあ、ダメでしょという次第でございます。
自信がなくても、相応の努力と注意を払ってきたならば、多少自信がなくても大丈夫であることを、指摘しておきたく存じます。
これに対しまして、自信のあるところといいますのは、当の本人ができると思っておりますから、それほど省みられこないことが多く、かなり手薄となっているのでございます。
そのため、考え違いや憶え間違い、理解不足や記憶不足が、そっくりそのままになっていることがあるのでございます。
そして、まだマシなケースでは、模試のときにできない事に気付いて愕然としたり、最悪なケースでは、本試験の最も大事なときに、自信のできなさを発見してしまうのでございます。
硬いものほど壊れやすい、柔らかいものは壊れにくい、とよく申しますが、自信にはピッタリな言であるかと存じます。
試験勉強の全体が、ガラガラっと、グラグラっとするのは、自信のあるところ・自信のあったところからなのでございます。
本当に、弱い不安のあるところからではなくて、強いはずの自信のあるところから、挫折や放棄が始まるのでございます。
自信のあるところができてないことが判明したしますと、その他のところもできないのではないかと、自信喪失の波が、それ以外のところにも連鎖していくのでございます。
疑心暗鬼となって、心は重く、気は晴れず、本当に困ったこととなるのでございます。
思いますに、自信といいますものは、?調子が落ちていっているときで、?その落下振りを阻止することができず、?このまま行けば深みにはまりそうな予感があるときに、「自信」云々を考えるべきでございます。
こうしたときに、「自信を持とう」と活を入れて、これまでやってきたことを信じれば、だいぶ、気持ちも治まってきますので、効果的であるかと存じます。
自信といいますのは、その字の如く、信じるということでありますので、理屈を超えているのでございます。
人生におきましても、根拠もクソもなく、信じなければならないときが、時たまあるものでございます。
それがたまたま、試験勉強のときに起きたのでございます。
こうしたやばそうなときこそ、自信の出番でありまして、それ以外の、普通のときや何とかなっているとき、況や好調のときなどは、自信云々は考えずとも良いかと存じます。
それ以上に、そんな時間や余分なエネルギーがあるなら、テキストの1ページ目か読み直すなり、索引で知らない単語や語句がないかをチェックした方が、よっぽど合格に資するものがあるかと存じます。
古今の例を引くまでもなく、自信過多が崩壊の始まりとなった、組織なり企業なり個人なりは、多々ございます。
自信はあり過ぎても厄介なものということを、改めてご認識くださればと存じます。

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たくさんあるとき

人生の至福といいますのは、お買い物でございます。
このケチなわたくしですら、買い物袋を2個も3個も、それ以上を持つのは、それほど不愉快なことではありません。
買い物したなあ、という日は、なかなかに気持ちのよいものなのでございます。
しかし、あまりに多岐に、日用品から食料品、パソコンパーツから服、靴まで買いますと、持ち方にも意を払わねばなりません。
柔らかい食べ物袋の近くに硬いものを入れた袋を持たないといった按配でございます。
宰領するものが増えれば増えるほど、分けたり整理したりして、荷物を整理しなくてはならないわけでございます。
お勉強につきましても、同様でございます。
あまりにやることが多くて、てんてこ舞いというときは、やはり、やるべき対象を整理しなくてはなりません。
AもBもCもDも、ついでにEもある、あ、Fも見直しておかないと、てな感じに、ごちゃごちゃになってきたら、ひとまず、そこでストップでございます。
まあ、とりあえずは、重要度の順にまとめます。
この前の問題演習でできなかったAとCは1番最初に、次はEをして、BDはぶっちゃけやらなくてもいいてな感じでわけていきます。
これだけでも、何をすべきか、きっちりと心に映えるのではないかと存じます。
あるいは、難易度順にまとめるのもよいかと存じます。
簡単な順・できそうな順でも構いませんし、難しい順番にするのもようございます。
気分の乗らないときは簡単なものからで、または、のびのびに・先送りに先送りされた事項があるのであれば、難しい順にして、いのいちに消化してゆけば良いかと存じます。
それか、時間のかかる順もようございます。
時間のかかるものが後に控えていると、それだけで気重になるものでございます。
ですから、先にかかるものをやってしまって、勢いをつけるといった塩梅でございます。
また、逆の、すぐ終わるものを先頭に持ってくるのもようございます。
ぱぱっと2個か3個済ませて、これまた、勢いをつけるといった次第でございます。
そのほか、機械的にするのもようございます。
やるべきことを紙に書き出して、そっくりそのまま、なんの考えもなく、ブルドーザー並みの力技にて紙の上の個々を消化して行くのも、手っ取り早くて単純でようございます。
紙に書き出したものを、あいうえお順やABC順にソートして、粛々と消化していくのもよろしいでしょう。
物事をいいますのは、やる順番を変えることで、かなりやり易くなったり、やりにくくなったりするものでございます。
やるべきことにたくさん囲まれている際は、上記のような手を加えてお取り組みくださればと存じます。

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