独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

何回やってもいいところはある

頭の良さというのは、回転の良さ、結論を出す速さに置かれておりますが、それをそっくり信仰するのは、危険であるように思います。

理想は、即断即決、即・結論ではございます。

すぐに答えを出す。あっという間に答える。それはまさしく、理想でございます。

しかしながら、「すぐ」というのには、結構な落とし穴があることを、わたくしたちは知っておかねばならないように思います。

どうでもいいことなら、即断即決もようございましょう。

たとえば、弁当とかのオーダーで、うっだうっだとメニューを見て何を食べるか悩まれても、困ってしまいます。

何を食べようが、大半は冷凍を揚げるくらいのものなのですから、ほとんど同じでございます。

こうしたどーだっていいことを、時間を使ってゆっくりじっくりと、決める必要はないでしょう。

これがです、何を食事を頼むのかということを話の種にして、アルコール度数が低めの甘くて軽い食前酒とちょっとした前菜があって、食材がどうのこうの、産地がどうのこうの、季節がどうのこうの、あそこで食べたアレ、あの店のアレ云々と、和気藹々とした雰囲気で、アア!ナニヲタノンダライイノダロウと、「悩み」を演出しながら考えるのならば、結構至極でございます。

こうした場面でゆっくりと考え、そして、話題を提供し、場を盛り上げるのが、まさに「イキ」でございます。

こういうところで、アー!ダー!コー!と即断即決されては、料理が冷める前に心が醒める、野暮ったい奴となるものでございます。

あとで、飢えた田舎もん、とでも陰口を叩けばよいでしょう。

即決は、確かにウダウダと無意味に時を消費するくらいなら、よいものかもしれませんが、万能ではないといった次第でございます。

お勉強においても、同様でございます。

1回で済ませる、すぐに済ませるというのは、世間の頭のものさしでありまして、それがそっくりそのまま、お勉強で役立つわけではございません。

何度でも見ていいところがございます。

何回読んでもいいところがございます。

何回でも考え直していいところがございます。

何度でも解き直してもよい問題がございます。

何回も何度もすることで、身に備わってくる実力もございます。 

逆を言うなら、こうしたことを、1回で終わらせるのは、非常にもったいないのでございます。

お勉強におきましては、1回ですぐさま終わることを、たいしたことではない、重要ではないと考えないようにしてくださればと存じます。

価値のあるところ・ものは、何度でもやるべきでありまして、そういうところは、確実に存在してございます。

この点、勘違いをなさらぬよう、ご助言する次第でございます。

運は不運のみにあらず

試験は水物でございます。

そら、合格率よりも不合格率のほうが高いのですから、何とも、落ちるものとしかいいようがないのでございます。

合格率を成功率、不合格の率を失敗率、なんて風に言い換えれば、よりいっそう、試験というものの落ち方がわかるかと存じます。

10%の合格率なら、10%の成功率でありまして、言い換えるなら、失敗率90%。

手術ならば、誰も受ける奴はいない、という感じのパーセンテージなのでございます。

もともと本来、試験というものは落ちるものであることを、意識の片隅にでも置いていてくださればと存じます。

ただ、勘違いして花らないのは、勉強不足やら努力不足などは、運不運の問題ではありません。

それは、なるべくしてなった、としかいいようがございません。

運が問題となってくるのは、きちんとした努力を払い、相応の時間をお勉強に充てたのに、落ちてしまった場合でございます。

過去問もみっちりやった。

テキストも精読・多読を行なった。

模試を受けたがA判定であった。

まあ、自身と手ごたえがあった。

このような方々だけが、運を問題にできるのでございます。

運悪く、何かのいたずらで、実質的には合格している人が、不運にも落ちてしまうのが、試験の現実でございます。

ですから、落ちたこと自体は、済んだこと・仕方のなかったこととして、水に流すしかないのでございます。

もう一度いいますが、「運」が問題であったのでございます。

逆を言うなら、このまま相応の努力を続ければ、いつの日か、必ず受かるわけでもあるのでございます。

どうしてかというと、ある特定の誰かだけが、落ち続けるということは、運を考える上で、ないからでございます。

運はおっそろしいほどに平等でございます。だから、ギャンブルは成り立ってございます。

1人だけも勝ち続ける人間がいたら、賭けは成立しません。その人が世界中の賭け金の全てを取っていくからでございます。

幸運と不運とが巡り巡るのが、運の世界でございます。

ですから、相応の実力を有している人なら、合格するだけの実力がある人ならば、今回は不運に落ちても、次回、次々回でほぼ受かってございます。

不運ばかりが続くことも、運の上ではないからでございます。

ちゃんとしたという自負があるのでしたら、あと1年の辛抱だと、踏ん切り付けてくださればと存じます。

それさえできれば、穏当に合格できることでしょう。

そして、忘れてならぬのは、幸運ばかりが続くわけがないことでございます。

ときおり、あんまり勉強をしていないのに、ひょっこり受かる人がいるのも、試験の事実、運の為せる現実でございます。

しかし、運は、先もいいましたように、等しく万人にあるものでございます。

何かを得たならば、何かを失うものでございます。何かを失えば、何かを得るのが、わたくしたちでございます。

人生経験の豊富な方こそ、この運・偶然と言う真理がお分かりいただけるのではないでしょうか。

あんなに絶好調な人が、あっというまに転落していくのを、状況が悪化していくのを、わたくしたちは何人と見てきました。

お勉強の世界においては、運という問題もあることを、頭の片隅に入れておいてくださればと存じます。

いうまでもありませんが、本試験時に、幸運を頼みにするなんてことはおやめくださいね。

試験なんかで運を使うのは、非常なる損だと思います。運は使わずに済ませて、いつぞやのために貯めておきましょう。

フェレンギ人のバイブル61〜63

『61. 盗めるものは絶対、買うな。』

逆にしてみたら、すっと理解ができた。つまり、「買ってもいいのは、盗めないもの」というわけである。

盗むという行為には、その「物」を見るという作業が欠かせない。

価額、価値、性質、形、意味、重さ、場所云々かんぬんである。

その物を盗もうとして、よくよく、裏表・前後左右、上と下から眺め見るからこそ、審美眼が磨かれていく、物を見る目が鍛えられるのではないか、と考えるのである。

ルパン三世は、盗む技術が優れているだけではなく、審美眼・評価の力も、やはりあったはずなのである。

価値が見えたからこそ、万難を排してでも盗もうとするわけである。価値がわからずして、物は盗めまい。

フェレンギ人は、「絶対」と釘を刺している。

物事をよくよくと見る。それが、盗むの前提である。

展示会で芸術作品を見るとき、何を盗もうかと思ったなら、目の前の作品は一変するであろう。

何を盗むか、目の前の物の価値が問われるのみならず、自身の目も試されているのだ。

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『62. 危険な道ほど利益も大きい。』

裏道には花がいっぱい、ともいう。虎の穴には虎の子供、である。

よくよく言われることなのでアレだが、『危険』であることを忘れちゃいけない。

人は、苦痛や苦労は、忘れようとする生き物である。

実は危険であるのに、それを見ないようにしたり、忘れようとしたり、考えないようにしたりする。

特に、調子が上々のときにその傾向が強くなる。

商売はそもそもが危険と隣り合わせである。その危険さに、感性を麻痺させてはいけないように思うのである。

売上が伸びないといいつつ、欠品や品出しが徹底できていない店が結構数多くある。

売り切れは仕方がないが、いつ入荷予定なのか、そのフォローが全くないのに顧客満足云々を語る。

虎の穴で昼寝している人たちが結構いる。

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『63. 金もない奴の権力なんて、エンジンのない船のようなもんだ。』

どこにも故障がないけれど、なぜか動かぬ車あり。

こんな風な、トンチンカンな存在を揶揄しているのであろう。

人は無償では動かない。動くと思っているのは、理想主義者か思想家だけである。

子供はお腹が空いたら泣く。親たるもの、子が泣けば自分の空腹よりも辛いものである。

言葉は食べれれない。お金はお米と交換できる。お米のほうを取るのが、人としては相対的に正しい。

人々が、お米でなくて、言葉や思想をとったとき、悲劇と悲惨の幕開けである。行き着くところまでいく。

一国一城の主になりたいという理想で始まる商売は、大概、潰れる。どこにもそんなものはないからだ。

食べるという現実なんぼの世界であることを、概念型・論理型・指向型の人は注意しておかないと、ドツボにはまる。

世界は現実で動いているのであって、思想では動いていない。

金を持っていない人の話は尊重しておけばよい。しかし、聞いてはいけないし、真に受けてもいけない。