勝手に「できる人」を想像して、あーだこーだ考えないようにすべきかと存じます。
また、同時に、自分をいたずらに卑下するのも、やめるべきかと存じます。
人といいますのは、極端に賢い人がおられますが、ごくごく少数でございます。
また、賢い人といっても、なんもせずにそうなったわけでもなく、相応のことをしてきたから、そうなったのでございます。
極端に賢い人がいないのであれば、極端な馬鹿もいないというわけで、いたとしても、まあ、少数でございます。
そして、馬鹿は時と場所がそうさせていることが多々でありまして、その人自身は、そんなに馬鹿じゃあない、といったケースが多々ございます。
ならば、でございます。
自分自身も、そう馬鹿ではない方の可能性が高いわけでありますから、過度に卑下してしまうと、その分だけ、誤った認識が増える、といった次第でございます。
そして、ますます間違えるといった塩梅でございます。
合格者といえども人の子、わたくしたちとそれほど大きな違いはございません。
合格者と言われる人たちが、腕が四本あってバリバリ問題が解けるとか、目が前後左右にもあって、2倍3倍の速さでテキストが読めるとか、寝なくても済む身体とか、そういう事情であるのなら、(ああダメだ)と思っても良いかと存じます。
それは、自転車と自動車くらいに差があるので、全く「違う物」といってよいでしょう。そら、できるであろう、といわざるを得ません。
しかし、合格者と不合格者では、ほとんど差はなく、同じ身体の機能と構成をしてございます。
違ってくるのは、払った努力の量や費やした時間の数、そして、熱意の総量でありましょう。
言うなれば、彼らと同じくらいの努力と勉強時間さえ確保して、一生懸命に熱中するなら、穏当に受かるといった次第でございます。
それこそ、自然現象並みに、受かることでしょう。
逆に、同じくらいの努力を払い、同程度の勉強時間を費やしたのに、落ちてしまったのであれば、どこぞに、明白な違い・自分では気付いていない盲点があるはずでございます。
あとはそれを見つけて埋めるのみ。
勝手にできる人像を作ってしまうと、こうした振り返る作業がお粗末になりがちでございます。
やることやれば受かるのでありますから、 勝手な「できる人像」を作らずに、自身の反省を行なうべきかと存じます。
2011年1月5日 1:11 PM
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