『67. どんなに十分でも、十分過ぎることはない。』
まずは、目の前のことに手を抜かないこと。
目の前のことを十分にやる。しっかりやる。とことんやる。
他者や他社、他の店がどうであれ、自分が大事だと思うことはやる。
しかし、それだけでは、十分でないのだ。
わたしたちの世界は、2〜3の「それ」さえすればうまくいくような、単純なものじゃあない。
品質がとことんよくても、パッケージがよくないと売れない。
もちろんだが、パッケージが良くても、品質がいまいちだと次はない。
品質・パッケージがともによくとも、販売のチャネルや売り方が悪いと、もちろん売れない。
ある特定の何かが飛び抜けていても、他の何かが良くないのなら、売れはしないのだ。
十分だと思うことがあるだろうが、常にそれとは違う点から、調べてみるべきである。
どこぞ大穴があるものである。
味もよく、接客態度もいい。メニューもよく練られている。コンセプトもいい。けれども、いまいち客足が定着しないお店があった。
その理由は、ゴミを店の前に出していたからだった。
そら、ご飯を食べようとする客に生ゴミ袋を見せたら退散する。
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『68. 同情は金の代りにはならない。』
逆を言うなら、同情はしても、情に流された金は出すな、ということである。
同情やいたわりの言は、いくらでも見せることができる。それは、タダだから。
大人になるほど、コストをかけずにそういうことができる。最たるものが政治家である。
泣き落としという、昔からある手法である。生業にするプロもいる、泣き付き屋という。
下手に関わらないのが、処世の知恵である。
しかし、逆に、自分がとことんまで落ち込んでいたり、失敗してズンドコになっているときに、飲み物や食べ物を差し入れてくれたり、どこぞに連れていってくれたり、ときには資金援助もしてくれる人には、感謝をすべきである。
本当に底まで落ちて、信用も金も力も失っている人に、お金をかけてくれる人は、そうそうにいない。
そういう人には、信じるだけの価値があるように思われる。
ただ、間違ってはいけないのは、自腹を切っているかどうかである。
経費で落とす人もいるので、そのあたりは注意深い観察力がいる。
何もしてくれない人や無視する人に比べたら、経費とはいえ、お金を出してくれるのは、とてもありがたい。
しかし、最大限の信用を置くことはできないだろう。
自腹を切るかどうかは、人を判断する際の主要なテーマである。
| カテゴリー: 過去のススメ | Tags: フェレンギ人 | 2011年1月14日 11:26 AM |
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お勉強は、めんどくさいものでございます。
楽しいものではございません。しんどいです。
しかし、とはいっても、必要だと自分でわかっておりますから、「自分」だけの理由で、止めることはそうありません。
理由なり原因は、自分の外側にございます。
たとえば、急ぎの仕事や急用が入った、とか、勉強しようと思っていたときにバーゲンや超スゲエ☆タイムサービスの存在があったとか、こういったことでございます。
そのほかに、病気や怪我をしてしまった、肉親や親しい人が病気・怪我になっててんてこ舞いになった、とかでございます。
しかし、それだけでやめるわけではないのでございます。
やめちゃうのは複合的で、「なんだかんだ」が積もって、やめちゃうのでございます。
たとえば、急用が入ってそれが終わってほっとしていたら、おいしいお菓子に遭遇したり、お友達がやってきたりするのでございます。
よくあるのは電話で、長電話が終わったら、読みたかった本が目に入った。その本を調べていたら、魅惑的なゲームを見つけて、少しやってしまう。ネットでぐずぐずしていたら、実に面白いサイト・ブログを発見し読む込んでしまう。
っとまあ、こんな風に、つぎつぎにお勉強から遠ざかるものが重なったときが、実に危ないのでございます。
ほんとうは、お勉強を阻害していたものがなくなったときに、すぐ、お勉強をすべきだったのでございます。
ですが、「なんだかんだ」で時間が取られたりしたせいで、今日やらずが明日もやらず、明日やらずが1週間やらずとなってしまう次第でございます。
一度、自分のやめてしまうメカニズムといいますか、心理過程を洗ってみる事をお勧めいたします。
どうしてやめるのか、しっくりこればこちらのものでございます。
さて、止めちゃったお勉強の再開なのですが、まず、手ごろな短い時間だけ、再開いたします。
15分か20分、最長30分くらいがよろしいでしょう。
難しいこともしません。
また、今日以後の、明日あさって1週間後、果てには、本試験のことは考えませんし、考えないようにします。
ただ、今日の○時○分からの、ただ30分だけのお勉強のみに意識いたします。
気負ってたくさんの時間をやらないようにするのがコツでございます。
いったんはできていたことですから、再開も穏当にできます。
じょじょに、元の状態に戻していってくださればと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | Tags: 勉強 | 2011年1月13日 4:07 PM |
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ぎりぎりのところで受かるのは、良くも悪くもありません。
受験生が多く固まるのは、合格ボーダーの前後3点でございます。
ですから、どうしても、首の皮一枚つながった状態のぎりぎりで受かる人のほうが多いのでございます。
しかし、注意すべきは、最初からギリギリで合格しようとする、省エネの勉強でございます。
それは、通用いたしません。
合格点が60点のところ、80点で合格したと致しましょう。
理想を言うならば、80点取るくらいの勉強をするよりも、60点くらいが取れる質・量のお勉強をして、浮いた分は、お勉強以外の他のことをすればよいと相なります。
しかし、それは理想でしかありません。もっというなら、危険すぎるというのが、わたくしの率直な感想でございます。
差の20点は無駄だったのかといいますと、全くをもって、無駄ではありません。
この20点分の得点は、保険であったからでございます。
併せて、もしも、その試験にて、試験問題の大幅な変更があったとしたら、と仮定してみてください。
大変化があったとき、この20点分の余計とも見える勉強が、どう影響するかなのでございます。
おそらく、ギリギリ60点しか取らない勉強をしてきた人は、大幅な試験問題の変化についていけず、惨敗することでありましょう。
60点を狙いうるような勉強というのは、従来型の出題を前提とするからこそ、可能となるからでございます。
対して、20点、余計に勉強をしてきた人は、この余計な20点分の勉強の中から、数点は引き出せる可能性がございます。
そうしますと、どう転ぶかわからなくなるのでございます。おそらくは、この追加的な数点が、合格圏に入らせるような気がしてならないのでございます。
たくさん勉強することは、決して損ではないことをお見知りおきくださればと存じます。
それは、保険をかけているのでございます。
当たり前の事ですが、お勉強をやればやるほど、合格は確実なものとなって参ります。
ここまでやるのは無駄だなとなどと思わず、本試験のその日まではお励みくださればと存じます。
結果として、ギリギリ合格するのは結構でございます。
ギリギリ合格だからといって肩身の狭い思いはせずとも結構です。
ただ、最初からギリギリで合格しようとするのは、危険で、リスク大きいので、止めるようご助言する次第でございます。
そんなところで省エネしても、もう1年の、再勉強・再受験ともなれば、「省」したことなど吹っ飛びます。
そっちの方が損なのはいうまでもございません。
| カテゴリー: 過去のススメ | Tags: 合格 | 2011年1月12日 3:21 PM |
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