独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

カンニングは実に目立つ

わたくしは、これまでの資格試験で、カンニングをしたことは一度もございません。

なぜやらないのかといいますと、カンニングくらい目立つ行為はないからでございます。

わたくし、学生時分に試験監督のバイトをしたことがありまして、試験中の受験生をさんざんに見てきました。

試験の監督中というのは本当に暇で、受験生に何か変な動きがあれば、「すわ、暇つぶし!」てな感じで、すぐにそちらに目が行くのでございます。

試験中の人間の動作は、限られてございます。

問題冊子を見る、解答用紙を見る、書き込む、消す、時計を見るなどなど、ほんと十指に足りないのでございます。

カンニングペーパーを見ようとするなら、どうしても、そこに視線が向かいます。

この視線を向かわせる動作の際、どうしても、首や頭の動きが、周りの人間とは違った形になるのでございます。

ずらっと同じような姿勢、同じような形の人の群れのなかで、一人だけ違う風に見えるのがどれだけ目立つか、一度教壇に立ってみれば、お分かりいただけるかと存じます。

カラスの中の白鳥の如く、監督側に見えてしまうのでございます。

2011年春、京大受験に端を発する入試問題のネット流出は、まさかそんな、大それた目立つことはしないだろう、というベテラン・猛者たちの盲点を突いたとも、言えるような気が致します。

袖に仕込んだカンニングペーパーを見る。手のひらを見る。爪を見ている。筆箱が裏になっている。前の机なり椅子を見ている。視線が真下。首が90度曲がってる。なぜか消しゴムや鉛筆を見ている。時計を見る回数が異常に多く、時針なり表示板でないところを見ている。試験中に手首を見ている。

そんな、カンニングの常套手段であれば、ベテランたちは「御用」とできたのでしょうが、試験中に携帯でネットにアクセスなんて、『まさか、そんな馬鹿なこと』はしないだろうと、監督側は考えていたのかもしれません。

ですから、試験時間中に、自分の席から携帯からネットにアクセスできてしまったのでありましょう。

大胆すぎて盲点を突かれたとはいえ、失策は失策でございます。

試験監督の体制なり意識が、昭和のままでございます。もう、時代は電脳社会・平成でございます。

本試験という数日のために、1年2年3年、がんばっている人がいるのですから、「盲点だった」で謝罪して済むものではありません。

試験担当部門は携帯やスマートフォンを使用する際の人間の動作を研究して、どういう動きが妖しいのか、疑わしいのかを研究してくださればと存じます。

そして、カンニングの裏には、下手をしたら『濡れ衣』という大きな問題がございます。

「疑わしき」には、躊躇することなく相応の対応をするよう、現場の監督官たちの心理的プレッシャーをも、拭っておくべきかと存じます。

東日本大地震・個人でできること3「心を寄せ、見守り続ける」

東北地方太平洋沖地震から、2週間が経とうとしております。

長く、重い、息苦しい2週間です。

ようやく、交通網も元に戻り始め、まだまだ不足はしていますが、だんだんと物資も被災地に届くようになってきております。

しかし、深刻な問題が続いています。福島原発の放射能です。

「食べるな」と大雑把に政府に指定された野菜、牛乳。

作り手である農家、酪農家の方たちは、地震・津波・放射能のトリプルで打撃を被ることになりました。

潰されて廃棄される野菜、捨てられる原乳。そして、風評。

かける言葉が見つかりません。

基準値以下であるのに、返品される葉物野菜の数々に、なんともいいようのない無力感を感じます。

都心・関東圏では、子どもに飲ませられない、ヨウ素入りの水道水が出る事態になってしまいました。

大人には健康に害のないレベルとは言え、気持ちがいいわけがありません。

原発の状況も、まだまだ安堵できませんし、海の汚染も、とても気になります。

東北太平洋側の魚が、2割3割も安くなったと聞いて、何とも、心が痛みます。

被災地では、ようやく被災の打撃から立ち直ろうとしても、次から次へと問題が出てきます。

衆議院議員の小野寺五典さん(@itsunori510)がtwitterで述べられていたのですが、事業主の休業補償の問題1つとっても、凄まじい労苦が透けて見えて、呆然としてしまいました。

従業員のために休業補償を受けようにも、労働者名簿どころか、ハローワークすら波に流されて、「ない」のです。

もちろん、事務所も工場も、車も、船も、資材も、ない。机も椅子も、パソコンもない。

東北地方太平洋沖地震の壊滅的な被害を、あらためて、感じます。

被災地では、これからが、本腰です。

ある方がおっしゃられておりましたが、今からこそ、改めてわたしたち一人びとりが、被災地の人々に心を寄せることが大切であるかと、強く思います。

わたしは今のところ、寄付をするか、思ったり祈ったりすることが関の山ですが、思い祈ることは、決して無力ではないように思います。

このあたりの塩梅は、実に、微妙なところなのです。

嗜好品や遊びを控え、節約して寄付をすればいいのか、といえば、決してそれが正しい解でもないのです。

もし、そうした萎縮した生活をする人が増えると、その人の地場の経済が停滞してしまいます。

そうすると、停滞が停滞を呼んでモノやカネ、サービスが回らなくなって、結果的に、景気が悪くなってしまいます。

こうなると不可避的に、被災地の復興も遅れてしまう、というわけでございます。

よく、頂いた寄付のうち、その額分を上乗せして被災地に寄付をする、という企業・商店がございますが、素晴らしくよくできたアイデアだと思います。

また、今月なり今期なりの売上のうちでいくらかを寄付する、○○が売れた金額のうちいくらかを寄付する、というのもよいアイデアだと思います。

それは、被災に遭わなかった人までもが、萎縮してはならないということを汲み取った、資本主義社会の現代ならではの寄付方法だと考えます。

今までどおりに、物を買い、サービスを購入することが、引いては、被災地の悪化を止めていることにもなるのでございます。

被災地の人たちのことを考えると、何もする気が起きない、というのは、全くよろしくありません。

散歩でもせよ、散歩のための靴やジャージでも買え、数キロ単位で肉でも食べろ、こんなときこそ肉を食え、といいたく存じます。

何も失わなかったのに、意気消沈するのはナンセンスでございます。

被災に遭わなかった人たちが、今以上に頑張って、これからの日本を景気づけていかなくてはなりません。

今、自分に与えられていること、やるべきことに励みつつ、そして、東北と北関東の被災地の人たちに思いを寄せ続ける。

わたしたちにできることは、以上の2点であるように、考える次第でございます。

寄付は良心。だが、公表すべき人はいる

ぞくぞくと、有名人や有名企業の、寄付の申し出がございます。

誰がいくら寄付したとか、そういう話で盛り上がるのもよろしいかと存じます。

しかし、寄付という行為は、良心につながっているものでございますから、外から、とやかく強く言うことができません。

Aは○円も寄付したぞ、お前はどうなんだ、なんて言い方は、下種の勘ぐりの最たるものでございます。

日頃、悪役キャラ・斜めキャラ・やんちゃキャラで売っているので、名前を出すと困る人もおられます。

寄付とは、陰徳を積むことだから、名前を出すべきではない、と考えている人もおられます。

他人がどうこうしたと、大きく過度に騒ぎ立てるのは、どうかと考える次第でございます。

ただ、騒いでもよい人、煽ってもよい人もございます。

それは、これまで、涙や感動、感謝・感激で売っていた人たちでございます。

いい話、いい言葉で売っていた人たちでございます。

代表的なのは、「愛は地球を救う」でありましょうか。

わたくしは、少なくとも「愛は地球を救う」で関係した芸能人・組織は、この際、声を大きくして、自分たちが寄付したことを発表しなくてはならないように存じます。

彼らは、陰徳を積むよりも、毎年24時間をかけて、明徳を積むよう呼びかけていた人々でございます。

地球は救うけど、日本の被災地は対象外、では事が済むわけがありません。

寄付行為は夏しかできない、なんてことはないでしょう。

かの放送局、出演タレント、芸能人がいくら寄付したか、わたくしは興味津々でございます。

今回の災害への寄付は、今後の番組の趨勢を決めるでしょう。

今後、出演者が決まるたびに、ネットでは、彼らが東北地方太平洋沖地震でいくら寄付をしたのか、どこに寄付したのかが書き込まれて拡散されていくでしょう。

また、「愛は地球を救う」だけに限らず、感動・涙で売ってきた芸能人はまだまだおります。

今以上に、彼らが何を言ったのかではなく、大震災に際して、彼らが何をしたかが問われるでしょう。

現代は、インターネットの存在により、それが「問える」時代でございます。

もし彼らが、寄付とは陰徳であるから表に出すべきではない、といえば、彼らがこれまでにやってきた数々の番組は、嘘・演出・単なる企画であったことになります。

本心からではなかった、わけでございます。ただ、視聴率のため・ギャラのための「仕事」であったのでしょう。

そして、もし彼らが、これまでやってきた番組が本心のものであれば、被災地への寄付も「陰」ではなく、「明」のものにすべきでしょう。

なぜなら、彼らは、よいことは表立ってやるべきだからと考えたからこそ、そうした番組を引き受けてきたのですから。

口だけの人なのか、そうでないかが、明白にわかってしまう時代、それが現代でございます。

このあたりの事情を理解している者だけが、今後の芸能界で生き残っていけるかと存じます。