独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

占いを信じるのなら、占いだけでやってみる

わたしは、「占い」の類はほとんど見ないし、あまり、関心がありません。

気休めならもっと他の気休めがあるし、何かを信じたいときは、近くの神社に散歩に行くのが関の山でございます。

古人は、「信じるのは神仏だけにしろ」と言っております。

つまり、人間の言うこととやることは信じるな、という寸法でございます。

とはいえ、占い師で唯一興味がある人は、ドクターコパ氏でございます。

彼の占いが当たるかどうかは全く関心がないのですが、彼自身に興味があるのでございます。

というのも、このドクターコパ氏、本気で占いだけで東大に行こうとした、とのことでございます。

このエピソードを聞いて、彼を他の占い師と一線を画した次第でございます。

当然、東大には落ちたのですが、職業「占い師」の行動として、然るべき正統なものだと思います。

自分の占いを自分で試してみる、 自分の売り物である占いがどれだけの効能があり、どこまでが限界なのかを、身を持って確かめたというのは、実に経験的な態度であるかと存じます。

経験してみてこそわかることは、多々ございます。

逆を言えば、経験していないから、モヤモヤとして視界が効かない、ということもできましょう。

まずは、「やってみる」が、一番、これからを占うものであるかと存じます。

占いの出番は、限界ギリギリまで考えた後の話であって、判断の安易な代替物ではないでしょう。

占いというものを、行動の軸にしようとする際は、当該占いだけで何ができるのかやってみたら、と思います。

たとえば、ラッキーアイテムを持っていれば恋が成就するというのなら、「それ」だけを徹底して、他をやらずにいれば、どうなるか身を持って試してみるのがよいかと思います。

ラッキーアイテムだけを持ち続け、化粧も適当、服装も杜撰、靴はどす黒く、顔も口も3日に1回しか洗わないようにしてみる、という塩梅でございます。

ま、結果は火を見るより明らかでありましょう。

つまり、他の何らかの作業なり行為、物が必要ならば、当該ラッキーアイテムの重要度やこれいかに?と相なるわけでございます。

「何かに頼っている」というのが、意外に運命の隘路に嵌ってしまう一里塚のように考えます。

 ちなみに、ドクターコパ製の開運小銭入れを知人より頂いたのですが、作りが悪く、3回ほど100円玉が落ちたので、小銭をすべて取り出して、即、スーパーのゴミ箱に投げ捨てました。

お金が落ちるなんて、金運以前の問題だと、思ったわたくしでございます。

何かエエことあったんネ?の心持ち

ええかげんなやつじゃけん♪ ほっといてくれんさい

あんたといっしょに 泣きとうはありません♪

どこへいくんネ♪ 何かエエことあったんネ?

吉田拓郎の「唇をかみしめて」の歌詞からの一部抜粋です。

「何かいいことあったんネ?」のところは、実にいいナアと思います。

というのも、この歌詞1つで、すうっと落ち着くというか、浮ついた気分が治まるからです。

逆を言うと、意味もなく急いていた自分を、無闇矢鱈に焦っていた自分を、発見するのでございます。

考えてもみよ、と。

こんなに急いで、「○○」をやって、何かいいことがあるのか?と考えるのでございます。

たとえば、急いでご飯をかっ込むのはいいけど、もちろん、食後にとても美味なデザートがあるから、そうしているんだよね、と相なるわけでございます。

いい事があるのなら、急ぐのが道理でありましょう。目の前のことをさっさと済ませて、そのよき事を享受すべきでしょう。

たとえば、子どもが生まれたとか、初デートであるとか、久しぶりの夫婦水入らずであるとか、取っておきの日本酒やパン、ハム、ソーセージ、ベーコンが手に入ったというような、『いい事』があるのなら、せかせかするのが道理。

こんないい事が待ってるのに、だらだら、トロトロ、グダグダする方がおかしい、というわけであります。

じゃあ、ひるがえって、今、目の前の後には、そういういい事があるのか?、と考える機会を、当該歌詞「何かいいことあったんネ?」は、思い起こさせるのでございます。

急いたときに、「何かいいことあったの?」と考えてみれば、「うーん、特に、これといってないね」と気づく事が大半でありましょう。

わたし個人のことを言うと、ホント、急いでやったところで、焦ってやったところで、その後で「いい事」が待っていることなんて、ほとんどないという次第でございます。

自分にとって「いい事」がないときは、それは、他の誰かにとって「いい事」であることが多いわけで、ということは、何かに上手に操作されてるんでないかな、と考えるきっかけにもなりましょう。

実体のなきものに、わけもなく急かされるなんて、人生を損しているように思います。

大概のことは、「自分」とは関係のないこと。

「何かいいことあったの?」と考えれば、あくせくして、時間に追い立てられるような何とも言えない急いた気持ちが、すっと、ホント物の30秒で、治まるように思います。

諦めないにもTPO

世の口癖のように言われている「諦めるな!」が成立するのは、当たり前のことですが、それが成立する世界に限っての話でございます。

その世界とは、たとえば、スポーツや試験勉強の世界でありまして、「諦めないこと」が、大事な心持ちでございます。

しかしながら、何でもかんでもを、諦めないのがいいのか、といいますと、そうでもありません。

世には、「諦めが肝心」という言葉もございます。

まったく才能がない分野なりで、諦めずにずうっとやっていても、時間の無駄であるし、もっといえば、自分の秘めた、開花していない能力なり才能の開花を、妨げることになるでしょう。

「諦めない」が致命的な結末を及ぼすのは、商売の世界でございます。

「諦めない商売」が、如何に害悪を撒き散らすか。

売上の加速度的低下、負債の更なる拡大、連鎖倒産の可能性増大、当事者・従業者の心身の健康被害は、この上ありません。

睡眠薬を飲まないと寝れない経営者や、電気が付いてないと寝れない経営者を知っていますが、まあ一言、悲壮でございます。

まさに、「諦めが肝心」が、商売の世界でありましょう。

話を元に戻しますと、スポーツや試験勉強の世界は、諦めずにずうっとやり続けても、そんな酷な結末が待ってないのでございます。

死にはしないし、巨大な負債を抱えるわけでもない、半身不随になるわけでもない、心に大きな傷を負うわけでもない。

「たとえ、結果が失敗に終わろうと、その程度のレベルで済むから、あきらめなくてもよい」と言っているわけであります。

スポーツでは、「諦めるな!」で猛進しても、怪我で終わるくらいか、ヘルニアにでもなるか、テニス肘になるか、膝の靭帯が脆くなるくらいであります。

半身不随になるまで、または、死に到るまで、スポーツを諦めないで続ける人は、まずいません。

試験勉強においても、また、然りでございます。

日常生活に多大な支障が生まれるわけでもないし、巨大な負債が発生するわけでも、一家離散するわけでも、やった本人が半身不随になるわけでもなし、そんな程度でございます。

「諦めない」にも、TPO(時と場所と機会:Time,Place,Opportunity)があることを、頭の片隅においていてくださればと存じます。

逆を言えば、お勉強におきましては、「諦めなくてもよい」次第であることを、ご理解いただければと存じます。

商売で、死や離散に到ったケースは、数え切れないほどございます。