まあ、アレですよ、アレ。ネタがないんですよ、アア。
ネタがあればたいしたもんですよ、アア。
(ナガシマァードーム押えとけ!風に)
っと、少々暴走気味のわたくしでございますが、季節の移り変わり。
朝に飲んだ風邪薬と昨日のんだワインが少々、効いてございます。
御乱筆の程候、御了承願いたく存じ上げ候由。
さて、先日のススメに続き、今日も「理解」について考えたく存じます。
理解というのは、ぶっちゃけた話、よくわからないものでございます。
問題が解けた。
模試の点数がよかった。
などなどの客観的な数字を挙げられようが、心中の底の部分の不安はなかなか解消できないものでございます。
「今、問題が解けても、本試験でできなければ一緒ジャン」
「模試は模試でんがな」
このような反論を挙げられれば、スグに崩壊してしまう脆い数字や理屈だからでございます。
これらの不安定さは、本試験までなくなりません。
わたくしの経験ではありますが、日々のお勉強で、どんなにできるなぁーという実感を積み重ねても、「本試験での完全さ」など味わえた試しがないのでございます。
このような試験の不安定さに端を発する不安は、考えても仕方がない性質なのでございます。
考える利益は、全くございません。
考えても利をなさないことは、一切考えなくてもよろし。
「自分がどこまで理解できたかどうか?」という思考は、考え出すと止まらなくなるので、できるなら避けたほうがよい思考形式なのでございます。
しかしながら、「自分がどこまで理解できたかどうか?」を把握しないと、どのように勉強を進めていけばよいかわからないのも事実でございます。
そこでご提案したい確認方法が、音読でございます。
声に出して読む、というのは、自分の理解度を計る最も簡単な指標でございます。
テキストの文章や、問題集の問題を声に出してみて、とちったりなどしたら、それはあまり理解できていない証拠でございます。
幸田文さんなら、後ろから蹴られることでございましょう。
基本的に、テキストや問題集の文章は読まれるように書かれていないので、詠み難いものでございます。
その読み難いものを、すらすらと読めるということは、キーワードや意味だけでなく、文節・語句・接続詞といった文章の構造が、すっぽりとアタマに入っているという証でございます。
本試験では、ジックリ考える時間などございません。
アタマの理解では不十分でございまして、カラダで反射するほどに理解度を高めておかなければならないのでございます。
「あれ?アレはなんやったけな?」と、帰宅途中や買い物途中で、フト思うものでございます。
その暁には、ぜひ、おうちに帰ってから、該当箇所を口に出してみるがようございます。
90%とちるはずでございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2006年9月20日 11:25 AM |
| ▲ Back to Top. | ▲ Back to Homepage. |
資格試験のお勉強で重要なことのひとつに、自分の理解度を計ることがございます。
本試験まで、まだまだ間があるなら、そこそこの理解でも結構でございます。
しかし、本試験や模試の日が近づくにつれて、不安な気分に襲われることが多くなるものでございます。
不安は、皆が皆感じる自然現象なので仕方がないのでございますが、徒手空拳でいるのも癪に障るものでございます。
このようなときは、自分の理解度を計るのがようございます。
簡単にいえば、「どんだけ、わかってんのやろ」とテキストや問題集をパラパラとめくるのでございます。
パーラーパーラーとページをめくっていくと、自分の理解に応じて凹凸を感じていくものでございます。
「ここは、できる」「ここはあかんな」と、理解度の上下を、把握できるのでございます。
農家のオッサンが、緑一面の数百ヘクタールある畑を指して、「あそこのエンドウマメはええけど、あっちのソラマメはまだやのぅ」と、言うが如きでございます。
コレまでやった箇所を、さーーと流すのが、自分の理解度を計ることでございます。
それだけでも、不安はかなり解消されるものでございます。
しかし、より一層、不安をなくし実力の慣用に繋がる作業がございます。
さーーと流さない、ジックリやっていく復習でございます。
復習も、実は、不安対策のひとつなのでございます。
復習行動の動機の5割は、憶えたか憶えていないか、という不安で曖昧な状態を解消することでございます。
つまり、復習すれば、心中のモヤモヤが晴れて、スッキリするのでございます。
どれだけ自分が忘れているか、理解できていないかを知ることができます。
『幽霊の正体 見たり 嫁の顔』
と古人もいうように、正体さえ「ハッキリ」すれば、心中、確固たるものが出来上がるものでございます。
曖昧な状況にいることが一番、エネルギーを浪費するものでございます。
わからないなら、わからないなりに手を加えれるのでございます。
ですから、次の手を打とうという、エネルギーが湧いてくるものでございます。
ぜんぜんわからんね、というのは、しっかり現状を認識しているので、わたくしは褒めるものでございます。
よき理解度の把握例かと存じます。
タイトル・見出しの意味からやればいいじゃん、というわけだからでございます。
曖昧さをなくすこと、それが理解度を計る過程でございます。
復習という行為が、この曖昧さを薄めることのできる最たるお勉強方法なのでございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2006年9月19日 12:05 PM |
| ▲ Back to Top. | ▲ Back to Homepage. |
「がんばりましょう」とは、耳になじんだお言葉でございます。
何かあると、「がんばりましょう」と耳にし、そして声に出してしまうのでございます。
しかし、もう、わたくしは、この「がんばりましょう」では動けなくなっているのでございます。
「がんばりましょーー」と、にこやか・元気ハツラツに言われるだけで、何をしたらいいのかわからないのはストレスが溜まるからでございます。
「ちゃっちゃやって」と冷たく言われるも、「〇〇さんは、AAAして。そのあとBBBして報告して」「△△さんはCCCしておいて。おって指示出す」と言われたほうが、よっぽど気楽なのでございます。
「がんばります」は、えてして、エネルギーが空回りしてしまうのでございます。
車の空吹かしは、暖機運転ならよろしいでしょうが、ずーと続ければ「臭い・ムダ・疲労」の愚劣三国志になるのでございます。
わたくしたちが必要なのは、「実理」でございます。
実理とは、やるにあたって、相応の意味が含まれていることでございます。
「がんばる」だけのつぶやきは、つぶやきシローのように朝の露の如く儚いものでございます。
要は、コトバのトッピングでございます。
「がんばる」という前に、うなぎの山椒モドキを振りかけるのでございます。
「今が踏ん張りどき、がんばろう」といえば、ズルズルと下降気味だけど、自分はうまくいってないことが意識できており、たいへん高度な現状認識といえましょう。
「ふっきってやるぞ、がんばろう」だと、イヤナコトがあっても明確にそれを乗り越えていく決意を感じます。
「〇〇まで張り切ってやろう、がんばろう」の〇〇に、ページ数や問題数、時間でもあてはめてやれば、やることが確固としており、やる気がピンと張ってございます。
馬鹿とハサミは使いようでございます。
コトバは単純化してしまうと、自分のエネルギーをキチンと乗せることができないのでございます。
掛け声にも、実理でございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2006年9月18日 11:54 AM |
| ▲ Back to Top. | ▲ Back to Homepage. |