独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

してはならない勉強

お勉強の成否と、集中とは、実に強い関係がございます。

たとえば、だらだらとテレビを見ながら、ネットをしながら、雑誌を読みながら、メールを打ちながら、ずるずると何時間もお勉強に費やすよりも、きっぱりした30分の集中したお勉強の方が、実力アップには貢献するものでございます。

お勉強といいますのは、何かに気が向いていると、どうしても費用対効果が悪くなってしまいます。

わたくしは、仕事中や職場でのお勉強は、絶対にやらないように注意しております。

同様に、学校の授業中でのお勉強も、これまた絶対にやらないように言っております。

「絶対」に、でございます。

というのも、仕事中やら授業中のお勉強では、集中ができないからでございます。

どれほどに仕事や授業がヒマで意味なく感じようと、心中の後ろめたさはぬぐえぬものでございます。

これが、トゲといいましょうか、ちくちくと集中を妨害する、といった次第でございます。

確かめてみれば即解するのですが、家でのお勉強と職場でのお勉強は、全く質的に異なるのでございます。

一口で言えば、身が入らないのでございます。

その違いこそが、お勉強の成否にかかわっていることを、忘れないようにして欲しく思います。

ぶっちゃけいうと、回りを気にしながら、コソコソとお勉強するよりも、家に帰ってから、集中に集中したお勉強をする方が、力は付くように思います。

また、疲れ方という点でも、職場や授業は大損でございます。

回りに注意を払っているというのは、いうなればレーダーで監視をしているわけですから、脳は通常の時よりも活発に動いてございます。

ですから、その分だけ、疲れてしまうというわけでございます。

おそらく、ぐったりしてしまうかと存じます。

よほど周りの人たちが理解しているならまだしも、そんなに関心も理解もないところでは、気苦労ばかりが増えることでありましょう。

ミスでも粗相でもすれば、それみたことかと、非難の集中砲火でございますよ。

ますます、気負担とストレスは増し増すことでありましょう。

やっても集中できないので効は少なし。そのうえ、余計に疲れるというオマケ付き。

こういう次第でありまして、仕事中や授業中、会議中でのお勉強は、やらない方がよいという次第でございます。

仕事時間・授業時間以外のところで、お勉強のできる時間を捻出くださればと存じます。

それでもやりたいというのであれば、いっそのこと、その日の仕事か授業は休んで、お勉強に臨むように致しましょう。

お勉強の実力アップという点では、明らかにそうした方が宜しいかと存じます。 

先送りの良し悪し

どこぞのメディアがお題目のように唱えておりますが、先送りの全てが悪いわけではありません。

時間が変れば、事情もまた、変るものでございます。

よい先送りとは、理由があっての、現状を踏まえ先を見通しての、先送りでございます。

お勉強におきましては、現状の実力では歯が立たないときや、自分の状態が最悪でとてもできそうにないときなどは、グダグダと解決を図るよりも、解決を先送りした方がよいときがございます。

できそうにないところに拘泥して時間をだだ漏れに使っても、それほど験はございません。

そうするよりかは、他のところの復習に手を向けたほうが、時間の使い方としては上手でありましょう。

体調が本当に悪いときもございます。プライベートでいざこざがあって、気の少しも乗らないときもございます。

そんなときに、ウダウダとお勉強をするよりかは、お勉強の進捗は今のところはあきらめ、寝るなり休養するなりしたほうが、トータルで見れば素早い解決になることもあるのでございます。

先送りのすべてがすべて、悪いことでもないのをお気づきくださればと存じます。

悪い先送りとは、今できることや、今やってよいことを、面倒だからといって先に送ることでございます。

十分にできるのに、十分に出来る状態にあるのにやらないのを、サボりというのでございます。

それは単純にサボっているだけでありまして、何の理も、利も見出せないように考えます。

めんどくさいといって、今できることを先送りすると、今その時だけは、楽にはなりますが、事態は少しも楽にはなっておりません。

事態は真逆で、先送りすればするほどに、どんどん先送り事項が溜まってしまって、さらにめんどくささに加速が付くように思います。

正直なところ、今できることは今、その日の内に済ませてしまった方がスッキリして、逆に、気持ちがよくなるものでございます。

雑事や雑用の類を、先に送りに送り続けると、ほんとうにたまりにたまって、1日や2日で片が付かないほどに、膨らんでしまいます。

部屋の片付け、家事、仕事のちょっとした雑用、洗車などは、小まめにやった方が圧倒的に楽でございます。ためてやると、ほんとうに1日は完全に潰れてしまいます。

1つ1つは何でもないことでも、数でこられるとじつにめんどくさくなって、実に心底消耗してしまうのでございます。

意識を働かせて、今やるべきことかどうかを量りながら、目の前のことに着手くださればと存じます。

先にやった方がよいようなことならば、再びいつやるか、その日時を整えてから、先送りすればよいのでございます。

先送りする明白な理由が見出せないときは、その日の内に、重要なことから順に消化していけばよいように思います。

フェレンギ人のバイブル37〜39

『37. 失った評判はいつでも買い戻すことができる。』

メディアの本質である。広告主やスポンサーの意向があれば、いくらでも筆を曲げる。

それが、メディアである。それが、メディアとして正しい。

だからこそ、常に正論と正義が問われるのである。故に、哲学者が求められているのである。

ソクラテスは、2400年前のギリシアの小うるさいおっさんで、おそらく元祖フリーターであるが、彼が今でも読まれているのは、メディアがメディアとしての機能を果たしているからである。

メディア、そして、言論を語るには、斎藤緑雨の以下の言のみを知っておればよい。

「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」

公民の教科書には、彼の言を浮かし彫りをしておくべきであろう。それで十分に役に立つ。

さて、フェレンギ人の言に戻れば、評判など、広告やら紙面広告やら、CMやら提灯記事やらを出せば、幾らでも取り戻せることを言っているのであろう。

日本を代表する某大手M電器産業株式会社は、自分で出版社を作った。

今でも創業者の伝記やら言動を述べた書籍を出版し、イメージアップに躍起である。没してなお生きている。ほんとうにたいした、経営者である。

いい風に捉えれば、人の評判など幾ら悪くなっても、後からいいことをすれば幾らでも取り戻せるということ。

悪く言えば、人の評判など、金回りがよくなれば、金を使えば、幾らでもよくなる、といった風である。

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『38. ただの広告は役に立たない。』

「ただ」の広告というものはたくさんある。

どうしてこんなことをCMで流すのか、なぜこんな広告を出稿するのか。

少しもその意図がわからない広告がある。

どうして、おにぎりやサンドイッチが10円・20円安くなったことを、大々的にCMに流すのだろうか。

数億かけて流すだけの価値があるのだろうか、と訝るけれども、おそらく、出稿側からすればソロバンはあっているのだろう。

おそらく、そんな「ただ」の広告は、広告の名を借りた献金・袖の下なのであろうが。

こうした、マスコミ対策のような広告が溢れているが、だからといって勘違いをしてはならない。

広告とは、売ってこそ広告である。売れてこそ、広告したことになる。

イメージがよくなったとか、認知が広まったなど、何の役にも立たない。ほとんどは、広告に失敗した、敗者の弁である。

イメージや認知などは、それこそ、洗脳なみにCMや広告を打たない限り、不可能である。

自分が持っている企業イメージがどのように作られたか、いま一度、振り返ってみるとわかる。

なぜ暑いときや、汗をかいたときに、あのジュースが飲みたくなるのか。

その印象を生み出すのに、どれだけのお金が使われたのだろうか。

ならば、人のイメージを買おうとするなら、それだけの金がかかるということである。

売ってこその広告であることを、つくづく考えた上での広告としなくてはならない。

広告とは印象を買うものである。時々忘れている人がいる。広告を出す側は言うまでもなく、広告を見る方も。

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『39. 褒め言葉はタダだ。顧客にはいくらでも気前良く言ってやれ。』

以前の『33. 上役におべっかを使ってもフトコロは痛まない。』と、同趣旨である。

何かをほめたからといって、財布から何かがなくなるわけでもない。通帳の残高が減るわけでもない。

ほめたからといって、何か不都合があるわけでもないのだから、どんどん褒めて然るべき、ということであった。

顧客となれば、なおさらである。

長く続いている洋服店、貴金属店、時計屋、美容院・美容室、今ではネイルサロン、エステは、必ずお客を褒めている。

『必ず』である。

今着ているお召し物もステキですが、などという。

時計の電池を変えたら、すぐさま、素敵な御時計ですね、年季の入った渋い御時計ですね、大切に使ってらっしゃる、などという。

髪を切る前から褒める。切った後ではベタ褒めである。爪の手入れ然り、肌のマッサージ然りである。

うらやましい肌の弾力、絹のような肌理細やかさ、などという。

まるで桜のようなきれいなピンクの爪、もったいない!などという。

顧客やなじみが長く付く、そういう店には、お客様は、物やサービスを買いに行くというよりかは、褒めにもらいにいくといった方がいいくらいである。

褒めて褒めよ。

これがサービス業の最終形態である、自己愛サービスである。