独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

フェレンギ人のバイブル37〜39

『37. 失った評判はいつでも買い戻すことができる。』

メディアの本質である。広告主やスポンサーの意向があれば、いくらでも筆を曲げる。

それが、メディアである。それが、メディアとして正しい。

だからこそ、常に正論と正義が問われるのである。故に、哲学者が求められているのである。

ソクラテスは、2400年前のギリシアの小うるさいおっさんで、おそらく元祖フリーターであるが、彼が今でも読まれているのは、メディアがメディアとしての機能を果たしているからである。

メディア、そして、言論を語るには、斎藤緑雨の以下の言のみを知っておればよい。

「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」

公民の教科書には、彼の言を浮かし彫りをしておくべきであろう。それで十分に役に立つ。

さて、フェレンギ人の言に戻れば、評判など、広告やら紙面広告やら、CMやら提灯記事やらを出せば、幾らでも取り戻せることを言っているのであろう。

日本を代表する某大手M電器産業株式会社は、自分で出版社を作った。

今でも創業者の伝記やら言動を述べた書籍を出版し、イメージアップに躍起である。没してなお生きている。ほんとうにたいした、経営者である。

いい風に捉えれば、人の評判など幾ら悪くなっても、後からいいことをすれば幾らでも取り戻せるということ。

悪く言えば、人の評判など、金回りがよくなれば、金を使えば、幾らでもよくなる、といった風である。

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『38. ただの広告は役に立たない。』

「ただ」の広告というものはたくさんある。

どうしてこんなことをCMで流すのか、なぜこんな広告を出稿するのか。

少しもその意図がわからない広告がある。

どうして、おにぎりやサンドイッチが10円・20円安くなったことを、大々的にCMに流すのだろうか。

数億かけて流すだけの価値があるのだろうか、と訝るけれども、おそらく、出稿側からすればソロバンはあっているのだろう。

おそらく、そんな「ただ」の広告は、広告の名を借りた献金・袖の下なのであろうが。

こうした、マスコミ対策のような広告が溢れているが、だからといって勘違いをしてはならない。

広告とは、売ってこそ広告である。売れてこそ、広告したことになる。

イメージがよくなったとか、認知が広まったなど、何の役にも立たない。ほとんどは、広告に失敗した、敗者の弁である。

イメージや認知などは、それこそ、洗脳なみにCMや広告を打たない限り、不可能である。

自分が持っている企業イメージがどのように作られたか、いま一度、振り返ってみるとわかる。

なぜ暑いときや、汗をかいたときに、あのジュースが飲みたくなるのか。

その印象を生み出すのに、どれだけのお金が使われたのだろうか。

ならば、人のイメージを買おうとするなら、それだけの金がかかるということである。

売ってこその広告であることを、つくづく考えた上での広告としなくてはならない。

広告とは印象を買うものである。時々忘れている人がいる。広告を出す側は言うまでもなく、広告を見る方も。

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『39. 褒め言葉はタダだ。顧客にはいくらでも気前良く言ってやれ。』

以前の『33. 上役におべっかを使ってもフトコロは痛まない。』と、同趣旨である。

何かをほめたからといって、財布から何かがなくなるわけでもない。通帳の残高が減るわけでもない。

ほめたからといって、何か不都合があるわけでもないのだから、どんどん褒めて然るべき、ということであった。

顧客となれば、なおさらである。

長く続いている洋服店、貴金属店、時計屋、美容院・美容室、今ではネイルサロン、エステは、必ずお客を褒めている。

『必ず』である。

今着ているお召し物もステキですが、などという。

時計の電池を変えたら、すぐさま、素敵な御時計ですね、年季の入った渋い御時計ですね、大切に使ってらっしゃる、などという。

髪を切る前から褒める。切った後ではベタ褒めである。爪の手入れ然り、肌のマッサージ然りである。

うらやましい肌の弾力、絹のような肌理細やかさ、などという。

まるで桜のようなきれいなピンクの爪、もったいない!などという。

顧客やなじみが長く付く、そういう店には、お客様は、物やサービスを買いに行くというよりかは、褒めにもらいにいくといった方がいいくらいである。

褒めて褒めよ。

これがサービス業の最終形態である、自己愛サービスである。

読んで解いて、その逆で

お勉強といいますのは、○○をしさえすればよい、というものではありません。

たとえば、野球のバッティングでございます。

確かに、バッティングに上達するには、バットを握って素振りをしたり、バッティングセンターで球を打ち返す練習をしなくてはならないでしょう。

しかし、なのでございます。

じゃあそれだけで、バッティングが上手になるかといえば、全くそんなわけがありません。

走りこんでスタミナをつけ、にぎにぎで握力を鍛えたり、選球眼を鍛えるために通過電車の乗客数を数えたり、移動しているキレイな人を一瞬で顔を見分けて動体筋肉を鍛えたり、腕立て・腹筋・背筋等の基礎トレーニングをしなくてはなりません。

ある特定の「○○」だけをすればうまくいくほど、世の中は、甘くないのでございます。

お料理の腕も、そうではないでしょうか。

料理の実にまずい人がおられますが、こうした人は、必ずといってもいいほど、おいしいものを食べておりません。

1流と付けば何でもよいわけではありませんが、ハイレベルの料理を食べた絶対数が不足しているのでございます。

そして、知識の絶対的な不足でございます。

肉や魚、野菜などの素材の知識、調味料についての知識、食器への造詣などなどが、全くないのでございます。頭にあるのは菓子メーカーと菓子パンの名前くらいでございます。

料理は切って焼いて煮たりするのが上達すれば、また、クックブックを読んで知識さえ身につければ、上達するものではないのでございます。

やはり、自分の目で見て、食べて味わい、そして、自分で作ってみるからこそ、上達していくわけでございます。毎日、料理をすれば上達するわけではありません。

お父さんが料理を作ると、意外にお母さんよりもおいしいのは、明らかにお父さんの方は、お付き合いや接待でおいしいものを食べて舌が超えているからでございます。

子供達から、まずいなあと言われているお母さんがおられましたら、是非とも、有名店を食べ歩くことをご推奨いたします。夜だと値が張りますが、ランチだと非常にお値打ちでございます。

食べるから、作れる。いい物を食べるから、いい物が作れる。

こうした理屈で、いいところへの外食を求めるべきでございます。ファミレスは卒業でよいでしょう。

さてさて、お勉強でございます。

お勉強におきましても、「○○」さえすれば実力が付く、合格するといったウマイ話はありません。

テキストだけを読めば、または、過去問だけ解いていれば合格するなんてものは、そう、難易度の高くない試験のみでございます。

ほとんどの試験では、テキストだけを、問題集だけを、過去問だけをやっただけで受かるわけではありません。

やはり、テキストを読んだのなら、問題集を解く。問題集を解いたら、逆に、テキストを読み直す。読み直したら、今度は過去問を解いてみる、といったように、バランスよく色々に、やっていかねばならないのでございます。

逆を言いますれば、偏るな、という次第でございます。

読んだら解く、解いたら逆に読み返す。これが、お勉強の王道であるかと存じます。

お勉強のお供のお茶ですが

お勉強のお供といえばお菓子、そして、お茶でございます。

これまでのススメで、何回か述べさせていただきましたが、お茶ほど、お勉強と相性のよいものはございません。

休憩することを一息入れる、と申しますが、まさに、お茶の一杯はその一息を入れるのに最な相性であるように存じます。

さて、お茶にも好みがございます。「ほにゃらら派」というものでございます。

紅茶派の方もおられれば、緑茶派の方が、コーヒー派の人もおられるかと存じます。

お茶といいますのは、嗜好品でありますので、各自で好きなものをお飲みくださればそれでよいのですが、少し違うものを飲んでみるのも、よろしいように存じます。

味が変る、ということもさることながら、カフェインの効き方が違ってくるのでございます。

お茶を飲みますと、お茶のカフェインが作用して、すっと気持ちよくなるかと存じます。

しかし、人間の身体には慣れというものがありますから、飲むうちに、次第に効かなくなってくるのでございます。

そのため、一杯の人が二杯に、二杯が三杯に、三杯が四杯ににと、飲む量が増えて参ります。

お茶と言うのは、凄絶に飲まない限りは、身体に害はないのですが、やはり、過ぎたるは及ばざるが如し、飲みすぎると寝つきが悪くなったり、気分が悪くなったり、そして、頻尿になってしまうものでございます。

特に緑茶は、たくさん飲むと実にトイレが近くなるので、外出の多い人はご留意くださればと存じます。

あと、いうなれば、お茶の飲みすぎは、歯のくすみ・にごり・着色となって現われますので、これまた、飲み過ぎは推奨できないものでございます。

お茶も、酒と同様の事情なのでございます。

こちら側がお茶を飲む、というのならわかりますが、お茶に飲まれるのは、何とも情けない次第でございます。お茶の葉のお足も、ばかになりません。

そこで、お茶の量が増え、飲み方がワンパターンとなった際は、いつも飲むお茶とはお茶を用意して置くのでございます。

コーヒー党の人は紅茶や緑茶を、紅茶派の人は、コーヒーや緑茶、ほうじ茶を、といった塩梅でございます。

メイン茶ではありませんから、ホンの少しの、一瓶・一缶程度でようございます。

百貨店でもいけば、手ごろな大きさの茶缶なり茶袋で打っているように存じます。

買い物も、お茶の楽しみの1つでございます。

においをかぎながら、店員とおしゃべりしながら、ピンと来るものをお探しくださればと存じます。

ほんとうに気分転換をしたいときに、いつもと違うお茶は有用でございます。

缶や袋に書いてあるお茶の入れ方を読みつつ、普段飲みなれていないお茶を飲みますと、心身ともにスッとするように思います。

また、いつものお茶では感じられなくなっていた、あのカフェインの覚醒感も、あらためて味わえるかと存じます。

選択肢があるというのは、素晴らしいことでございます。

こんなに豊富なお茶を頂けることをありがたく思いつつ、お勉強の前・お勉強中・お勉強の後に、1杯を喫していただければと存じます。