深刻も度が過ぎると、反対に試験に落ちるようになります。
というのも、日々の勉強に身が入って実力的には伸びるのですが、本試験になると精神的な「遊び」がなくなって、実力が発揮できなくなるからです。
「実力はあるのに受からない」のが、度を超えた深刻の最悪の結果です。
じゃあ、対して、深刻に考えなければよいかというと、そうでもありません。
多少の楽観はいいのです。
試験勉強には、適当な間合いというか、距離感が大事だからです。
勉強一色だと、脳が退化するような感じや、脳が萎縮する感じ、脳が焼け付く感じがします。
当然といえば当然ですが、深刻に考えすぎて勉強のことしか考えない生活だと、“勉強がらみの刺激”しか脳に与えられませんから、肝心要の「脳」が衰えていくのでしょう。
ひとつのことに没頭し続けると、馬鹿になったり精神的に(コイツは・・・)という人になるのも、脳がヘンに変形するからでしょう。脳の可塑性はとても高いのです。
さて、試験のことをまったく心配しない、超楽観が問題なのは、単純に勉強に身が入らず「実力が付かない」からです。
(やべーこれおちるぞー)とか、(また1万ちかい受験料払うのヤダぞー)といった、やらないと!という気持ちが、踏ん張りや奮起となって、勉強の“燃料”になるものです。
緊張感もやる気の一種です。
2度と受けたくないから、2度と試験勉強をしたくないから、端的に言うと、「試験に落ちたくない」から、皆が皆、がんばれるわけです。
試験は結局は、勉強量で決まってきます。
大丈夫でしょ受かるでしょと、のほほんとしている人と、やっべーなという人は、やはりどうしても、後者の人たちの方が勉強量を稼ぎます。
こうして、楽観が過ぎると相対的に勉強量が足りなくなって、あえなく不合格となるのです。
深刻すぎても楽観すぎても、試験には受からないというのが、わたしの実感とするところです。。
基本は、楽観な心持ちでいいのですが、きちんと消化すべきことを消化しているか、進捗管理をしてみてください。
もっというと、「試験をなめていないかどうか」を、確かめておきましょう。
試験は水物。なめてかかるとどんな試験でも落ちますよ。
| カテゴリー: 勉強ワンポイントアドバイス | Tags: 不合格 | 2014年8月28日 11:31 AM |
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深刻に考えるのは、まじめに一生懸命にやっている反対証明なので、いいことはいいのです。
ただし、深刻がすぎると逆に足を引っ張りかねないので、注意が必要です。
深刻すぎると気持ちが萎縮してしまって、勉強の能率が落ちるからです。
ちょっとした間違いで衝撃を受けてしまいます。ちょっと忘れただけで、これまでやってきたこと全てが不安になってきます。
余計なこと・取るに足らないことまで心配になってきて、要らざる心的エネルギーを労してしまいます。
「深刻すぎ」は、不合格の最たる原因です。
深刻の度が過ぎた状態で本試験に雪崩れ込んでしまうと、手は震え、掌は汗で異常に濡れ、頭はすぐに真っ白になり、ド忘れが頻発し、本来の実力がまったく発揮できなくなってしまいます。
受かる実力がある・受かっておかしくない勉強量があるのに、落ちてしまうのです。
深刻すぎる状態に陥っているなら、自分からどんどんと気持ちを変える努力が必要です。
「深刻に考えたら受かるわけじゃないし、深刻に考えて頭を抱えていたら試験官が「ごくろうさん」といって、点をくれるわけでない」のです。
また、ちょっとできなかったり忘れたりしていても、全部ができなくなるわけがありません。
そんなに人間、カンタンに忘れる生き物ではありません。
イメージ的には、ちょっとカビの生えたパンです。
カビたパンは、全部がカビてるわけじゃなく、ほんの一部だけカビているパンです。
その欠片のカビを取り除けば、パンは丸々食べれるのと同じ理屈です。
ちょっとばかし、忘れていたりできなくなっていたりしても、もう一度読むなり解くなり整理するなり憶え直すなりすれば、十分に元の実力に戻ります。
試験勉強の厄介なところは、まじめに根を詰めて勉強すると、「深刻すぎ」が顔を現し始めて、逆に、落ちやすくなってしまう点です。
アクセルの入れ過ぎが事故になりかねないのと同じで、勉強のアクセルも、ときには緩める必要があると体感する次第です。
| カテゴリー: 勉強ワンポイントアドバイス | Tags: 勉強 | 2014年8月26日 10:33 AM |
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タイトルが内容のすべてを物語っていますが、敢えて述べていきます。
醤油に、クエン酸を入れると、ポン酢になります。
入れるクエン酸の量は「お好み」で結構ですが、目安としては、小皿1つにつき「少々の4分の1」くらいです。
ま、ちょっとずつクエン酸を入れていって、お好みの酸っぱさに調整してください。
味は、単純に酸っぱくなった醤油でして、まさしく「ポン酢」です。おそらく誰も、その調味料の酸っぱさがクエン酸由来だなんて、わからないでしょう。
ぜひ、お試しください。
ところで、名誉にかけて言いたいのは、「醤油にクエン酸を入れるとポン酢になるよ。これからは味ポンとかを買わずに済むね!節約・節約!!」と、しみったれたことではありません。
ポン酢は、すべてが同じ味や風味をするわけではありません。
地方の特産と合わさった、独自のおいしいポン酢はたくさんあります。スダチやカボスをたっぷりと使った贅沢なポン酢は、ご飯にかけてもおいしいです。
わたしが強く言いたいのは、「醤油+クエン酸=ポン酢」という式を憶えておけば、「ポン酢切れ」をなくすことができる、ということです。
ポン酢は、あつあつの餃子やシュウマイ、肉たっぷりの鍋物、しゃぶしゃぶなどで、大変重宝する、定番中の定番の調味料です。
肉の脂のうまさを、醤油のコクが深め、酸っぱさがアクセントとさっぱり感をもたらすポン酢は、何倍も料理をおいしくさせ、言いようのないうまさを体感させるものです。
舌が喜ぶとはこのことを、ポン酢は体現するのです。
逆を言えば、ポン酢がなければ、先の料理の魅力は激減してしまいます。
決して、「ポン酢が切れていたために、素の醤油で食べることになる」のを、避けなければならないのです。
「ごめーん、ポン酢が切れてた~。でも、醤油や塩、柚子胡椒とかでもおいしいよね!」なんて言っても、家族の誰も納得もしないし、同情もないし、許しもしません。
食卓に漂うのは、「あきらめ」です。
配偶者のあの冷たいまなざし・・・お前はこういうとき、何かいっつも欠けとるね、オレもう口に出しても言わんけどね、もう諦めとるでいいわ。ホント常備というのができんね、リストにしてさ、まとめときゃさ、欠品なんてそうそう起きんがね。なんでこういう手間をかけんかね、この人は・・・という心中の吐露を、プロの俳優のように身体だけで表現します。
小学校や中学校の子供なら、ブーブー言います。「なんでポン酢がないの~~せっかくの餃子なのに!!」などと口うるさく騒ぎます。
でももう、次第に言わなくなるでしょう。
静かに淡々とお箸を手にして、食べ始めます。あなたのおっちょこちょいを諦めたのです。成長の証ですね。
このように、「ポン酢切れ」というのは、大変な不評と不興を買い、ずっと批判の種となる甚大な事件になりかねません。
せっかく料理を作ったのだから、ポン酢切れくらい許してくれるだろうというのは、甘えです。
食べる方からしたら、期待した分だけ落胆が深まるので、非常なるがっかり感があるのです。ホント、ご飯と汁と納豆と香の物を出した方が、まだましだったくらいです。
さて、グダグダと申しましたが、先述したように、万が一ポン酢が切れていても、「醤油+クエン酸=ポン酢」を知っておけば、緊急避難的に、ポン酢的な液体を確保できます。
名誉のために、クエン酸でポン酢の代用になることを憶えておきましょう。
醤油が切れていたら、もうこれはもう、手の施しようがないです。豆腐を頭にぶつけてみてください。
| カテゴリー: 日々の暮らし | Tags: クエン酸 | 2014年8月20日 11:14 AM |
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