独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

軽食の効用

腹が減っては戦はできぬ、と申します。

お勉強を始めるにあたっては、本当に軽くで結構でございます。

何かを口にしてから、お勉強を始めるべきかと存じます。

お勉強といいますのは、身体を動かしませんから、腹ごしらえなど必要ない、とお考えになる人がおられるかと思いますが、まったくの間違いでございます。

人体の摂取するエネルギーの半分は、脳が消費してございます。

お勉強はご承知のとおりに、頭を酷使する作業でございます。

おそらくは、肉体作業・肉体労動のみならず、スポーツ・運動以上の、エネルギーが必要になるのでございます。

小説家や物書きといわれる頭脳職の方の近くには、必ず大福や団子といった甘々の和菓子があったと申します。

商売の手土産というのは、大概が甘いものでございます。それは、仕事というものが、頭のエネルギーを必要とするからではないか、というわけでございます。

小さな子供さんたちも、これまた甘いものを欲しがりますが、それもさりなんで、子供にとっては世界のほとんどが未知なる物、未体験のものでございます。

毎日新しく見聞きするもので、頭がどれほど、視聴覚情報を処理しているか、お考えくださればと存じます。そらほしがるでしょ?という次第でございます。

虫歯がアレですが、食べたあとに口をすすぐだけで、虫歯菌の増殖はかなり抑えられますので、甘いものは大目に見ていただければと存じます。

個人的な所感ではありますが、大人でも、馬鹿ほど甘いものを欲しがらない傾向があるように存じます。頭を使わないから、甘いものが欲しくならないのでしょう。

さてさて、エネルギーといいますのは、使い果たして補給するよりも、使う前に補給しておくのがコツでございます。

疲れ方が断然違うからでございます。

換言するなら、集中力の保ちが違う、のでございます。

一番に推奨する軽食は、甘いものでございますが、糖を含む炭水化物であれば、何でもよいように存じます。

 最悪、あめちゃん1個でも、構いません。パン一枚かじるのでも構いません。

ロシア風紅茶のように、スプーンにジャムを盛って、それをお茶といっしょに舐めるだけでも構いません。

少しでも何かを食べて、お勉強をして見てください。

そして、生きた経験として、お腹が空いた状態で、どれだけのお勉強が可能か、お調べくださればと存じます。

何かを軽く食べておくのが、いかによきお勉強に資するか、お分かりいただけるかと存じます。

 

不合格は不合格だ、が…

試験勉強といいますのは、合格を目指して行なうものでございます。

逆を言うなら、不合格にはなりたくないがために、がんばるものだ、ということもできましょう。

不合格となるのは、実に、実に嫌なものでございます。

合格発表の日、自分の受験番号がないときは、心底がっくりして意気消沈してしまうものでございます。

落ちたんだ、ということはわかっているけど、あと2回から3回は、自分の名前を探してしまうものでございます。

この〇ヶ月のがんばりはなんだったんかなあ、と気が重くなるのは、実に、実によくわかります。

おそらく、発表後、1ヶ月か2ヶ月くらいは、こうした気の重さが続くように思います。

できることなら、さっさと気持ちを切り替えて、これまでやってなかった趣味などを、ばんばんとやっていただきたく存じます。

しかし、一生懸命、心からがんばってきた人は、そうも簡単に切り替わらないものでございます。

さて、しかし、そうはいっても、そんなダウンな状態が続きますと、復帰に時間がいっそうかかってしまうので、切りのいいところで踏ん切りつけて、前向きな姿勢をお取りくださればと存じます。

さて、以下に述べる事は、理想論でありますので、お目汚しください。

まず、全てを見通して、最適な解なり方策を練るなんてことはできないのでございます。

試験は水物でありまして、合格者と不合格者を分けたものは、ホンのちょっとした事でございます。

決して、能力的に劣っているわけでも、やり方が悪かったわけでもありません。

人生には、天使のいたずらとでもいうような、変な瞬間があるものでございます。歯車が噛み合わないときもあるものでございます。

長い目で見れば、こういうときもあるさと、視点を少し伸ばしてお考えくださればと存じます。

そして、長い目で見れば、不合格によって被った徒労など、所詮は「1年」の話しでございます。

ついふらふらと押した印鑑で、数年数十年をダメにすることだってあるんでございます。

ついつい軽い気持ちでしたことが、巨額な負債を背負い込むことだってございます。

不合格など、何の経済上のリスクもないし、社会的な信用を失ったわけでもありません。

失敗のレベルからすれば、なんてことはない種類にカテゴライズされるものでございます。

自分以上に困っている人、重荷を背負っている人だっているのですから、置かれた自分というものを、もっと客観的に見てくださればと存じます。

不合格という現実は、過大に考えれば過大になるけど、幾らでも過小に考えることも可能でございます。

いってしまえば、結果は不合格になったとはいえ、みっちりと勉強できた時間があったことこそ、人生のなかで穏やかな日々とも言えるのでございます。

毎日借金取りに追われている人、金策に回っている人も、本当にたくさんございます。

勉強できたことが、好日だったんだと思えば、不合格のことなどあまり思わなくなるものでございます。

また、もう1年勉強をするということは、合格後の勉強を先取りしているんだと、考えられなくもありません。

基本的に、試験に合格しても、合格後に勉強しなくてはならない事は多々ございます。

いざ実務を執る身になって、試験勉強でやってません、とか、試験で出そうになかったので見てません、なんて言い訳は効きません。

そんなことにならないための勉強を今、みっちりとやっているんだと思えば、再びの試験勉強にも、新たな意味を見出せるように思います。

不合格を単に無駄で徒労で失敗したこととだけとしか考えないか、意味を深めて「次」を見て取るかは個人の自由でございます。

わたくしは、よくよく自身の経験から汲み取る人が、成功できる人のように思います。

フェレンギ人のバイブル49〜51

『49. 経験と欲望は、若さと才能に勝る。』

商売に必要な素養は、上記に挙がっている4つが含まれるのは、異論がないように思う。

多くは経験から為る。

下手な机上の空論よりも、1訪問1電話1メール1営業しかない。

欲望の方は、後で述べるので飛ばす。

若さというのは年齢ではなくて、精神的なもの、いうなれば受容性、柔軟性のことであろう。

時代というと大げさだけれども、商売の環境はどんどん変るものであって、それに応じて替えなくてはならない。

新しい道具、ツール、考え方をいかに現状の商売に反映させるかが、時代の変化に対応することなのだけれども、それらを受け入れるか、使いこなせるかは、やはり、経営者の器による。

経営者が閉鎖的で排他的で独善的だと、それは、あっというまに役員から中間管理職にまで伝染する。

卑しくも経営者であるなら、よくよく注意をして、身を削るような、異物が入ってくるような気がするけれども、受け入れていかねばならない。

それに我慢できなくなったときが、引退であろう。

才能は、言うまでもなく、無いよりかはあった方がいい。が、なくても、軌道に乗せている商売人はたくさんおられる。

最後の欲望だが、個人的にはこれが一番大事な気がする。

経験があっても、若々しくても、才能があっても、商売においては欲が強くなければ、どうしても後手後手になるか、守り守りにはいって自滅に近い状態に陥る感がしてならない。

相手が見ていなかったら鞄や財布の中から金目のものを盗むくらいの、巨大な「カネホシー」欲望が商売の原動力であろう。

売れていない、活気のない店の主人は、大概、聖職者のような欲のない顔をしている。

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『50. クリンゴンはだますな。』

クリンゴンとは、ドラマ「スタートレック」シリーズに出て来る戦闘民族で、戦いと名誉を求める「もののふ」的役割を担う。

騙してもいいのは、反撃の来ない人たちである。

反撃の返って来ない人というのは、武器を持っていない人たちである。または、法律の知識持っていない人たちである。

あちらの武装を確認したら、安心して騙すがよい。

騙していけないのは、反撃の返って来る人たちである。

反撃の返って来る人とは、クリンゴンのような、刃物や銃器を持っている戦闘意欲・好戦的な人である。

猟銃を持っている人をからかってはいけないのと同じ理屈である。

騙されたという人は、そのように見られているということ。

騙されたことのない人は、心に何か狂気のようなものをもっていて、恐れられているか、警戒もされている。

騙すべき人を騙すべしという、ごく常識的な言である。

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『51. 誰か他に非難されるべき奴がいるならば、 けっして自分の誤りを認めるな。』

責任転嫁の理屈で、一理ある。

責任を負わない、というわけではない。責任を負うにしても、負い方があるというわけである。

誤りは誤り、失敗は失敗と当の本人はわかってはいる。

しかし、失敗の原因や事態というのは、ある1つの何かに還元できるものではない。

少なからず、あちこちに責任の萌芽がいくつもある。

それらにも負わせて、こちらの負担を軽くするという、現実的な対応なのである。

潔く責任を取ればいい、わけではないのが大人の世界の話である。

だからこそ、「潔い責任」がおとぎ話のように、清談となる。

だからこそ、道徳の好きな人たちや、責任のない人たち、特権に包まれている人たちが、声を大にして語るものになるのだ。

責任を取ってやめるということは簡単だが、代わりに務まる人なり、業界全体を引っ張っていく組織があればいい。

しかし、それがないときは、後に生まれるのは混沌のみで、余計に事態は悪化することになろう。

責任というのは、当事者の良心が実に多くを担っていて、部外者からは窺い知れないものがある。

潔さは、中間的なものである。汚名を被ろうとも、あとあとからすれば、その人がいたからこそ、このくらいの被害で済んだということはたくさんある。

しかし、「責任を果たす」といって、まったくの無責任、卑劣、卑怯、嘘つきな輩が、これまた、この責任の論理を用いることもある。

潔い責任の取り方というのは、こうした悪意の人間を封じる意味もあり、我々は、その悪意者をいちいち判定できないから、十把一絡げに「潔い責任」の取り方が歴史から紡ぎ出されたのであろう。

「潔き責任」とは、ルーピーのような悪意者は防げるが、真に責任の能力のある人の、責任の取り方をもとれなくしてしまうものなのである。