テキストや問題集というのは、難しいものでございます。
これらは基本的に読むように作られておりません。
難解すぎるし、専門用語は多いし、文章は長いし、はっきりいえば落第点の日本語で書かれています。
しかしそれに付き合わないといけないのが、試験勉強というものでございます。
人間は環境の生き物と申します。
環境とは、衣食住だけではありません。空気や音やにおいや、周りの人がどんな人かで変わってくるものでございます。
旦那が暗いと、えてして奥さんもだんだん暗くなってきます。
奥さんが酒豪だと、飲めない旦那も飲みだすものでございます。
夫婦の好物も同じになってくると申します。あなたが脂っこいものや肉類が大好きなのも、実は配偶者の影響だったのですよ。
だんだん、互いに相似通ってくるものでございます。
夫婦も犬も似てくると申しますが、お互いに顔を付き合わせるため、やはり環境の生き物だと納得する次第でございます。
試験勉強は、テキストと問題集と、顔を毎日合わせるものでありますから、どうしてもこれらの影響を受けてしまうものでございます。
影響というのは、日本語が難渋になるのでございます。
だんだん、書くものや考え方がテキスト・問題集のような難解な日本語になってくるのでございます。
法律系の資格をお勉強の人のメールなどは、法律っぽい文章で愕然とするものでございます。
理屈っぽくなって、結論を先延ばしにするような話し方、書き方になったならアタマの大掃除をしなくてはならなくなります。
読みやすい「読み物」の出番でございます。
難しいのは程ほどにして、読みやすくて楽しいものを探しては読むことをオススメするものでございます。
推理作家の東野圭吾さんの小説は、さらさら読めて面白く、脳のお掃除にはもってこいでございます。
苦難だけが読むことではありません。すらすら読める日本語に時には接して、難渋になったアタマのメンテナンスでございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2007年9月18日 10:59 AM |
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読解力は、どういう本を読むかにかかっているものでございます。
読解力アップのための読書、というのもナンダかアレな読み方ではありますが、選ぶ本は選択せねばならないのでございます。
本当に、何十何百札を読破したところで何の足しにもならない本は、いくらでもございます。
やさしすぎる本、読者の媚びた本は、まず避けるべし、でございます。
ついで避けるのは、難しい本、難しい小説の類でございます。
大半の難しい本では、常識では考えられない日本語の世界が展開されており、とても読める代物ではございません。
哲学書などはまずいけません。パッと手にとって読み進めて2ページ目で挫折する本は、読まなくてよい本です。
哲学書というのは、こう考えていただければと存じます。理数系の技術書であると。
もし、カントやショウペンハウエルの書物に手が延びそうになったときは、「非平衡熱力学」のような本を読むのと同じ意識を持ってほしいのでございます。
まず理解できない、それか、理解したところで何の足しにもならない、理学書を読むのと同じというわけでございます。
また、翻訳された小説もひどいのがございます。特に岩波の文庫は悲惨でございます。
ドストエフスキーの訳など、クソ日本語過ぎて、読みようがありません。ドストエフスキーが生きていて、アレを読んだら「わたしはこんな風に書いた憶えはない」と絶叫するのではないかと思うわたくしでございます。ひどい。
ロシア語から日本語へのの訳は完全であろうとも、日本語として読めなければ意味がないわけであります。
逆に、日本語能力が落ちる、典型的なダメ本かと存じます。
そういう本群よりかは、だしのとり方100選、世界のチーズ、つまみ味紀行といったもののほうが、よっぽど人生を豊かにするものでございます。
難しいことをやればアタマがよくなるのではないのと同様、読書も難しい本を読めば読解力が上がるものでもございません。
逆に、読む力が落ちるのでは、と訝るものでございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2007年9月14日 10:45 AM |
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読書の難しさは、どういうものを読むかでございます。
新聞や雑誌というのは、「読んでもらえるように」作られておりますので、それほど読解力は必要としないのでございます。
大きな見出しや小見出しを上手に使うことで、新聞や雑誌は、読む前から記事の内容を読者に伝えております。
ですから、読む前に内容の大半はわかっているものなのでございます。電車の中吊りなど、それが顕著でございます。
知らないものを読む、というよりかは、詳しく確認する、詳細に知るのが、それらの読み方と申せましょう。
ですから、これらの類をたくさん読もうとも、読む力はつかないものでございます。
読解力は、単に読むだけでは身につかないからでございます。
読解力をつけるためには、やはり、それなりに考えた読書をしなければいけないのでございます。
ではどういう本を読めば、読解力の練習になるかといいますと、古典ミステリをオススメするものでございます。
数あるミステリ小説、推理小説の中でも、エラリー・クイーンやカーといった翻訳された作品をオススメするものでございます。
別段、日本人作家がよくないのではありません。実に作品は面白いのです。しかし、日本語として読ませてくれるので、読解力の訓練にはならないのが正味な話でございます。
当たり前なのですが、日本人作家でありますので、日本語は堪能です。ですから、すらりと読めてしまうのでございます。
作者の筆力が高く、非常によい日本語ゆえに、読者の読解力の練習を妨げていると申せましょう。
推理小説やサスペンスドラマを何百本をみても、推理能力や論理的思考がつかないのは、えてして作品の質が高いからでございます。
ま、主人公が必ず犯人を当てるから考えなくてもよい、というのはありますが。
さてでは、なぜ翻訳古典ミステリを推奨するのは、まず「翻訳」である点でございます。
翻訳調の文体なので、文章を正確に読まないと筋が分からなくなります。結果的に、丁寧に読んでしまうのでございます。
この点が日本人作家と違う点であります。日本人作家だと、すうっと目だけで読めてしまうのです。
翻訳古典ミステリは、目で読み流すわけにもいかず、そのためじっくり読むことになります。時々読み直さないと分からなくなることでしょう。
小説自体の内容がおもしろいので、こうした読み直しも苦になりません。
また犯人を推理したりトリックを考えつつ読むので、実にアタマが回転する読書になるのでございます。
読書の秋と申します。
古典ミステリで読解力の鍛え直しなどはどうかと思うわたくしでございます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2007年9月13日 12:00 PM |
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