最後まで筋道を立て、最終的な見通しが立つまで考え続けるのは、良いことは良いのでございます。
実のある考え方かと存じます。堅実で確実ですし、考えていることはきっと良い方向に向くかと存じます。
とはいえ、場合によりけりでございます。
こうした熟考は、時間を食うという欠点がございます。
時間をかけて考える必要の無いものに時間をかけてしまうという、無駄と無用を重ねることがあるのでございます。亭主の弁当。
どんなに良いことでも、不必要に時間をかければうまくいったことにはなりません。
また、熟考には、ある程度の思考力と考えのベースとなるその他の情報が必要となってまいります。
つまり、多少、頭の回転がよくないと熟考してもダメ結論しか出ないわけであり、また、考えるための情報を集めなければならなくなるわけでございます。
沈思黙考型の考えは、力や情報が不足していては堂々巡りで終わることを明記しておきたく存じます。
さて、では、熟考以外にどのような考え方があるかといいますと、ずばり、「考えない」ことを挙げられるかと存じます。
考えないのも、一種の考え・立派な考え方でございます。
考えても仕方のないことは多数ございます。
考え無用のことで、時間や手間、カロリー、酸素を浪費することはやめましょうというわけでございます。
今後10年後なんてどうなるかわかりませんし、まあ、大概のことは杞憂で終わるものでございます。
考えをある程度煮詰め、現時点での入手可能な情報を分析し、ふたつかみっつ仮の結論を出したら、もう考えるべきことはなくなるものでございます。
後は事の進展に応じて対処するくらいでありましょう。
考えに考えれば良い考えが生まれるわけではありません。
後ろ髪引かれるときもあるでしょうが、考えないことが良き考えになることがあることを憶えておいてくださればと存じます。
最後の考え方は、やりながら考えるといったものでございます。
この種の考え方が、日常生活では一番多いのではないかと存じます。
やっていくうちに何をどうしたらいいかわかるものですし、どうしたらいいかもはっきりしていくものでございます。
逆にいえば、大概のことは熟考したり考えないようにするよりかは、考えている対象を手がけながらやっていくことで解決するというわけでございます。
もっと逆にいえば、多くのことはやらなければ、問題は解決していかないわけでございます。
煮物の作り方などは熟考したり考えないようにするよりかは、少しの量の野菜を切ってあれこれしていく方が上達するものでありましょう。
また、手がけることをしなければ、解決のヒントすらも生まれてこないともいえましょう。
こうした3つの考え方を頭の中に併置しておいて、いま目の前の問題・考える対象は、どのタイプの考えならうまくいくかと選択してみてくださればと存じます。
相性が良い考え方だと、通常の倍は解消が早いことをご理解くださればと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年4月17日 9:52 AM |
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話は大げさですが、人間には5感という物を有してございます。
見ること、聞くこと、味わうこと、触ること、におうことの5つの機能を有しているわけでございます。
ほとんどの行動は、この5つの機能を通して行われているものでございます。
5感が特に研ぎ澄まされるのは、見知らぬもの・不明なもの・わからないものに遭遇したときでございます。
それこそ、あらゆる5感のセンサーをフルに利用して、得体の知れない対象から情報を引き出そうと致します。
たとえば、人でございます。
見知らぬ人と話すことになったときには、その人の言葉遣いから、仕草や目の表情・目の動き、顔の筋肉、爪の状態、息の仕方、背筋が伸びているか、におい、人物の全体的印象、声の張り、態度、歩き方、靴かばん服装髪型などまで、5感からフルに情報を引き出しているものでございます。
こうした5感から引き出された印象を元に、言葉を紡ぎ出し論理を組み立てて、その人物の意味を付与し最終的な評価に繋がっていくわけでございます。
たとえば、演技でございます。
演技の下手な役者は、身体で表現ができないがために、ながながと台詞で「説明」致します。
そのため、観ているこちらが、敢えて見ようとして・聞こうとしなければならなくなるのでございます。正直、疲れるのでございます。
演技が上手といわれる人は、台詞が聞こえなくても、台詞を2〜3聞き損ねても、ちゃあんと何を表現しているのか、何をしているのかわかるものでございます。
一度映画の字幕を読まないようにして、映像に当たってみてほしく思います。上手な役者ほど、字幕が無くても何をしているのか伝わってくるかと存じます。
このように、よく知るということには、有している5感からいかに情報を引き出すかに原点があることをご理解いただければと存じます。
さて、お勉強におきましても、元より自分に備わっている5感を使わないことは損であるかと考えます。
お勉強の大半で使っている感覚は、「目」くらいでありましょう。
目でテキストを読み、目で問題集を解き、目で解答解説を確認するというのが、スタンダードなお勉強の様相であるかと存じます。
しかし、先ほどいいましたように、わたくしたちは5感を通して多くの情報を収集しているものでございます。
目だけでは、自分の持っている機能の2割しか使っていないわけでございます。
ですから、目で読むだけでなくて、声に出して耳で聞いてみたり、手で書き出してみたり、実際のものに触れてみたりと、5感を通じる機会をできるだけ取り入れた方が、理解が早いかと存じます。
目で読むだけでは意味が通じなかったことでも、その他の5感を駆使してみると、なあんだ、こんなことだったのかと拍子抜けするほど、理解に通じることがございます。
目だけではなく、口と耳を、そして、手を使ってみてくださればと存じます。
目だけのお勉強で、うんうんと机の前でじっとするだけのお勉強に比べれば、ずっと円滑に進んでいくかと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年4月16日 10:58 AM |
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お勉強の時間というのは、楽しくて仕方がない・破顔一笑のいうわけにはいかないかと存じます。
心のどこかでイヤイヤ、やりたくないなという気分を引きずったままスタートするというのが、大概の人の実情であるかと存じます。
お勉強というのは確かに面白いものではありますが、後々になって面白みがわかるものでして、実際のお勉強の時には何ともつまらない思いをするものでございます。
よっぽどの変人でない限り、お勉強そのものを楽しめる人は少ないかと存じます。
しかしながら、の話でございます。
勉強なんてしてられないという問題やトラブルがないからこその、お勉強時間でございます。
世の中には多数、勉強をしたい・勉強の必要性を感じつつも、仕事やその他の雑事、果てには健康問題・家庭問題に係りっきりになってしまっている人も居られるのでございます。
わたくしたちが最も困るのは、お勉強そのものではないというわけでございます。
お勉強とは、未来への投資ということもできましょう。
何かを学び知識を蓄積し、将来の自分の可能性を広げる作業でございます。
明日のために、わたくしたちは労力と時間とお金をお勉強に投入しているわけでございます。
しかし、先ほどいいましたように、借金雇用詐欺愛憎その他現状の問題に埋没していたり、それか、生命に関わる病気か怪我を抱えて何とも勉強できないという人も居られるのでございます。
お勉強では、長ったらしい文章や難解な専門用語その他の受験用のつまらない知識群をおさえなければならないことかと忖度いたします。
とはいえ、それは、お勉強できない諸問題に比べれば、何てことはない透かし屁みたいなものでありまして、机の前か散歩か風呂かトイレか移動中かであれこれ頭を使っていけば解決するものであります。
わたくしたちは、お勉強ができるという貴い自由を持っていることを再確認すべきかと存じます。
不安に思っていることも起きず、また、予想もしていない想定外のトラブルやアクシデントも起きていないが故のお勉強時間でございます。
青天の霹靂は長い人生で何度も起きるものでございます。
浮気が発覚したり部下や上司の使い込みを見つけたり、それはもう、自分とは関係のないことでいざこざや紛争・トラブルに巻き込まれるものでございます。
それらが起きていないだけありがたいと思うようになれば、お勉強の負担も和らぐのではないかと存じます。
ありがたいとは漢字で有難いとも書きます。トラブルや問題が無い方が難しいわけでありまして、有難いというわけでございます。
当たり前のことに少し意識を働かすことで現状の認識を改めてくださればと存じます。
知恵の9割は、時間について賢くなることと申します。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年4月15日 10:21 AM |
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