夜考えても、ロクなものはできないと申します。
密談や謀事は大方夜に行われますが、こうしたヒソヒソ話やコソコソ話は失敗に終わるものでございます。
それはやはり、夜、考えているからかと存じます。
我が身を振り返ってみても、夜考えたことというのはロクなものではなかったのではないでしょうか。
たとえば、学生時分のレポートでございます。夜書き上げたレポートを次の日に読み直すと、あまりにもアレで痛すぎて書き直したご経験があるかと存じます。
読み直すと書き直さねばならなくなるので、次第に読み直さなくなった人もいることでしょう。わたくしもその口でございます。
恋文なども、夜書いてはならない筆頭といわれております。まさにその通りで、あまりにもアレ過ぎた文面に顔から火が出ることでありましょう。特に、午前1時過ぎに書かれた恋文の切々と気持ちを書き連ねた文章の香ばしさは、筆舌に尽くしがたいものがございます。翌日、即破り捨てられるものでしょう。恋は盲目とはよく言ったものでございます。
夜に書かれることの多い日記も、本当にひどいものでございます。
以下はわたくし個人の意見でございますが、お勉強も、夜という時間帯には、あまり考えないお勉強を集中させるべきと考える次第でございます。
つまり、理解力や思考力、論理性が求められるものについては、夜にあまりやらないというわけでございます。
どうしてかというと、先ほどいいましたように、夜に考えてもロクなことにならず、また、そうした内容のお勉強は、朝方から昼にかけて行った方が、すんなりと行くからでございます。
お勉強が進まず頭を掻き毟る受験生のイメージがありますが、そのイメージというのは机のスタンドと部屋の蛍光灯が煌々としている、夜の構図ではないかと存じます。
朝や昼に、頭をがしがし掻く姿というのは、あまり似つかわしくないといいますか、さんさんと照るお日様の下で頭を掻き毟るなんて中々に想像しがたいものでございます。
即ち、朝や昼においては、頭を掻き毟るような事態に陥りにくいということではないかと存じます。
もちろん、個人差というものがございます。
夜しか頭が動かないという夜型の人が居られます。ある推理小説家は昼なのに蔵の中に閉じこもってろうそくの光で執筆したと申しますし、創作家で夜型という人は枚挙に暇がございません。
これをお読みの人の中にも、夜型という人が居られるかと存じます。ほかでもない、わたくし自身も夜型でありました。
独学は自分に合わせた学び方・勉強方法でありますので、絶対に朝でなければいけないというつもりはありません。
しかし、とはいえ、わたくしたちのお勉強の成果を発揮する本試験は、朝から昼、夕方にかけて行われるものでございます。
夜型だと、上手に頭が動くかどうか危惧するところでございます。下手をすると、急に光を当てられたこうもりのように、へろへろしてしまうのではないかと考える次第でございます。
かつて夜型であったわたくしが朝型になったのも、夜中心のお勉強だと、本試験はもとより仕事等々にあまりいい影響がないことを経験したからでございます。
そして、なにより、朝の方が快適かつ調子が良いということも、朝型になった理由でございます。
全部が全部を朝にせよと申しません。夜は記憶改めや確認、その他のチェックには向いている時間でございます。
いま、自分の目の前のやるべきことがどういう性質のものであるかを踏まえたうえで、勉強をする時間帯を調節だけでも、上々の成果を享受できるかと存じます。
独学とは、○時○分から○時間だけやるといった硬直的なものではなく、もっと柔軟にできることを思い起こしてくださればと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年5月14日 11:21 AM |
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机の上には何も置かないのが最上でございます。
何にもない机は、妙な安心感がございます。空間があることは、それ自体でわたくしたちに気分の余裕を与えるのでございます。
さて、そうはいっても、気付けば机の上には物が増えてくるものでございます。
モノは、モノを呼ぶのでございます。
そのままにしておくことと、あっという間に机の上は物で一杯になるのでございます。
机の上に物が置けるのは、全体の20%まででございます。逆に言えば、机の上は80%の広さを確保すべし、ということでございます。
ここでいう「机」とは、何も勉強机に限らないものでございます。
リビングの机、食卓机など、机と付くものは何でもでございます。
ここで思い起こしてくださればと存じます。ダメな奴・ダメになった奴・ひどい目にあった奴でございます。
ダメ系の人間の机の上は、得てして、めちゃくちゃではなかったでしょうか。
飲み干したジュースやらビールの缶、吸殻、ライターが散乱。読み終えた新聞はそのまま。雑誌チラシフリーペーパーが積み重ねられ、郵便物やら家自動車の鍵がじゃらりと置かれている、先週渡した資料がそのまま、メモがあちこちに、賞味期限の過ぎたお菓子があり、なぜか同じものが、たとえばセロハンテープやカッターがごろごろしているなどなど、何が何やら、物置なのか机なのかわからない状態になってはいないでしょうか。
どうして机の上にものを置くな、整理せよというのかというと、机の上は、自分の頭の状態を表しているからでございます。
つまり、机の上が物でごちゃごちゃなら、頭の中も取るに足らない何かで一杯であるというわけでございます。
こと、お勉強におきましては、頭の中がどれだけ整理されているかで、勉強効率は変わってくるものでございます。
それは、記憶から理解まで、幅広い領域で影響を及ぼすものでございます。
もっというなら、頭の中がごちゃごちゃであるというのは、自分が何をすべきなのか優先順位が決まっていないということでございます。
何をしたらいいのかわからなければ、行き当たりばったりの、重要度の意識も頻出の概念が欠けたお勉強になること、必須でございます。
勉強能率は落ちざるを得ないわけでございます。
基本的に机の上には、リビングの机では花瓶か観葉植物程度、食卓机ならソース・しょう油指しなどの良く使うものを、勉強机であれば文房具を詰め込んだペン立てか辞書くらいが、上に置ける関の山であるかと存じます。
ざっと自分の机の上を頭に浮かべ、何か人形やら飾りやら、雑誌や本やらで占拠されている風景が浮かんだ人は、家路に着くときにゴミ袋を買って、今晩中に片付けくださればと存じます。
先ほどもいいましたが、物が置けるスペースは全体のうち2割まででございます。
それ以上は、要らない物・必要のない物・ゴミやガラクタの類と考えてもらって結構でございます。
ざっくり捨てるなり置き場所を変えるなりして、机の上をすっきりさせて、自分の頭もすっきりさせていただきたく存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年5月13日 10:35 AM |
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空手形・空証文は世の習いでございます。
誰も見たことのない将来を、まるで、見てきたかのように語る人がいるものでございます。
ころっと騙されて何度も痛い目にあってきたかと存じます。
隣で寝ている人の顔を見れば、調子のいいことをいっていたなあとため息をつくかと存じます。
とはいえ、ため息は命を削るカンナかな、と申します。
はあとため息つくよりも、痛い目にあったことを糧に前向きに取り組んで生きたいものでございます。
済んだことは済んだことでございます。フクスイボン。
さて、お勉強についてでございます。
お勉強で最も厄介なのは、カラ自信でございます。
何の裏づけもないのに、出来た風でいる自信でございます。
自信を持てと何につけてもいわれますが、その言はちゃんと練習やら特訓やら演習やらを済ませた後の言でございます。
仕事をしてもいない奴から、「オツカレサマデシタ」と無機質に言われることほど、頭がかあっとすることはありません。
一生懸命やってくれた子からそういわれれば、こちらも心からお疲れ様ということができるのでございます。
カラお疲れほど、人間関係を損ねるものはないのでございます。いうなれば、「カラ」ほど当の本人にダメージや不評を与えるものはないのでございます。
さて、お勉強のカラ自信についててでございます。
何もしっかりしたお勉強もないのに、できるできると思い込んでも、本試験で無残に打ち負かされるものでございます。
試験というのは、努力が如実に顔を現します。
やっていない人がやった人に勝つことは、まずありません。
ほんとうに、運で勝てる人というのは居ないことはありませんが、合格者の1%は切ってございます。ごくごく少数なのでございます。
そんな僥倖を当てにして落ちてしまうよりも、確実で堅実な努力を払った方が時間労力手間努力が引き合うものでございます。
カラ自信で試験に臨むよりかは、自信の無い不安定な状態のほうが、ひとつひとつに手を抜かず丹念に検討するでしょうから点が取れて、合格が自ずから近づくかと存じます。
とはいえ、お勉強には、カラ自信と良くは似ているのですが、その性質が全く異なるふたつのものがございます。
それは、根拠のない自信と意味不明の勇気でございます。
確かな根拠はないのに、自信があるときがございます。
自分なりのやり方を見出したり編み出したり、(こうしたらうまくいくんでないかい)といったヒントやアイデアを発見して、自己流の工夫が当たりますと、いけるんじゃないか?!という根拠のない自信に包まれるものでございます。
そして、この根拠のない自信は、遺憾なく本試験でも発揮されるものでございます。
意味不明の勇気というのは、まさにその言の通り、当の本人でさえどうしてそうなのかわからないけれども、かかって参られいという剣豪の心境になっている状態になっていることを示すものでございます。
意味不明の勇気は、脂が乗り切った状態とも行っていいでしょう、学習量が一定の量を超えたときに起きる状態であります。
こうしたふたつは、お勉強におきましては、あって損はございません。いや、あったほうが、日々のお勉強から本試験まで資するものがあるかと存じます。
「カラ」ではない、根拠のない自信と意味不明の勇気は、わたくしたちに良い影響を与えるものであることにご留意くださればと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2009年5月12日 9:53 AM |
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