独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

積もり積もらせて

わたくしたちの努力というのは、目に見えないほど小さいものでございます。
しかしながら、それらはいくら小さくても、厳然としてあるものでございます。
努力をイメージするのには、キレイ好きな皆様の部屋の片隅にございます、綿ボコリを思い浮かべれば良いかと存じます。
あの綿ボコリには、それそこ何千何百もの、小さなホコリから為ってございます。
真っ暗な部屋に、1条の光が差し込みますと、目には見えなかったホコリを見ることができます。
十分な光度があるときには見えませんが、ホコリというのは、席を立っただけで、歩いただけで、もくもくと部屋のなかにたゆったているのでございます。
ただ、わたくしたちの肉眼では、そこにあるはずのホコリを見えないだけなのでございます。
綿ボコリとは、見えないホコリが積もりに積もって、ようやく、視覚できるに足る大きさとなった次第でございます。
努力というのもまた、かくの如きものでございます。
わたくしたちは、そのときそのとき、その瞬間で成長なりを実感できないのでございます。
日々の勉強では、おそらくは「できた!」という感じを抱かないかと存じます。
わたくし自身、今日の勉強でレベルが上がったぞ!みたいな体験をしたことがありません。
しかし、ある程度の時間が経ってから振り返ってみますと、明らかにできるように、何かしらの成長を実感できるのでございます。
もちろん、継続が前提でございますが、できた実感はないけれども、できるようになっていくのが、わたくしたちなのでございます。
日々の努力といいますのは、まさに、ホコリのようなものであるとお考えくださればと存じます。
努力といいますのは、すぐに形になるものでもありませんし、自力で形付けることができるものでもないのでございます。
続けていたら形になっていた、というのが、最もしっくり来るかと存じます。
ホコリを集めて綿ボコリを自作は出来ませんが、ほっておいて時間が経過すれば自然とできていたのと、非常によく似ているものでございます。
こつこつ、地道になどと申しますと、かび臭い処世訓ではありますが、確実に為す方法であるといえるかと存じます。
素早く、速く、効率的に「綿ボコリ」を作ることはできるでしょうが、どこかいびつで脆いのも事実でございます。
また、人によって、作れるか否かは大きく分けられることでしょう。
それよりも、やることをやり続け、自然と為るように仕向けた方が、結果が確かである以上、賢明ではないかと考える次第でございます。
努力とは積もりに積もらせて用いるもの、できあがるものであることに意をお払いくださればと存じます。
さすれば、むやみやたらに焦ることもなくなるかと思います。

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積もり積もらせず

独学で大切なことは、自身のストレスや不安を、きちんと発散していくことでございます。
独学で挑戦したが、1ヶ月と続かなかった、と告白してくれた方がおりました。
原因を聞いてみると、はっきりしたものがないのでございます。
何だか途中から「イヤ」になった、というのが、理由らしい理由でございます。
しかし、単純なようで、この「イヤ」という言葉は、実に強い言葉でございます。
とても多くの理由、感情、理屈、理論、論理、言い訳その他が凝縮されたのが、「イヤ」でございます。
ちなみに、この「イヤ」は、しつこいセールスを断るのに、「イヤ」は最適な言でございます。
「○○の未公開株を買いませんか?」とか、「証拠金取引はいかがでしょうか?」とか、「投資用マンションはいりませんか?」などと電話がしつこくかかってくるようなら、実に効を奏すかと存じます。
説得の多くは、理に訴えかけるものでございます。おトクですよ、とか、便利ですよ、とか、言われるものでございます。
わたくしたちはそういわれると、理で抵抗しようとします。お金がありませんから、今ので十分ですから、利回りが合いません、などなどでございます。
しかし、相手は何十何百と経験を積んだ猛者でございます。また、その理を上回る理をもって、交渉に持ってきます。税金がお安くなります、もっと節約できます、年利10%はカタイ、などと。
大人になりますと、「イヤ」とはなかなか子供じみていえないものでございます。しかし、だからこそ、強いのでございます。
畳み掛けるように質問されても、一言、イヤです、というと、相手はどうにもならないのでございます。
「各種施設が格安で利用でき、映画やコンサートのチケットも3割引に、指定ゴルフ場・温泉旅館は4割引になる××会員権はいかがでしょうか?」に、「イヤです」と答えると、そこで相手はぐっと詰まるのでございます。
イヤという言葉は、感情に由来するものであって、理ではないからでございます。相手は、どうにも攻められなくなるのでございます。
イヤです。イヤだからいいです。イヤなのでイヤです。
こんな風に言うと、おそらく百戦錬磨のセール人も、撤収を始めるかと存じます。
腕のあるセールス人ほど、時間を無駄にしません。まったく見込みがないことを悟れば、すっとパンフだけを置いて帰るなりすることでしょう。
ぐだぐだとセールされる時は、「すいません、もうイヤなのでいりません」とでもいえば、そこで大半の売りトークは終わることでしょう。
ま、このように「イヤ」には、大変強いパワーがあるのでございます。
これは、お勉強についても同様でございます。「イヤ」にまで、自身を追い込んではならないのでございます。
日々沸き起こる不安やストレスは、適度に解消しなければならないのでございます。
それらが心に巣くい出すと、お勉強の成果は少なくなるうえ、やる気の維持も一苦労となります。
そして悪いことに、それらが、積もりに積もった不安は恐怖を呼び起こし、ストレスをマックシングにまで押し上げます。
こうなると、試験勉強が「イヤ」なものにならざるを得ないのでございます。
いったん「イヤ」になりますと、そのパワー故に、正すのが難しくなってしまいます。
ですから、そこまで行かないように、散歩やお茶や、体操やストレッチや、飲食や酒、スポーツやら趣味やらで、不安とストレスを発散させるのでございます。
病気になると治すのが大変だが、病気になる前に適切な処置をするのは簡単なのと同様の理屈でございます。
「イヤ」になる前に手を打つのが、独学でございます。

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神頼みをしたのなら

困ったときの神頼みと申します。
神頼みなどと申しますと、何やら古臭くて、無責任というか軽薄というか、何かさぼってそうな努力不足の感がありますが、そうではないように思います。
わたくしは、神頼みを否定するものではありません。
まず第一に、完全なる対策を、自身で取りきることは不可能でございます。
完全対策できる!といえる方は、以下の質問に答えてほしく思います。「試験問題が大幅に変わる可能性はないのか?」と。
試験制度というのは、ときおり大きく変わるものでございます。制度が変われば、問題も大きく変わります。
まったく以前とは似ても似つかない試験問題となった例は、掃いて捨てるほどあるものでございます。
可能性として、試験問題が激変することがある以上は、神頼みの余地は大いにあるかと存じます。
また、第二の理由として、神頼みだけをしてまったく勉強をしないという人はそういないからでございます。
ある意味、剛毅というか図太い人は、そもそも試験というこましゃっくれたものとは縁がないことでありましょう。
だいたいにおいて、神頼みをする人というのは、相応の努力を払っているものでございます。
もちろん、努力不足や工夫の足りない人もおられるかと存じますが、すべての人がそうではないように考える次第でございます。
祈願して不安なりストレスが軽くなるのであれば、大いに神頼み結構であるかと存じます。
しかし、でございます。
いったん神頼みをしたのなら、その祈願について、疑ってはならないのでございます。
それは不遜な行為でございます。
頼みます、合格させてくださいと祈願したのに、次の日に受かるかどうか不安に思うなど、神さんを信心していない証でございます。
考えてもみますと、Aさんにコピーを頼んだが、しばらく経ってもコピーが出来てない。Aさんがしてくれるかどうか不安になったので、Bさんに頼んだと致しましょう。
これほどAさんにとって、失礼なことはありません。コピーすらできないと思われたわけですから。
また、Bさんにとってもいい迷惑でございます。忙しいのに余計なこと頼むな、といった塩梅でございます。
生身の人ですらこうなら、況や神さんをや、でございます。
自分で願っときながら、疑うというのは、大変に失礼かつ、不遜な行為でございます。
神さんからすれば、適えてくれる奴に頼めよ、という気分でありましょう。
人ですら嫌な気分になって、今後あなたのために何か好意的なことをしてくれなくなるでしょうから、その神さんはこれからもっと何もしてくれなくなるでしょう。
いったん神頼みをしたのなら、結果は、天に任せたわけですから、もうアレコレと成否を思わず、ただ、目の前のあることに尽力すべきであるかと存じます。
神頼みにかこつけて努力をするのが、神頼みのベストの用い方であるように思います。

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