独学のお供であり、お勉強に欠かせないもの、それはお茶でございます。
本日のススメは、敢えて実験してみようと思われる方にお読みくださればと存じます。
紅茶には、あたりまえといいますか、砂糖を入れるものでございます。
インドの紅茶チャイは、煮出した紅茶にたっぷりの砂糖を入れます。
イランでは、角砂糖をかじりながら紅茶を頂きます。
ヨーロッパ圏におきましても、紅茶には砂糖が付き物でございます。
なんでまあ、こう砂糖が入れられるようになったかといいますと、もともと、紅茶という飲み物が薬であったことと、砂糖というものも、一種の精神安定剤として処方されていたから、と考えている次第でございます。
紅茶というのは当初、飲み物としてではなく、東洋の神秘的な「薬」の触れ込みでヨーロッパに入ってきたのでございます。
砂糖もいまでは調味料の1つでしかありませんが、かつては、薬屋で処方されていた高級物品でありました。
もちろん、いれたら甘くておいしい、という理由が大でしょうが、紅茶と砂糖が同じ薬局で扱われていた背景から、紅茶に砂糖と相なった次第かと存じます。
さて、今回、挑戦といいますのは、敢えて、砂糖の変わりに塩を入れてみようとするわけでございます。
お茶に塩を入れるなんて?!と思われる方もございますが、バター茶には塩を入れますし、モンゴルでも塩を入れて飲みます。
日本の緑茶も、お茶漬けというご飯の食べ方がありますように、意外に、お茶と塩っけというのは相性がよいものでございます。
今でこそ、お茶うけと申しますと、和菓子・砂糖菓子でありますが、かつては、家々で漬けていた漬物がお茶うけを努めてございました。
歩くのが移動手段の大半であったときは、汗をかいたために消失した塩分を、漬物で補っていたといったわけでありましょう。
緑茶も塩っけと相性がいいわけでございます。
なら、緑茶を発酵させた紅茶でもそう悪くはないと考え、今回、紅茶に塩を入れてみた次第でございます。
ただ、塩だけではアレなので、以前紹介したしょうが紅茶でやってみる事としました。
つまりは、しょうが紅茶に入れるシロップやはちみつの代わりに塩を入れる、といった塩梅でございます。
紅茶に塩としょうがを入れてみたところ、いつもの、なんでしょうか、紅茶の持つエレガントさがなくなって、東洋の風が吹くといいますか、何となく「薬湯」という感じがするのでございます。
塩を入れたことから、紅茶全体がなめらかになり、紅茶の酸味が和らいで、何ともまろやかに感じるのでございます。そして、しょうがのぴり刺激が何とも合うのでございます。
加えて、しょうがが入っていることから、飲むたびに身体が熱くなって、相対的に外気との温度差が縮まり、不思議に涼しく感じるのでございます。
このしょうが塩紅茶、周りの人で実験した結果、悪くはない、というご意見を頂戴しております。
今のところわたくしは、しょうが塩紅茶で紅茶を頂いておりますが、汗をかく暑い日には必須の塩分と、しょうがの滋養、紅茶のビタミンで、夏に足りなくなるものは全部補えていいのではないかと、自画自賛している次第でございます。
紅茶というのは、砂糖でも実においしくいただけるものですが、飲みすぎると砂糖の取り過ぎとなってしまいます。この点が、紅茶の欠点かと存じます。
この点、しょうが塩紅茶は太りようがなく、個性が強いのか1杯ですごい満足感がございます。
薬湯風味満載のしょうが塩紅茶、できれば今年の夏に1回くらいはお試しくださればと存じます。
1回だけでもういい、という人が大半かと思いますが、意外にいいねえと来る人も少なからずおられるかと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2010年8月24日 10:25 AM |
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直感といいますのは、意外に当るものでございます。
逆に言えば、頭で考えたことというのは、意外に間違うものでございます。
頭の中だけで、あーしてこーして、ほいでちょちょっとしたらいいんでしょ、と考えたことは、いざやってみると穴ばかりで何にも役に立たないことがございます。
逆に、直感的にピンときたことというのは、途中で紆余曲折はあれど、うまくいくことが多いかと存じます。
一番多いケースは、言葉にならない(ああ、こいつはダメだな)という感じ方でございます。
どんな理屈、どんなデータをこさえられようとも、(こらダメだ)と常識で感じてしまうと、どれほどがんばってもあまり成果はついてこないものでございます。
お勉強といいますと、頭ばかりで考えがちですが、感性・感覚・実感・手触り・肌触りで考えてしまったことも、重要な要素として、考える際の指標にしてほしく存じます。
失敗したことの多くを思い返してみれば、最初からダメなこと、ダメになることを、何となくわかっていたことが多いのではないでしょうか。
何にも確証も、物証もないのに、おかしいな、何かあるなと思うときは多々ございます。
自分の感じを、無理やり理屈で押さえ込んでしまったために、失敗はより深く広範囲に及ぶことが多々ございます。
もちろんのこと、爬虫類並みの感覚や感じのみで物事を判断するのは危険ではございます。
しかし、思考のみで判断するのも、劣らず脆いことを頭の片隅にでも置いていてくださればと存じます。
お勉強をしていくと、これでいいのか?と不安に思うことがありましょう。
この問題に対しては、明白な基準を作ることはむずかしゅうございます。
いまはダメだけど良くなるときもあれば、そのままダメで終わるケースもあります。
また、ある人によかったやり方が、当の本人には適さないことも、これまた多々ございます。
実に、不確かなのでございます。
おそらく、最も間違いのない判断は、本人がどう感じているか、先々に何か光というか光明というか、そういうものが見えているかどうか、でございます。
話し言葉風に述べるなら、何か全然あかんなあと感じているときは、恐らくダメでありましょう。
何にも感じないというか、石相手に話しかけているような虚無感のあるときには、変えていくべきでございます。
まあ何とかなるんでないかい、めんどうだけど、という風に感じているなら、そのまま続けても大丈夫か、このまま様子見と相なるかと存じます。
これならできそう、といったいい感じならば、やり方や方法を変えずともいいわけでございます。
昔懐かしい言葉ですが、フィーリングというものは、確かにございます。
自分の感じ方も、事の成否につながっていることを意識してくださればと存じます。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2010年8月23日 3:03 PM |
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『7. 常に耳の穴を開けておけ。』
まず、人の話をよく聞くこと。
特に、何でもない会話の方に意を払うこと。
自分で見聞きすることなど、ほんの一部である。
それがすべてだと思えば、考えの幅は狭くなり、引き出される結論もとんでもないものがでてくる。
ダメ思考にダメ6感あり。考えのもととなったものには、よくよく注意である。
思うに、耳の穴と脳みそとは、繋げない方がよい。
何か重要なものというのは、自分が聞こうとして聞いたものよりも、ふと耳にしたもののほうが多い。
何かを聞こうとして聞こうとするのは、その意図が重要となる。
意図を見抜けなければ、自分で考えたように思っているが、単に言われたままをやるだけに過ぎなくなる。
また、ある曲を聴こうとすれば、それ以外の曲が聞こえなくなるように、自分が聞こうとすれば、自分が聞きたいものしか入らなくなる。
耳の穴を空けておくだけではなく、耳の中をつまらない何か、特定の何かでいっぱいにしないことも、劣らず重要に思われる。
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『8. 自分の小銭の金額も数えておけ。』
大きな金額となるときっちりして、小さな金額となるとなあなあとなる人がいる。
一言でいえば、よくない。
小銭部分ほど、きっちりしないといけないのは、舐められないためである。
お釣りはいいよいいよ、が済むのはタクシーまでである。
タクシーの運転手との付き合いは、それで終わるからである。
後でどう思われようともよいし、また、どうも思われないだろう。
しかし、付き合い上での小銭のなあなあは、相手に隙を見せることになる。
みみっちいと思われたくない、その小心振りが問題なのだ。自分を大きく見せたい、そのつまらない精神のぜい肉が問題なのだ。
大金をきっちりするのは誰でもできる。誰だってそうする。
しかし、1円・10円まで追求すれば、こいつは甘い顔ができないとか、だませれないという、無意識的な印象は出来上がる。
お金は収支が合えばよいというわけではない。
その使い方で、人となりがばれてしまうのが怖いのだ。
お金を出すときには、裸になるくらいの心持ちになるべきである。
今ここで、自分がくみしやすい人、少し舐めている人、甘く見ている人を思い浮かべてみてほしい。
おそらく、小銭部分がきっちりしてない、一言で言えば、小銭がルーズな人ではないだろうか。
喫茶店のおばさんが1円単位まで割り間にするのは、単にお金の問題ではなくて、プライドの問題だからである。
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『9. 本能がチャンスだと告げたら必ず儲かる。』
わたしたちは、最初からわかっていることがよくある、
AでBでCでDで、と論理なり理由を積み上げて結論に到達するのではなくて、頭の中には、何かもやもやした結論が先に明白にあって、後でそこに到達するにはどうしたらいいかを考えているときがある。
直感といえばそれだけなのだけど、うまくいくときというのは、やはり、直感ではないかなと思う。
データや資料を見て、新聞や雑誌を読んで、考えれば、いい商売になるわけでもない。
机上の統計で商売がうまく行くなら、教授や評論家は皆、億万長者であるし、新聞や雑誌が商売に資するのであれば、出版社や新聞社、記者もまた、億万長者になっていなければならない。
そうでないことは明白である。前者の多くは別から給料をもらっているし、印税が収入である。
新聞社や出版社も売り上げの落ち込みは厳しい。
商売を知っているなら、最もよく知りうる自分の商売もうまく行かねばならないだろう。
うまくいっていないなら、それは、知っていないこととなる。
商売というのは、あまりに不確かで曖昧であるため、どうしても机上のよくできた理屈を求めやすい。
そういう傾向が強いことを知っておくべきであろう。もちろん、汝自身においてもである。
企業理念、ミッション、約束、誓い、憲章、ロゴ、マーク。
そんなものを作れば、需要が生まれるのだろうか。そして、いくつあればいいのだろう。
増産しよう!とポスターを貼れば増産すると思っていた国はどうなったのだろう。
わたしはそんな理念物よりも、まねきねこやお狐さま、ほていさんを飾る方が、健全であるように思う。
そんなもので本気で商売がうまくいくわけはないが、理念の類は本気でそうなるように思っている人がいる。外注すれば値段もかかる。
ビジネス書を、大人のおとぎ話と評した人がいるが、蓋し名言である。憶えていて損はない。
話を元に戻す。本能がうまく行かないと語るなら、うまくはいかない。
| カテゴリー: 過去のススメ | | 2010年8月20日 8:42 AM |
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