独学でススメ-読むだけで独学合格できるかもしれない、適当なヒントとTips

ブラックコーヒー派の人は、ごく少量の重曹を(下痢予防)

朝一にコーヒーを飲むと、なぜだか、しばしば下痢になってしまうわたくしでございます。

わたくしの朝は、コーヒーとパン、最愛の菓子パンで始まるのですが、カップ一杯のコーヒーを飲み干してしばらくすると、お腹がごろごろと鳴り出して、トイレに駆け込んでおりました。

当初は、(活動を止めていた腸が動き始めたからかな~)なんて思っておりましたが、最近は、(これはそうじゃないな~)と思うようになりました。

大概が下痢状態でありまして、少なくとも、健康的なお通じではないからでございます。

温めた豆乳ならば下痢にならなかったので、原因は、やはり朝一のコーヒー、それも、ブラックコーヒーに腹痛と下痢の要因がある、と踏んだ次第でございます。

そもそも、コーヒー自体が酸度の高い飲み物でして、だからこそ、それを中和するために、コーヒーにはミルクや砂糖を入れるわけでございます。

しかし、わたくしは、「ブラック」で飲むのが好きなのであります。

そこで、ブラックコーヒーを楽しみつつも「下痢にならない」ために、重曹を入れております。

重曹は弱アルカリ性ですので、酸性のコーヒーに入れることで、酸度を中和するといった寸法でございます。

コーヒーに重曹を、ほんの一つまみ、ちょろちょろっと、砂金を扱うが如く入れると、何だか騙されている感じもしなくはないが、コーヒーが「まろやか」になったというか、「きつさが和らいだかな?」という、感触がございます。

ま、体質と言う個人差もあり、飲んでいるコーヒーの品質もあり、飲む量もあり、コーヒーと一緒に食べるもの違いもありと、大きな差はあると思います。

しかし、わたくしは、「コーヒーにごくわずかの重曹」で、飲食後にトイレに駆け込むことが、ぐっと少なくなったことをご報告したく存じます。

朝コーヒーを飲みたいが、「出勤途中に下痢に襲われるのはかなわん!」という人は、ぜひ、土日といった休日の朝にでも、お試しくださればと存じます。

なお、飲食の際に使用する重曹は、「食用グレード」の、「食品添加物」扱いの重曹でございます。

配偶者には掃除用重曹で十分でしょうが、大切な我が身と家族には、口に入れても大丈夫な食用の重曹を使ってください。

食用重曹は、主にスーパーのパン作り・ケーキ作り・クッキー作りコーナーにて、売られているように思います。

重曹は、発酵の代わりの膨らし粉として、利用されるからです。いわゆる、ベーキングソーダ/ベーキングパウダーです。

わたくしは、「株式会社井上清助商店」製の「タンサン」という、500グラム250円くらいの重曹を愛用しております。

ちなみに、重曹は、料理用・飲食用としては、そう「量」を使うことがないので、ホント、500グラムで十分過ぎるかと思います。使い切れるかどうかが、心配なくらいであります。

大きく考えれば、成功か失敗かのどっちかだし

ギリギリまで考えて、あれこれ試してみて、それでも失敗してしまうのが、常のことでございます。

しかし、でございます。成功と失敗は、試行の常・挑戦の常でございます。

よく似た言葉に、「勝敗は兵家の常」がございますが、戦をすれば結果は勝つか負けるかしかないわけです。

まあ、引き分けもありますが、それは勝敗の帰結を先送りしただけで、どうしたって、勝つか負けるに収束するものでございます。

後藤又兵衛が、負け戦のたびに丁髷(ちょんまげ)を切ってたら、武士は皆坊主だと、申しております。

失敗は受け止めなければならないが、だからといって、受け止め続けて立ち止まっていても、甲斐はないという次第で、それをどう活かして行くにしか、わたくし達のやることはないように存じます。

先も言いましたように、成功か失敗かのどっちかでしかないわけで、失敗の都度いちいち、ぐじぐじするのは、あまり意味がないように思います。

言うなれば、「結果が成功のみ」のほうがオカシイと考えるべきでありましょう。

結果が「成功だけしかない」というのは、現時点では、失敗の因子がないというわけですから、1つは現状を見誤っているか、もう1つはもともと成功しているか、それか、もう既に成功しているしか、そういう事態は存在しえないものでございます。

もう既に成功しているのなら、する必要はないでしょう。する必要がないのに「する」のは愚かでございます。

何かをやろうとするなら、どっちかなんだし、「失敗も仕方がない」わけで、そこにこそ、素朴な現状認識があるように存じます。

わたくしは、「成功だけを考える」方が、余計に手ひどい失敗に行き着くように存じます。

また、過度に失敗を考えるのも、余計に成功から遠ざかっているように、考える次第でございます。

そして蛇足ながら、成功したら全てが終わるってわけでもないでしょ、って寸法でございます。

もう少しよくわかりたいな、という発想

いま、自分が「できているなー」と思っていることを、考えてみてください。

例えば、目の前のお仕事です。家事その他の雑事・雑用でございます。

考えてみれば、たくさんございます。

例えば、パソコンのキーボード入力、パソコンの操作や組み立てから、自転車の運転、自動車の車庫入れ、男女の営み、配偶者の取り扱い、などなどでございます。

それらの多くは、かつての「できない状態・うまくない状態」から始まって、だんだんと現在のヴェテラン状態に到ったのではないかと存じます。

ところが、です。

なぜか人は、今できていることを、「昔もできていた」とか「昔もすぐにできた」と決め付けているのでございます。

そんなことは決してなかったはずで、現実齟齬の甚だしいこと、醤油とソース並みであります。

いま自分が「できること」でさえ、次第に「できる」の精度が上がったものなのに、一足飛びに「できて然るべき」と考えることは、誤りでございます。

できないこと全部に対して、すぐに、一気に「できるようになること」など、全く辻褄が合いません。

すぐに、一気に済ませるのができないことが、「できないこと」です。 

よくわからないことやできないことに対しては、一気に「できよう」とするよりも、「もうよく少しわかりたいな」という態度、漸進的な心持ちが必要であるかと存じます。

逆を言えば、最初から全部が全部を、完全に、詳細かつ仔細にわかりきろうとするのは、「物事がわかってない」証拠だと思います。

つまり、「できる」ということが、どういう過程(プロセス)を経てそこに到るのかを、全く知っていない・把握していないから、そんな事が言えるんだ、という塩梅でございます。

もっといえば、わからない・できない事に対して、一気に済ませよう・できようとするのは、かなりの『希望』や『そうありたい願望』,、『早く済ませたい欲』が入っていないかを、調べるべきかと存じます。

したいという意思と、できるという事実は、全く違います。

配偶者の顔を思い浮かべてみれば、両者の違いは即解するかと思います。

「どうすれば、もう少しよくわかるかなー」と思いを巡らすことが、現実的な思考であり、よくわかっていく要領なんでないかいな、と考える次第でございます。