『58. 時として、友情は高くつく。』
友情は、明治以後に生まれてきた「情」である。歴史は浅い。
情の関係というのは、君臣と家族くらいであった。
友情は、有史以来あるものではない。友情がすべてなんてことは、歴史のなかでこれっぽっちもないので、勘違いをしてはならない。
友情賛歌は、まさに戦後のものである。
われわれはまず、気の合う友達同士で、商売をしてはいけない。
友情と商情は全くの別物である。
友達の関係と仕事の関係は全く違う。
部下や上司、取引先、取引銀行の人間を、友達扱いする人はいない。それぞれに背負っているものがある。
逆に、友達風の顔をして近づいてくる者には、注意する。
気が合うから商売がうまく行くわけではない。
気が合う同士なら利益が出るわけでもない。
気が合う同士だと、言えることも言えなくなってしまう。その人との関係が重要だからである。
しかし、商売では、人との関係より、お金と物と信用との関係の方が重要である。
この点、勘違いをしてはならない。友達同士でやり始めた商売は、大概傾く。
残るのは、大きな借金とぎくしゃくしてしまった人間関係である。
せっかくの友情を、商売でダメにしてはならない。
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『59. ただの忠告は絶対、高くつく。』
タダで情報を得ようとしない。
実になる忠告を得ようとするなら、まず先に、謝礼を差し出すように。
忠告の後で、お金を出してはいけない。
そうすると、向こうも真剣に話を聞き、知恵を絞って解決策や、便宜を図ってくれる。
お金は魔力があって、1千円でも渡すと、実に違う。お小遣いは伊達のパワーじゃない。
逆を言うなら、タダで得た忠告など、いかほどの内容があろうか、といった次第である。
適当に考えたもの、思いつきで言ったもの、いま世の中で流布されている耳ざわりのいいものをパッケージしたものばかりであろう。
いざやってみようとするなら、少しも役には立たないか、それか、判断を危めるものなのである。
フェレンギ人は、『絶対』に、と言い切っている。
わたしも、タダで得た忠告・情報で、自身の重要な決定をするようなことは、愚かであるように思う。
タダの忠告で決めてもいいのは、晩飯のメニューくらいである。
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『60. 口先だけで何とかなる時は、絶対ラチナムを使うな。 』
確かに、お金で解決が付くのなら、さっさとお金で解決してしまえばいい。
また、逆を言えば、お金で方が付くなら、そうたいした問題ではない、ともいえる。
しかし、なのである。
だからといって、即、お金で解決しようとしてはいけない。
まずは、信義の問題である。倫理の問題である。
問題の対象者と話し合いもせず、金で解決しようとするのは、人情を無視した卑劣な行為であるといえる。
お金が解決するのは、もはや他の方法では解決が付かないから、仕方なくお金で解決を図るのである。
懐がお金が満ちようと、失った信用と愛は、再び、絶対に戻ってこないのである。だから、仕方ないから、止むを得ないから、解決を「金」にしているだけなのだ。
もし、富士山に10回登れば、愛が戻るというのなら、そちらを選ぶ人のほうが多かろう。
お金第一のために、問題化しているのではないことを、重々、踏まえておかねばならない。
さもなければ、さらに問題を悪化させることとなろう。そして、こじれた問題は、賠償額をえんえんと増やし続けるであろう。
次に、なんでもお金で解決しようとするのは、お金の無駄遣いでもある。
話し合いで解決できることは、話し合いで解決しようとして、絶対にそこから引いてはいけない。
1回でも引けば、必ず次に足元を見てくる奴がやってくる。恐ろしいほどにやってくる。
最後の最後のギリギリまで、引いてはいけない。お金によって安易に解決しようとすると、余計に損をする。
振り込み詐欺など、まずはお金で解決しようとした者の末路である。
自身の息子なり娘が法を犯して迷惑をかけたなら、まず、被害者になった人との、話し合いからであろう。
没倫と不法とは、結局、高くつくのである。
2010年12月17日 11:15 AM
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