『49. 経験と欲望は、若さと才能に勝る。』
商売に必要な素養は、上記に挙がっている4つが含まれるのは、異論がないように思う。
多くは経験から為る。
下手な机上の空論よりも、1訪問1電話1メール1営業しかない。
欲望の方は、後で述べるので飛ばす。
若さというのは年齢ではなくて、精神的なもの、いうなれば受容性、柔軟性のことであろう。
時代というと大げさだけれども、商売の環境はどんどん変るものであって、それに応じて替えなくてはならない。
新しい道具、ツール、考え方をいかに現状の商売に反映させるかが、時代の変化に対応することなのだけれども、それらを受け入れるか、使いこなせるかは、やはり、経営者の器による。
経営者が閉鎖的で排他的で独善的だと、それは、あっというまに役員から中間管理職にまで伝染する。
卑しくも経営者であるなら、よくよく注意をして、身を削るような、異物が入ってくるような気がするけれども、受け入れていかねばならない。
それに我慢できなくなったときが、引退であろう。
才能は、言うまでもなく、無いよりかはあった方がいい。が、なくても、軌道に乗せている商売人はたくさんおられる。
最後の欲望だが、個人的にはこれが一番大事な気がする。
経験があっても、若々しくても、才能があっても、商売においては欲が強くなければ、どうしても後手後手になるか、守り守りにはいって自滅に近い状態に陥る感がしてならない。
相手が見ていなかったら鞄や財布の中から金目のものを盗むくらいの、巨大な「カネホシー」欲望が商売の原動力であろう。
売れていない、活気のない店の主人は、大概、聖職者のような欲のない顔をしている。
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『50. クリンゴンはだますな。』
クリンゴンとは、ドラマ「スタートレック」シリーズに出て来る戦闘民族で、戦いと名誉を求める「もののふ」的役割を担う。
騙してもいいのは、反撃の来ない人たちである。
反撃の返って来ない人というのは、武器を持っていない人たちである。または、法律の知識持っていない人たちである。
あちらの武装を確認したら、安心して騙すがよい。
騙していけないのは、反撃の返って来る人たちである。
反撃の返って来る人とは、クリンゴンのような、刃物や銃器を持っている戦闘意欲・好戦的な人である。
猟銃を持っている人をからかってはいけないのと同じ理屈である。
騙されたという人は、そのように見られているということ。
騙されたことのない人は、心に何か狂気のようなものをもっていて、恐れられているか、警戒もされている。
騙すべき人を騙すべしという、ごく常識的な言である。
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『51. 誰か他に非難されるべき奴がいるならば、 けっして自分の誤りを認めるな。』
責任転嫁の理屈で、一理ある。
責任を負わない、というわけではない。責任を負うにしても、負い方があるというわけである。
誤りは誤り、失敗は失敗と当の本人はわかってはいる。
しかし、失敗の原因や事態というのは、ある1つの何かに還元できるものではない。
少なからず、あちこちに責任の萌芽がいくつもある。
それらにも負わせて、こちらの負担を軽くするという、現実的な対応なのである。
潔く責任を取ればいい、わけではないのが大人の世界の話である。
だからこそ、「潔い責任」がおとぎ話のように、清談となる。
だからこそ、道徳の好きな人たちや、責任のない人たち、特権に包まれている人たちが、声を大にして語るものになるのだ。
責任を取ってやめるということは簡単だが、代わりに務まる人なり、業界全体を引っ張っていく組織があればいい。
しかし、それがないときは、後に生まれるのは混沌のみで、余計に事態は悪化することになろう。
責任というのは、当事者の良心が実に多くを担っていて、部外者からは窺い知れないものがある。
潔さは、中間的なものである。汚名を被ろうとも、あとあとからすれば、その人がいたからこそ、このくらいの被害で済んだということはたくさんある。
しかし、「責任を果たす」といって、まったくの無責任、卑劣、卑怯、嘘つきな輩が、これまた、この責任の論理を用いることもある。
潔い責任の取り方というのは、こうした悪意の人間を封じる意味もあり、我々は、その悪意者をいちいち判定できないから、十把一絡げに「潔い責任」の取り方が歴史から紡ぎ出されたのであろう。
「潔き責任」とは、ルーピーのような悪意者は防げるが、真に責任の能力のある人の、責任の取り方をもとれなくしてしまうものなのである。
2010年11月26日 9:12 AM
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