試験勉強といいますのは、合格を目指して行なうものでございます。
逆を言うなら、不合格にはなりたくないがために、がんばるものだ、ということもできましょう。
不合格となるのは、実に、実に嫌なものでございます。
合格発表の日、自分の受験番号がないときは、心底がっくりして意気消沈してしまうものでございます。
落ちたんだ、ということはわかっているけど、あと2回から3回は、自分の名前を探してしまうものでございます。
この〇ヶ月のがんばりはなんだったんかなあ、と気が重くなるのは、実に、実によくわかります。
おそらく、発表後、1ヶ月か2ヶ月くらいは、こうした気の重さが続くように思います。
できることなら、さっさと気持ちを切り替えて、これまでやってなかった趣味などを、ばんばんとやっていただきたく存じます。
しかし、一生懸命、心からがんばってきた人は、そうも簡単に切り替わらないものでございます。
さて、しかし、そうはいっても、そんなダウンな状態が続きますと、復帰に時間がいっそうかかってしまうので、切りのいいところで踏ん切りつけて、前向きな姿勢をお取りくださればと存じます。
さて、以下に述べる事は、理想論でありますので、お目汚しください。
まず、全てを見通して、最適な解なり方策を練るなんてことはできないのでございます。
試験は水物でありまして、合格者と不合格者を分けたものは、ホンのちょっとした事でございます。
決して、能力的に劣っているわけでも、やり方が悪かったわけでもありません。
人生には、天使のいたずらとでもいうような、変な瞬間があるものでございます。歯車が噛み合わないときもあるものでございます。
長い目で見れば、こういうときもあるさと、視点を少し伸ばしてお考えくださればと存じます。
そして、長い目で見れば、不合格によって被った徒労など、所詮は「1年」の話しでございます。
ついふらふらと押した印鑑で、数年数十年をダメにすることだってあるんでございます。
ついつい軽い気持ちでしたことが、巨額な負債を背負い込むことだってございます。
不合格など、何の経済上のリスクもないし、社会的な信用を失ったわけでもありません。
失敗のレベルからすれば、なんてことはない種類にカテゴライズされるものでございます。
自分以上に困っている人、重荷を背負っている人だっているのですから、置かれた自分というものを、もっと客観的に見てくださればと存じます。
不合格という現実は、過大に考えれば過大になるけど、幾らでも過小に考えることも可能でございます。
いってしまえば、結果は不合格になったとはいえ、みっちりと勉強できた時間があったことこそ、人生のなかで穏やかな日々とも言えるのでございます。
毎日借金取りに追われている人、金策に回っている人も、本当にたくさんございます。
勉強できたことが、好日だったんだと思えば、不合格のことなどあまり思わなくなるものでございます。
また、もう1年勉強をするということは、合格後の勉強を先取りしているんだと、考えられなくもありません。
基本的に、試験に合格しても、合格後に勉強しなくてはならない事は多々ございます。
いざ実務を執る身になって、試験勉強でやってません、とか、試験で出そうになかったので見てません、なんて言い訳は効きません。
そんなことにならないための勉強を今、みっちりとやっているんだと思えば、再びの試験勉強にも、新たな意味を見出せるように思います。
不合格を単に無駄で徒労で失敗したこととだけとしか考えないか、意味を深めて「次」を見て取るかは個人の自由でございます。
わたくしは、よくよく自身の経験から汲み取る人が、成功できる人のように思います。
2010年11月29日 12:50 PM
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