| カテゴリー: 過去のススメ |
『16. 取引は、取引だ。(より良いカモが現れるまでは...)』
フェレンギ人のいう取引とは、うまい取引のことを言う。
利益の少ない取引は、フェレンギ人にとって真の意味での取引ではない。単に、字句の上での取引なのである。
うまい取引とは、良い客との取引を言う。
本当に、業績が回復するのは、本当によい顧客との取引である。半端ではない利益が生まれる。一息つくのもよい顧客との取引である。
しかし、よい顧客はそのあたりにはいない。故に、探さねばならないのである。
顧客とは探すものである。そのあたりに居る者ではない。
自分から良い客となる人々を探さねばならない。
どうすれば目の前の人たちが、よい「客」になりうるか、咬み出すように考えねばならないのである。
モバイルの無料ゲームは、当初、ゲーム好きの中高生をターゲットにしていたが、蓋を開けて見れば、大人の、特に長時間拘束される職業の人に愛用されていたのである。
ま、カモにされているわけだが、我々は、本当に、自身のサービスや商品が、誰に求められているかを、よくよく考えねばならないのである。
まず、自分が誰のよき顧客なのか、そこから知らねばなるまい。
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『17. バーゲン品は大抵高くつく。』
要らないものはただでも高い、という。
これは、古代ギリシアからの言である。
わたし自身が思うことは、ひとたび「安さ」の魔法にかかって、心の中に「お得感」ができあがると、どんどんと財布の紐が緩んでくることである。
スーパーなり量販店の、最も人の出入りが多いところには、得てして、お買い得品がある。
それも、熟考を重ねた上での安いという、回りくどい安さではなく、ひと目で体感してしまう安さなのである。
1.5リットルのコーラや水が、100円以下の98円で売られていれば、誰だって安く感じる。
この安さ感、いい買い物感、引いては、お得感が次の買い物への呼び水となるのである。
頭の中には、得したという印象が残っていて、今日の買い物すべてうまく行ったような「気」になってしまう。
得した気分になっているから、それほど必要でないものでも買ってしまうし、財布の紐は緩んでいるから、これまた、普段買わないものにも手が伸びる始末となる。
わたしたちは、得てして、バーゲン品だけを買って帰るような芸当はできない。
しわい人でも、お目当てのバーゲン品を買った「ついで」に、その他のもの買ったり、購入予定のものを見て帰ろうかなと思うものである。
なぜなら、せっかく移動時間を費やしてまで、買いに来たからである。その時間と手間の元は取らねばなるまい。
けちな人間は、時間ですら無駄に使いたくないのである。そして、新たに欲しいものを見つける次第となる。
バーゲン品で得したと思ったら、こっそり損をしていないか、または、内に潜んだ新たなキャッシュアウトの機会(あ、こんどこれ買おうかなという思い)が生じていないか、確かめてみるべきである。
理由無き安売りはない。
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『18. 親戚の贈り物には用心しろ。』
何年も交渉がなかったのに、突然、連絡があったときは何かある前触れと考えてよい。
おそらくは、借金の話であろう。それか、保証人の話であろう。それか、マルチの勧誘か、健康食品・健康器具の販売である。
やばい話になればなるほど、直接的には攻めてこない。
計画的に、外堀を埋めるかのように、目的を図らんとするのである。
そこで、フェレンギ人は「用心」といっているのである。
特に、値の張る贈り物が来たときは、「あ、何かあるな」と思ってよかろう。
贈り物を頂いたら、即、次の日にでも家内か自分で百貨店に行き、値段相応の贈り物を返しておくべきである。
今の世は、インターネットの商取引サイトも多数もあるのだから、即、お返しの贈り物は可能である。
ぐずぐずしていることが、欲に絡め取られている証拠だ。
ぐずぐずすればするほど、心中の恩の意識は増殖する。
贈り物の返しは、建前では一種の礼儀作法であるが、しかし、本音のところでは、交渉する際の立ち居地の補強であり、心理的な武装のひとつでもある。
数千円の贈り物をもらい続けたばっかりに、親戚のバカ息子の就職の保証人になってしまった人を知っている。
会社の金を使い込んで、その請求が回ってきて、酷い目にあったという。
特別に何もないのに、親戚から贈り物が来たときは要注意である。血のつながりがあるが故に、断りにくくく、理性を発揮できなくなる。
貰いっ放しという「欲」が、そうさせるのである。
返せ、返せ。熨斗をつけて返せ。
転ばぬ先の再贈呈である。
フェレンギ人も、
2010年9月10日 9:35 AM
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