| カテゴリー: 過去のススメ |
お勉強をしておりますと、ときに、すべてを1からやり直さなければならない事態に遭遇するかと存じます。
実にめんどくさく、そして、物憂く感じているかと忖度いたします。
もちろんのこと、わたくしも、何度もこういう「振り出しに戻る」「1からやり直し」の状態に陥ったことがございます。
やはり、めんどくさくて、放り投げてやめたろうかしらんと思い詰めたものでございます。
しかし、でございます。
このやり直しというのは、いったい何かということでございます。
何かって?単にめんどくさい作業ではないかと考えるのは、ちと、早計であるかと存じます。
それは何故かといいますと、「やり直すことができる」という状態こそが、一種の特権であるからでございます。
本試験のそのときに、(ああ、もう一度だけ、テキストを読み直しておけばよかった)と心底思ったとしても、どうすることもできません。
試験の終了時刻までは、針の筵に座ったままで、これまでのお勉強の努力ががらがらと崩れ去って行くのをぼんやりと感じるだけが関の山でございます。
(もうちょっと、もうちょっとだけ、頑張っておけばよかった・・・)と本試験中に臍を噛んでも、あと1年ワンクールお勉強を続けなければならない事態に、少しの変化もございません。
よくよく考え直してみれば、「やり直せる」ということ事態、まだましな状態なのでございます。
ましというよりも、まだまだ合格できる可能性を秘めた現状なのでございます。
本試験でそう思うのに比べてみれば、100倍もいい状態とさえ言えるのでございます。
やり直すことは、確かにめんどくさいものでありましょう。
そして、これをお読みの方は、おそらく根はまじめでありますから、途中で放り投げることなく、やり直し作業に着手するかとは存じます。
しかし、義務からそうするのではなく、やる権利であることを思い起こして欲しく思います。
やらなくちゃと思ってやるのは気が重いものでございますが、やれるんじゃんと思えば、今の現状のやり直しが、なんだか合格を担保するもの・保証する行為のように感じれるようになるものでございます。
そうすれば、やる気も多少は上昇カーブを描くのではないでしょうか。
人間、結構単純でありまして、フランスのある心理学の実験の話ですが、膝まずいて胸の前で指を組み、神様にざんげするように電話帳を声を上げて読みあげると、実に敬虔で謙虚な気持ちになるとの事でございます。
そう、その姿勢は聖書を読む姿勢なのでありますが、聖書が謙虚にさせるのではなく、姿勢がそうさせている、というわけでございます。
根は単純なのでございます。最初は騙された感で何が権利だいと思っていても、これがチャンスなんだと思い返してイヤイヤ感を圧倒しておけば、いつの間にやら気持ちも変わってくるものでございます。
経験豊富の皆様方におきましては、「あのときもう少しだけやっておけば、がまんしておけば、がんばっていれば、下調べをしておけば」というご経験があるかと存じます。
当時の過ちから得られた教訓を発揮するのは、今このときなのでございます。
積年の宿題を、今やり終えてくださればと存じます。
今が
2009年10月21日 9:59 PM
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