| カテゴリー: 過去のススメ |
トラブルやアクシデントは世の習いでございます。
ほっといても向こうからやってくるものでございます。
雑事雑用義理付き合い、良縁悪縁入り混じっての日々のわたくしたちでございます。
しかしながら、わたくしたちは最早ぴちぴちの学生ではありませんので、お勉強以外の諸々のことにも、意を重ねながらの勉強となるものでございます。
とはいえ、わたくしたちは習慣の生き物、環境の動物と申します。
手痛いトラブル等が続いても、その事態に慣れきってしまうものでございます。
わたくしたちは、よくないこと・快適ではないこと・意にそぐわない事態であっても、段々と慣れてしまうのでございます。
長い試験勉強でありますので、時折、現状の問題に埋没してしまい、いったい自分が何をしているのか、何をしたかったのか、ひいては何のために生きているのかわからなくなってくるかと存じます。
ふと、何のためも勉強かと、その意図を掴み損ね、忸怩たる思いに包まれるときもあるかと存じます。
わたくしは思いますに、そういうときこそ、わが志を思い出すときであると考える次第でございます。
「志(こころざし)」といっても、大層なものではありません。天に誓って何たらかんたらをいうものではありません。
志とは、日常生活での心の持ちようであると講釈で聞いたことがございます。
志の漢字の成り立ちは、冠の「士」に脚の「心」で出来上がっているものでございます。
士とは「土」から生まれてきた字でございます。土の下の横線が短くなって出来上がった漢字でございます。
士の作りの意味は、人が土から離れた、つまり、人間が二足歩行となり動物ではなくなってからは、心がないと揺れ動く不安定な生き物になったというのでございます。
士に心が引っ付いてこそ一人前となるというわけでございます。
何も考えを持たず、心意気・定見意見もない人物を見て、心底情けないと思ったことは多々あるかと存じます。
それは、心の無い単なる士だからでございます。
しかし、それは、我が身を写す鏡でございます。
自分が何をしているのかわからなくなったとき、何をしていいのかわからなくなったときは、ぜひ、わが志を思い起こしてくださればと存じます。
士のみでは不安定なのでございます。逆にいえば、心がなくなっているので、不安定さを増すのでございます。
心が大事といいますが、どのような笑顔を作っても心が入っていないと何の効果もないことは、皆様体験してございます。理解しているのではないかと忖度いたします。
少し時間を取り、一体全体何を自分はしたかったのか、かつての志を改めて頂きたく存じます。
きっと、「やってやる!」という隠れてしまった情熱を取り戻すことができるかと存じます。
志を改めるとは、冷え切った闘争心を再加熱することでもございます。
志が固まりさえすれば、目の前の種々のトラブル事件などは屁でもないことにお気づきくださればと存じます。
かかってこい
2009年4月22日 10:54 AM
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