勉強で「わからない」に遭遇するのは、当たり前。簡単にはあきらめずに「うーんうーん」と考えてみる。当該「うーんうーん」は、誰にでもできる問題解決方法である。
「わからない」ものがあるのは、お勉強の定めでございます。
お勉強とは、「うまくいかないことをする」からこそ、価値のある行為なのでございます。
すらすらできてしまうことは、「価値」はそれほどありません。
小学一年生の漢字ドリルがすらっとできても、称えられる大人がいないのと、同様の理屈でございます。
お勉強におきましては、考えても考えても、わからないものはございます。
調べに調べても、しっくり来ないことはたくさんございます。
解説を何度読んでも、腑に落ちないことがございます。
テキストを何度読んでも、「お前、これ、間違ってんじゃねえか?」と訝るほどに、わからないときがございます。
(教材の内容に疑義を持ったときは、大概、こちらのわたしたち側が間違っているのがほとんどです。)
このような、煮え湯的なものをたくさん頂戴するのがお勉強でございます。
これは、配偶者/恋人がらみの煮え湯とは、異なる味わいでして、慣れることがございません。
しかし、それでも、「うーんうーん」と頭をひねることが大事でございます。
もちろん、ずっとずっと考えに考え込め、というのではありません。
「うーんうーん」と頭を抱えてみて、何の光明も見えずに30分が経過したら、やめます。
ほいで、頃合を見て、少しの時間でいいので、再び、当該「うーん」事項を考え直してみます。
電車バスの待ち時間、銀行ATMに並んでいるとき等々の隙間時間が、最も適しているでしょう。
考えて・反芻してみても、おそらく名案なり解決なり対策なりは出てこないでしょう。
しかし、それでもいいのです。
「うーんうーん」と何度も何度も考えていくうちに、必ず、フト、こーしたらいいんでないか?という閃きが生じます。
それは、いつ起きるかわかりませんが、何度も何度も、時間を置いては「うーんうーん」をしていると、発生するのでございます。
そもそも、わたくしたちの脳の働きなど、優れたものでないから、お勉強をしているわけでありまして、ならば、何度も何度も、考え直してみるのが、わたしたちの脳の動かし方として、適しているものかと存じます。
わたくし個人の経験からすると、「なんだかなー、わかんねえなあ、誰か代わってくれんかね」と匙を投げようとしたあたりで、しつこく「うーんうーん」としていると、ズバッと見えてくることが多いように存じます。
「うーんうーん」は、どんな人にでもできる「方法」の1つであります。
わからないものがあっても、あきらめず、「うーんうーん」をしていきましょう。
2012年10月1日 10:29 AM
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