『広告屋と紙屑屋は勝手口から、という時代が続いた。そうした社会的侮辱と軽視の中にあって、広告ならびに広告活動の地位向上』を図る吉田秀雄が語った“超絶指針”。
先の「電通鬼十則」も過激でした。
しかし、このページで紹介する「広告の鬼になれ!」も輪を掛けて厳しくて、胃の辺りがギリギリして来る人もいるかと思います。わたしもその口です。
「そうか、鬼か、それならば広告の鬼になろう」と言い切った吉田の執念が、「広告の鬼になれ!」には感じられます。
『鬼とならねば、為らんのか』-鬼の執念を感じ取ってください。
個人としては仕事の鬼となれ、
職業人としては広告の鬼となれ、
ということである。
仕事の鬼となるということは、仕事以外眼中何物もない。
広告の鬼になれということは、
広告のためにはそれ以外何物もない
ということであり、
仕事のためには全てを食い殺せ、
広告のためには何ものをも犠牲となし、
踏み台にせよということである。
(参考文献:われ広告の鬼とならん)
最初に読むと、ぎょっとするものがあります。
しかし、この過激な「広告の鬼になれ!」という文章には、心を打つ「威力」があります。
が、よくよく感じた「違和感」を考えてみると、「そういうことになるなー」と思うようになります。
何かを成し遂げようとするなら、何かを犠牲にしなければならないのは、単純な真理です。
そして、利用できるものがあれば、とことんまで使い倒し、踏み台にしていくのも、「やろうと思っている」なら、自然とそうなります。
「広告の鬼になれ!」に秘められたメッセージとは、「本当に全力を尽くすこととは?」という“疑問の提示”です。
有体に言えば、「ほんとにやってんのかよ?」ということです。
わたしたちは、結構簡単に全力を尽くすと言ったり、または、そう言われるのを聞いたりします。
しかし、「全力を尽くす」とは、裏返せば何を犠牲にしたか、ということです。
「本当に全力を尽くす」ことが成立するには、何を食い殺し犠牲にし、踏み台にしてきたのか、そういう事実があってこその「全力」なんだというわけです。「全力」とは、執着の度合いなんだと。覚悟の度合いなんだと。
わたしたちが使いたがる「全力」の、もう一段上の「全力を尽くす」とはこういうことなんだと思います。
何だかぐじぐじしてきたら、我が身にこう言ってみるべきです。
「鬼」が足りないんですよ。
『鬼とならねば、為らんのか』-常人は、時々鬼になるといい。
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