語学英語とコトバ英語、自分英語

英語の勉強をしてきて思うことは、英検を含めて語学の勉強とはなんだろうと。英語圏にいない自分が、相手がいない文章や単語を繰り返した暁に、英語力が備わるのか、と。 オキテメールはコチラ

サソ
語学とコトバ

わたしはあまり英語が上手ではないのですが、まあ、人生の一部を英語の勉強に使ってきてしみじみ思ったことを以下に書いていきたいと思います。それは「英語」には種類があるということです。

いま、わたしが明確に英語に対して意識しているのは、このページのタイトルにあるように英語には「語学英語」と「コトバ英語」のふたつがあるのではないかと思うのです。

このふたつ、特に難しい理屈で分けているのではありません。相手がいるかいないか、この点だけが違うのです。

究極的にいえば、「語学英語」とは独りでできてしまうものと考えます。考えても見てください。

わたしたちがこれまでやってきた「英語の勉強」は、そのほとんどに「相手」がいないことに気がつきませんか?

ふと、このことを思い立ったのはスイスの6ヶ国語を話す人をテレビで見たからです。「6ヶ国語」。。。その使える言葉の多さに、英語ひとつモノにできなかった自分とどう違うのか、大変、不思議に思ったものです。

まずはこのスイスの地理的環境を見てください。

スイスの地図


ね、スイスってまわりにたくさんの国があるでしょ。

フランス・スペイン・オーストリア、ドイツ・・・おそらくそれぞれの国や民族の言葉や文化を持った人たちがスイスにはたくさん住んでいることを想像するには難くないでしょう。

また、スイスは金融立国なのですから、当然のごとく英語圏の企業の金も集まってきます。英語をしゃべる機会が多いのも想像に難くありません。

スイスのこのような地理的環境・経済環境であるからこそ、6ヶ国語をしゃべれる人が出てくるのではないかと思ったのです。

日本でも『方言』という言語様式があります。

わたしはいくつかの地方をテンテンとしてきたので、「京都風」または「大阪風」の関西弁、名古屋弁、播磨風の言葉、讃岐弁と結構、多くのニュアンスを持つ言葉を使い分けてます。

※ 言葉のニュアンス
面白いことに情感を込めて語るときは「関西」の言葉で、論理的に話すときは「名古屋弁」です。警察に職務質問を受けたときはなぜか。。。

「〇〇なもんで、はっきりいってわからんのだわ。だで、そんなこと聞かれても答えられんのだわ〜だもんで〜。。。」みたいな感じで応答しております。

ちなみに敬語は明らかに関西有利です。「〇〇はんがゆーてはりました」というように「〜〜〜してはる」という語尾は何にでも使えるのでとりあえずのしのぎに重宝します^^

目上でもなく目下にでも使える便利な言葉です^^>「〜〜〜してはった」

ちなみに初対面の人にはその出身の地方の言葉を聞きます。方言やらその地方での名詞の用法やらイントネーションを聞いてそれを元に話すと妙に、親近感が持てて距離が近づく感じがします。

しかも『方言』は意識して覚えたことでなく、なんとなく使えてしまうものなんですよね。会話や日常生活の中で自然に身についていくものかと。

こんな風に、違う言語的な背景を持つ誰かとしゃべるきっかけさえあれば、それはきっと暗記を伴う「言葉を記憶」する行為を和らげるどころか、もっと積極的に働きかける因子になるのではないかと考えたのです。

わたしの友人にTOEIC?かTOUHU?の英語検定の点数が980点とった人がいます。この酒飲みが、なぜ英語の聞き取り、読み書きができるようになったのか、分析しました。

単純です。彼はよく海外旅行に行くからです^^


一度、この酒飲み肥満のTOEIC980点の友人に英語の勉強の仕方を聞いたのですが、「英語のBSニュース」を聞いたり「英字新聞」「英語のニューズウィーク」を読んだりしたらいいよ、といわれました。ですが、最も効果のあるのは「海外旅行」といわざるを得ません。

大学のときに国際法を学んでいたためか、海外に知人が多く、それだけにわたしと違って「英語が身近にあった」環境なのだとしみじみ思ったのです。

これをわたしの環境にかんがみれば、「英字新聞」「英語のニューズウィーク」なんて、日本語版でもつまらんのに英語のアレなんて読めるわけがないのですよ。もちろん、海外に知人はおらんしのぅ。。。という現状でした。

英語という言語の先に相手がいるかいないか、これはとても大切なことだと気づいたのです。

もう、ペーパー相手の勉強なんて肉体的・精神的にできないわ、と決めたのです。英検の勉強のときにやはり辞書を引いたのですが、苦痛で苦痛で仕方ありませんでした。

こんな苦痛は若いときにしかできないでしょう。

さて、先ほど、「相手がいるかいないか、これはとても大切なことだと気づいたのです。」と書きましたが、こう思うようになったきっかけはメールの交換の経験です。

メールフレンド(ペンパル)募集のサイトで知り合った人とお互いに語学勉強の意味を込めてのメールのやり取りをはじめたのですが、この楽しいことといったら!!

他人の文章を追うのはつまらんですが、しかもそれが自分の興味外であればなおさらつまらないのですが、自分で文章を作るのは楽しいのですよ。

文法とか何でも適当でいいから、とにかく何かを伝えようとすることが、こんなに英語を軽くするとは思いもしませんでした。

「 the most famous japan food is nattou. a nattou is like that.

bean ,smoked by water, add "nattoukin", neglect 10days, so finished.」

稚拙でアレでアレな文章のメールを送ってました。でも、40%ぐらい通じたし、添削もしてくれました。これは、こういう表現をするよ、みたいな。

考えてみれば、われわれの英語は常に型があって、それに合わせることが英語の勉強であった気がします。型を合わせる行為が楽しいわけがない。

最近は、自分の興味のある分野の英語圏サイトを回ったり、BBSで英語で普通に自分の知らないことを質問しています。

ぶちゃけ、BBSの書き込みやメールを見てみると、英語圏の人でもスペルは間違ってるし、おかしな構文のときや論理的に破綻している文章なんてザラです。だけど通じています。

これが生きた言葉なのでは、と思います。教育における英作文が全くつまらないのは、「模範解答」があるからです。そら、つまらんわ。死んでるもん。

これは当たり前を言えば当たり前なのですが、英語を母国語をする人の文章はやはり、流暢な感じがします。

だから、もっといい表現はできないか!!もっと伝えれる文章はできないかと思いながらの辞書引きと、単にぺーパーテスト1点2点を稼ぐときの辞書引きと比べてみてください。

そのほか、英語の文章にあたっていてユーモアやウィットに富んだ文章を抜き出し、「今度使ってやろう、イヒヒ」とノートに記入するのと、「問題1 以下の文章をry」とどっちが「価値」があるかと比較してみてください。

全くそれぞれの行為は異質です。

これまでの学校教育や英語勉強とは異質の感覚を味わえることでしょう。それほど、相手がいるかいないかの差は大きいのです。

電子メール

意外にメール募集サイトは多くて、かつての郵便でのペンパルに比べたらものすごく手軽に英語圏とのコミュニケーションを図れるんです。

(結構、ヤバメのところのあるのでそれは慎重にチェックを。いいところか胡散臭いところかを判断するのも英語の勉強かと^^;)

最初はうまく書けるのか心配で躊躇してましたが、きちんと募集要綱を見て送れば大概、どんな下手な英語でも返事は返ってくるようです。

ちなみに最初のメールは50代のオマハのおばさんで公立小学校の教師で日本語を学んでいる人とメールでのやり取りが始まりました。

日本文化について何でもいいのでメールちょ、という募集だったので「納豆」についての説明とグーグルの画像検索で拾った画像を添付して送ったことがきっかけでした。

ホント、なかなか英語力が上がるものなのですよ、実感がありました。これまでの英語の勉強にはなかった感触でした。

ナットウの説明から自分の英語力の実感があったんですから、世の中わかりませんねぇ・・・。

さて、タイトルの「語学英語」と「コトバ英語」なのですが、言葉とは誰か話す人がいること、コミュニケーションの相手がいることが前提だといいました。

いっぽうの「語学」は独りでもできてしまうものだといいました。わたしの語学としての英語はまさに自己完結です。高校のときは文法書と単語帳、長文問題集が勉強の相手でした。

そして。。。英検の問題集。よく考えてみたら、英語を口に出したり英語で伝えたり、英語でコミュニケーションしたのは数えるくらいしかないわけでした。

英語力、いや、語学の能力とはコミュニケーションの能力ではないかと思うのです。もちろんコミュニケーションを図るには相手が要りますし、相手を探してくるのもコミュニケーション能力のひとつでしょう。

わたしが英検の勉強をストップしてるのはめんどくさいからではなく、自分の生活環境と英語とが全くかけ離れており、そんななかで英語を学んでも、ぶっちゃけ、コミュニケーションの道具たり得ないからです。

自分の英語じゃない気がするのです。

といいますか、試験問題という形での英語の学習が人生にどれだけの実りがあったのか、激しく疑問なのです。英語を学んでから10数年、とくにこれといってなかったのですから。

先ほど述べましたが最近は、自分の興味のあるサイトを回って管理人に質問したり、BBSをチェックして、だんだん生活に英語的要素が入ってきてるのでようやく変化が起こっています。「ナットウメール」が変化を与えたのです。

英語という言葉を学ぶ前に、自分の生活環境をどうかえたらいいかを考えるのは結構、英語の勉強にあたって大切だと思います。

大学受験等を別にすれば、英語をものにするには、自分の英語を使っていくしかないと思います。

これは英検を受けに行ったときの違和感です。受験者の中に「おじさん」「おばさん」の姿をよく目にしたのです。「ほう、勉強熱心よのぅ」と思ったのですがよくよく観察すると、「子供の付き添い」であることが判明しました。

最近、塾や学校では英検の3・4級を取らすことを推奨しているようです。

彼らを見てフトこう思いました。おそらく彼らのほとんどは英語圏で売られている「トマトの缶詰」の成分表も読めないだろうと。

英語がしゃべれたりある程度使えたり、使ったりしている人は、英語の勉強はこういうものではないから、3・4級クラスの英検なんて受けさせないでしょう。お金がもったいないですから。

わたしは自分の子供にとって「英検」の勉強が、「英語」の勉強に値するなるなんて考えられないです。自分のこれまでのことを踏まえれば、結局、何も使えない知識が増えるだけの可能性があるわけです。

さて、コミュニケーションに必要なのは中学英語・高校英語くらいで十分のようです。わたしもその程度のレベルの単語しか使えないです。

ですが、わたしの趣味の株式投資の分野では結構、マニアックな単語、普通では使われていない語彙をたくさん持ってます。それはなぜかというと、それがわからないと株式投資のサイトのコンテンツや企業の財務諸表が読めなかったりするからです。

自分は何を知りたいのか、何を伝えたいのか、追求してみてはどうでしょうか?おいらは「ナットウ」の説明メールが、自分にとって、コミュニケーションを前提とした英語学習、生活感のある英語学習の始まりでした。

そんなところに英語の勉強を継続させ、みずみずしい動機を生む何かが潜んでる気がします。そのため、いきなりビジネス英語なんて始めても、つまらなくて絶対続けられない自信があります^^;

もし、あなたが中学生・高校生なら、現在の受験制度から鑑みて、現況の主流勉強法「問題集・テキスト中心」は合理的です。暗記中心の勉強は若いときにしかできませんwww。このときに徹底してアタマに語彙を貯めるのもいいでしょう。そして、ときにペンパルやメール交換等で自分の英語力を試すのがいいかと。

でも、多少でも人生経験をつんだ人ならば、もっと自分にあう適切な形で勉強をカスタマイズできると思うのですよ。意外に自分の専門分野は、「英語」で書かれていてもなんとなくわかってしまうものなんです。

英語学習の突破点を、安易に書店で買える問題集や、お金を払えば買える語学教室などに注ぎ込む前に、もう少し違った形で行うのはどうですかと提案したいです。

特にこれまで英語で挫折をしてきた人に。

少しの生活の改善が最も安く、手軽で、続けられる方法なのではないかと。おいらにとって、ぶっちゃけ、この半年ほど英語が近づいてきた年はなかったです。

ほんの少しのクリックとキーボードのタイプでこうなるのですから、インターネットはすごい機能ですねぇ。。。

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