はじめに−前門のド忘れ、後門の忘却 最初に、語句の使い方のニュアンスを。定義ほど堅苦しくはないのですが、こういう感じで言葉を使っています。 記憶・・・問題演習やテキスト等々で何回も触れることで憶えたこと。 理解・・・その章、単元での内容の構造・意味を知っている。 納得・・・これが、このページで考えることです。 手前味噌な経験で申し訳ないですが、コレまでの資格試験では「記憶」と「理解」だけで乗り越えれました。 しかし、どうも、中高齢の年代になると、どうしても3番目の「納得」という作業が必要なのでは?と思うようになりました。 恥ずかしい話ですが、「記憶」できたと思ってもスッキリ忘れきったり、「あーそういうことね」「そういうことだっとのか」と「理解」してもスカッと忘れきることが多くなったのですよ。 わかりやすく考えるのが納得の第1歩 次の語句は、わたしの趣味の株式投資の世界での有名人、ピーター・リンチの言葉です。かなり、重要なことをすらりと述べています。 「なぜ、その企業の株を買わないといけないのか、小学生でもわかるように説明しよう」 つまり、説明できない企業の株は、その企業を理解していないのだから買えるわけがない、というわけです。これ、単純そうに見えて、かなり高度な作業なのです。 小学生でもわかるように、その企業と業界の本質を突くのは大変難しいのです。難しい言葉を使わずに、説明しないといけないのですから。 また、オイラの好きな作家の司馬遼太郎さんは、何か新しいことを始めるときは、小学生か中学生でもわかるくらいに優しく書かれた本を2〜3冊読み始めるそうです。 蛇足ですが、司馬遼太郎さんは、新しい小説を書き始めるとき、主人公についての資料はもとより時代背景まで含めて、それこそ当時の落書き帳からはながみに書かれたものまで、総数ダンプカー3台ほどの資料を買い占めるのは有名な話です。 やはり、取っ掛かりが何もなく、自分が把握できないことはできない。そんな状態で続けても効果がない、のはこの数年で味わい尽くしました。 納得とは他者性を持ち込むこと 物事を考えるときは、「いろんな視点で見なさい」というのは、耳にたこができるほど、よく聞く言葉です。 なかなか、これも難しい作業です。要は、どのような視点を持つかなのですが、わたしは以下のような、適当な分類を行っています。 「小学生のレベル」「中学生のレベル」「高校生のレベル」「大学生のレベル」「社会人のレベル」「業界人のレベル」etc。。。 一番よく使う視点は、小学生のレベルです。実際、近所のガキんちょに説明するようにイメージしながら考えます。わかりやすく、言葉を単純化して、コミュニケーションが通じるように。 このレベルがクリアになると、あとの中学生とかのレベルは、継ぎ足し継ぎ足しで考えていくので、最も単純化されたベースになる部分が大切なことがわかります。 この数年、自分ではわかったような状態では、はっきりいって即時忘却してしまうことを経験しています。この「わかったような状態」は、最も単純な部分の理解がおっついていないか、それか理解していないかのどっちかです。 加齢による記憶力の低下は、このようなあやふやで自分にとってどーでもいいことは、即、忘れきります。数時間後には忘れているでしょう。 そのためにも、誰かに説明してわかってもらうかのごとく、新しく学んだことを、自分の言葉で再構築してみることをお勧めします。 テキストにそのまま載っている言葉を、そっくりそのまま使うよりも、まずは自分の言葉に直してみれば、意外と早く記憶に定着していきますよ。 誰かがいると、記憶が速い 大きな声を出して原文を読む。訳をしない。毎日きっと1時間はあてる。 「古代への情熱」 H・シュリーマン 小学館 1400円 これは、英検の学習のコーナーで紹介したシュリーマンの英語の勉強法の引用です。今のところ、コレを越えるような学習の指導理論はないと思います。これほど、うまいやり方をここまで簡潔に表現することもできないでしょう。 シュリーマンはこのやり方で英語、フランス語からロシア語等々を、中年になってラテン語、ギリシア語、アラビア語までをマスターしたのです。 一番、お気に入りの箇所が「その言葉で自分に関心のあることを書いてみて、先生に直してもらう。」という箇所です。 単に憶えるだけでなく、誰かに見てもらうために、自分の言葉で再構築する行為が、いかに記憶に残るか目からウロコが落ちたものです。 実際に応用してみること 実際に応用できないものは、結局のところ、忘れてしまいます。 かつて取った宅建免許の知識は、ほとんど残っておりません。残っているのは、その他の知識(※1)くらいで、物件を見るときに役に立つのでかろうじて記憶に残っております。 ※1:砂浜や元埋立地は地層が不安定とか、造成地はどのように造成されたかで安定度が変わってくるとか、つまり雑学な部分。これは宅建の勉強で得た知識のフィールドです。 権利関係(※2)も憶えてます。ただ、宅建業法や宅地造成法?とかは、ほぼ忘れました。これらを憶えられたのは、やはり若さでしょう。今、再度宅建を受験したら、4択なので楽とはいえ、苦痛だろうなぁと思います。 ※2:これらの知識がベースになって競売建物を物色中。借地借家法と不動産神話の関係など、結構、面白い発見がありました。 とはいえ、再受験のときは、オイラの駅前には不動産屋がぎょうさんあるので、そいつらの仕事振りを見ながら、あいつらならどうやってこの問題を考えるか、などを妄想しながらやりそうです。 自分が資格に合格して実際の作業者になった場合、どんな風に考えるかも記憶に残りやすい作業です。 実際的に考えてみる これは、社労士などの手続き系の資格試験に便利なやり方でしょう。いまでも、社会保険労務士の勉強のときは、実際的な思考をしておけばよかった、と反省しています。 実務書が手に入るならば、それも勉強道具として利用すれば良かったと思ったのです。合格して実務書を見た感想ですが、「あーこんな風に加入要件は事務化されてるのね〜」と、いらざる苦労をしたなぁと思うことが多々ありました。当時は加入要件一覧表をごり押しで暗記したものです。 要するに、この紙切れを出すために加入要件は憶えないといけないのね等々、実務書を読むことで多くを受験後に納得したものでした。 どのみち、読まないといけないのですから>実務手引書 本屋に行けば、社会保険・労働保険の手引き書など腐るほど売っていますし、年金の本もコレデモカと売られています。むずかしいテキストのウンコややこしい制度が記憶できないときは、「学んでいることの実際の姿」をみていくことで、大きく改善できます。 自分の社労士勉強時には、できるだけ具体的なイメージをしました。厚生年金の支給調整などは、具体的なイメージができる対象がある分、楽なのです。近所のおばちゃんとか、おばあちゃんやおじいちゃんを当てはめれるから、彼らに説明するように考えていたのです。 こういう制度と制度だからこうなんだ、と納得できないときは説明もうまくできないものですよ。 自分の受ける資格の、実務書があればどんどん、納得の助けに使いましょう。意外に同じ事柄でも試験から見る印象と、実務上でのそれは違っているので、記憶に残りやすいです。 本当は実務の経験があれば最適なのですが、そうもいってられないので本の力を借りましょう。 記憶に磨らしてみる(すらしてみる) これは、スッキリスッカリ忘却を考えてみたとき、思い当たった感触を表現してみました。記憶に残らないときはなーんかアタマの中を滑っていってる感じがしたのです。 パチンコの銀球が上から落ちてきて、真ん中のチャッカーにも入らず、釘にも絡まず、す〜〜と下のお口に吸い込まれていくように。 アタマの中で滑ってるんやろうと思うようになりました。 パチンコでも銀球が釘に絡まないと、どーしようもないのです。資格試験の記憶も同じでしょう。アタマに入れても、アタマのしわに絡まず、忘却の井戸に飲み込まれていったら適いません。 そこで、コレまで生きてきた中で、何か関連することはないだろうか?と何か引っかかるものがなかったかを強く意識するようにしています。 とにかく、勉強で学んだことの生存者を、1%でも残そうと奮闘しています。。。orz 最後に−試験問題は本質的にレベルが低いものだ 人生の問題に比べたら、試験問題なんて比較にならないほど、簡単な問題です。必ず正解を置いてくれてます。合格が必ずあるなんてことは、八百長ですわ。誰かが毎年成功していく世界なんてあります? これは、アレですが、試験というのは「問題がある」というのが逆説的ながら、簡単だと思う所存です。 人生や組織の問題、経営や商売の問題は、多くの場合わかりません。問題があるのかないのか、進行しているのか否かすらわかりません。しかしながら、それこそ、解決するに値する問題ではないかと思うのです。解答していく意味があるのだと。 このような不認知な問題をクリアしていくことで、組織や人は発展していくものでしょう。資格試験は、問題が設定され、そのためのアプローチがあり、資料があり、解答がある、得てして幸せな空間です。 資格試験で問題の解答に必要になる知識の多くは、ぶっちゃけ、無駄になることが多いです。しかし、その問題をマスターしていく過程は、取り組みようによっては、人生にプラスの影響を与えます。 「納得」のプロセスは、試験問題を通して社会の何かをみてやろうと、そしてその垣間見たものを誰かに伝えようとする、余分な試みです。 蛇足ですが、最初から納得できるレベルに引き上げながらやれ、ということではないですよ。あくまで、問題演習とテキストの読み込みがメイン学習法で、「はっきりしていないこと」「なんか忘れてしまうこと」「間違ったこと」を深く掘り下げていこうという試みです。 全部を追求していったらそれこそ、枯れ果ててしまいます。それをやるのは専門学校の講師などプロの領域です。受験生の範疇ではないです。 最後に、ユングの心理療法で有名な河合隼雄さんのエッセイから、心に残った一文を紹介したいと思います。 河合さんの師匠に当たる人がぼけてしまい、何回も同じ事を言ったり、いったことをすぐに忘れてしまい、また同じ事を繰り返します。ぼけの程度が相当にひどくショックを受けた、と。 しかし、「話が内的な深い話になってくると」師匠は一変し、「実に鋭く的を得た話がでてくるので驚いて」しまったとのこと。 「先生がぼけたようなことを言われたりするときは、こちらの話題が浅いときで、深くなってゆくと先生は実に的確になられる。」とのこと。 「先生の応答によって、自分の話題の程度が測られる」とのことです。 すぐに忘れてしまうことは、生きるにあたってその程度の価値しかないことを鮮やかに示しているのではないかと思います。 こんなことを考え出したら、無力感に包まれて出家でもしそうですが、試験で獲得した知識を誰かのために役立たせよう、役に立つ人間になろうと思えば、少しはアタマに残ってくれるでしょう。 ま、自己欺瞞ですから〜残念!! 再受験は辛いぜ斬っ〜!! 正味な話、短期での独学合格は年輪を刻むたびに、むずかしくなってきます。経験者は語る^^; 勉強期間が短いからといって、どうってことでもないのですから、どーーんと2年か3年くらいでやったるか、ぐらいの気構えでいきましょう。 おいらは、社労士や行政書士とかが運良く、短い受験期間で受かってしまったのですが、おいらの短期合格を今振り返ってみますと、世の中というのはうまくできているの〜ということです。 確かに受験自体は短期間ですが、さあ、その当時に即、独立開業して経営がうまく行ったかどうか、非常に否定的です。多分、潰れていたでしょうね。多くの必要なものが足りなかった。 合格して数年たった今なら、なんとか硬軟付けて、四方八方手を尽くし、ご飯に事欠くくらいにはいけると思います。それくらい、トータルで見たら時間がかかるってことです。 2年かけて合格、即開業で1年で軌道に乗せたら、オイラよりも成功者です。3年でも成功組みです。短期合格なんて吹き飛ぶほどの成果です。 試験だけに限定されず、もうちっと違う視点に立てば、今、自分のやっていることに意味を見出せると思いますよ。 同じ中高齢者への同志としての言葉は、まず、無理はしないようにしましょう。結局、自分が答えることができるようになればいいのです。 誰かさんは〇か月で合格できた、かもしれませんがあなたは違うと思います。過去の経歴や仕事の内容、どう生きてきたかで大きく受験期間はかわります。 コレまでの経験でも、これからしようと思っていることでも、何でもうまく利用していけば、いいってことです。 「誰がカモなのかわからないときは、自分がカモなのだ」 オイラの趣味の株の世界の言ですが、自分を見失わずしっかり足をつけて、これからも何かを学んでいこうと思う所存ですのよ。 長文読解、お疲れ様ザマス。
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