はじめに-フジ子・ヘミング
(Ingrid Fujiko V. Georgii-Hemming )
ロシア系スウェーデン人建築家のヨースタ・イェオルィー=へミングと、日本人ピアニストの大月投網子の間にベルリンで生れる。無国籍。「リストとショパンを弾くために生まれたピアニスト」「リストの申し子」と評される通り、リストやショパンを得意とする。
(By Wikipedia)
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30歳のときに、ドイツのベルリンへ留学しました。ただ、当事の彼女は無国籍だったために、赤十字の難民という形で、海外へ出発しました。
特に裕福という家庭に生まれたのではありません。ただ、才能によって、才能に導かれた留学と思いました。
そして、この留学から彼女の数奇な生涯が始まるのでした。
なお、彼女はネコとタバコが大好きです。
フジ子さんの写真は、タバコを吸っているシーンが多いです。
ネコは、CDのラベルに、ひょっこり印字されていたり、解説のなかでイラストとして登場してます。
心を打つのは、その数奇さ
フジ子・ヘミングさんの生き方に、多くの人が感銘を受けたのは、その数奇さにあると思います。
まず、才能がありました。子供の頃から、天賦の才能、世界レベルといわれてきました。
そして、努力がありました。母(留学時代は心の支えになった人)投網子さんから、猛特訓を受けたことを始め、世界的な人からレッスンを受け、自分で努力もしていました。
そして、出会いがありました。音楽をあまり知らないわたくしでも、耳にした事のある音楽家カラヤンやバーンスタインとの遭遇がありました。
そして、チャンスがありました。バーンスタインの前でピアノを弾くチャンスが与えられ、彼の御眼鏡に適います。
そして、渇望がありました。留学時代の彼女は貧乏で、食べることさえ適わない日々が続きました。誰よりも成功を望んだでしょう。
チャンスはたくさんあったのですが、それらは、なぜか彼女の手から離れてゆくのです。
最も読むのがいやだったのは、千載一遇のチャンス〜バーンスタインの前でピアノを弾くことができ、
お眼鏡に適ったという、めったにないチャンスを掴んだシーンです。
バーンスタインのお眼鏡に適った彼女は、彼の助力によって、演奏会が開かれることになりました。
しかしながら、演奏会の数日前になって、聴力を失うという、不運に見舞われます。
普通に生きていても、聴力なくしたら引きますよ。
それが、アンタ、音楽の命である耳ですよ、音楽家の。
くわえて、アンタ、人生の一番の桧舞台の前で、ですよ。
演奏会がうまく行けば、長年待ち望んでいた場所にいけるんですよ。行くための才能も努力も舞台も、全部そろっているんですよ。
それでも、そのチャンスをモノにできないで、沈んでいくんです。
ほんま、読むのが辛かったです。しかも、淡々と書かれているので余計に凄惨なのでした。
才能というのはふたつの側面がある
本書を読んでいくうちに、才能というものはふたつの面があると思いました。
ひとつは、能力そのものです。たとえば、本書のメインモチーフである「ピアノ」がこれにあたるでしょう。
そして、もうひとつの「才能」というものを構成しているのは、「待つ」という能力ではないかと思いました。
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本書を読むまで、忍耐力−待つという能力は、「意識する」ものだと考えていました。
「がんばろう」とか、「粘り」といったことばで表現されるものは、意識的にそうしているものでしょう。
意識して、「陽の目が来るまで、待つ」
というニュアンスです。
しかし、本書を読んだとき、もう、意識を超えたところで、なにかを「待つ」という生き方をした人がいたことを知りました。
かっこいいことばでいうと、「超越論的待ち」とでも、申しましょうか。
彼女にとって、もうピアノの名声やらナンやらは飛んでしまっていた状態からのカムバック?(厳密にいえば、戻ってなくて、スタートアップですね^^)できたというのは、奇跡に近いものを感じます。
30まで仕送り、40になっても仕送り。
心の支えになったお母様が泣くなり、晩年、日本に帰ってきてようやく、陽の目を見ることができたのですから、生きるとは本当にわからないものです。
しかも、その陽の目というのは、クラッシック部門のCDの売り上げでミ前代未聞のミリオンを記録するわ、世界のヒノキ舞台カーネギーホールで演奏するなどなど、これまでの得ることができなかったもの
が、怒涛の如く押し寄せてくることになるのです。
人生そのものは、本当にわからないものだ、としか言いようがないというか、生きることの玄妙さというか、
なんとも生きる希望と光明を持ちうる一冊になております。
才能は、持ち主の都合を考えない
最も優れた才能というのは、「魂」まで到達しない限り、神様は認めないもののだろうか、と少し背筋が冷たくなるものを感じました。
前述しましたように、彼女は子供の頃から、練習と才能と出会いと行動と渇望があったのにもかかわらず、30・40代は仕送りで、なんの名声もなく日本に戻
り、うすーい縁の中から、桧舞台への階段を登っていきました。
それまでの不遇は、彼女のピアノが完成するまでの練習期間だったのだとも考えられます。
長いナァ・・・。できないならまだしも「できる」んやもんなぁ。。。
CDを聞けば、ド素人のわたくしですら、違うものを感じる力量なのです。
「人は長たるを以って、破れる」といいますが、彼女にとってピアノの才能があったということは、どういうものだったのだろうと考えてしまいました。
才能というのは、あってもアレだし、なくてもアレな、なんとも罪なものだナァと焼酎を傾けながら、読み終えたのでした。
ま、個人的には音楽や絵画といった、芸術的才能がなかったことにホッとしております。
無能でよかったなと、思えるなんとも不思議な一冊です。
といえば、身も蓋もないですが、何か人生の袋小路にいる人には、光明が見える一冊といえるでしょう。
親戚のお子さんにあげたいですね。
まだ、全部のCDは聞いていませんが、「La
Campanella-1973」、「カーネギー・ホール・ライヴ」、「トロイカ」はすごいものを感じます。
個人的に、「幻想即興曲」は好きなのですが、「トロイカ」に収録されている「幻想即興曲」は、コレまでに聞いたことのない音感で唖然としました。
フジ子・ヘミングさんのピアノを聴いていないのは、人生の損の部類ですので、このページを見たのを機に、ツタヤかアマゾンに走ってくださいませ。
「La
Campanella-1973」のラ・カンパネラは、ホントすごいナァと、音楽ド素人ながら思った次第でございます。数枚しか買っていませんが、
フジ子・ヘミングさんのCDは、これまでハズレがないのがビックリです。
日常的に、疲れたときに、しんどいときに、息抜きに、嫁の顔を見る前に、などなどの生活の場面に音楽をとりいれ、生活に癒しを取り込んでください。
一枚のCDから、自叙伝からパリ滞在記まで読んでしまったわたくしでございました。
CDはこれまでのところハズレがありませんが、本は類似本・2匹目のドジョウが多くございますので、書評欄をシッカリチェックしてくださいませ。
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